中洲若子の話(その17完)

昭和28年士郎9歳の時でした。若子が西日本新聞の名士録で士郎の父亥蔵が東京から来福したのを知ったのです。若子悩んだのかも知れません。「息子に自分の父親の存在を教えておこう」と意を決して士郎に一人で父親に会いに行かせました。

記憶の始めが途切れておりますが若子が命じるまま当時国鉄枝光駅でホームから跨線橋の渡り通路を通って改札口へ向かいました。多分父の会社が枝光に有ったので枝光の駅舎で「御目通り」させる手筈だったのでしょう。予期せぬことに人気の少ない渡り通路で前方から「おじさんの2人連れ」が話しながら近づいて来たのです。小柄な年配の男と少し若い大柄な男です。一瞬この小柄な人が自分の父親だと確信しました。ジッと顔を見て「おじさんですか?」と問いました。少年という生き物は恐ろしく神経が繊細で鋭敏なのです。この時の2人の男の表情が網膜に焼きつきました。「違いますよ」との返事の代わりに喜びじゃなく大きな戸惑いが優しそうな顔に少し歪んで現出したのです。傍の大柄な男は何か興味深そうに笑顔を向けました。士郎は咄嗟に間違いであったようにその場を通り過ごしました。

若子が後々になって士郎に言ったことがあります。「お父さんに会えたか?嬉しかったか。」の問いに「何一つあんたは答えなかったよ」と。その後数度父親に会いましたが「この人にとって俺は迷惑な存在かも知れない」との感じを抱き続けました。

昭和50年に若子のパトロン飯山が肝臓ガンで亡くなった時は若子と老婆(ラオポ)3人で中洲の住居から浜の町病院に向かって申し合わせたように無言で心底お悔みと感謝のエールを送りました。

ほとんど笑顔を見せない野武士のような飯山の残した唯一の無駄口は「俺なら絶対に母子を見捨てるようなことはしない」でした。中洲の土地と家は若子に残しました。若子が50年生きて悪戦苦闘して握りしめた唯一の財宝でした。飯山が亡くなった翌年昭和51年に若子が食事の店を始めます。

店の名前は士郎が「赤ひょうたん」と命名。

入り口の看板は赤いひょうたんです。当時神戸三ノ宮に同じ名前のサラダを食べさせる店があってこれから借用したのです。

不思議ですねえ。一方亭の名前は「一瓢亭」から来たもので看板も赤いひょうたんだったと高橋貞行氏の一方亭懐古録にありました。

若子のポツリと漏らした「いっぽうてい」を10年ほどかけて追いましたら以上のような物語が出て参ったのです。

これで中洲若子の話はおしまいです。お付き合い頂いて有難うございました。   若子があの世に旅たって5年、やっと若子の生涯のほんの一部を記録に遺してやりました。

昭和を駆け抜けた1人の女の話です。平凡な家庭で平凡な夫婦に収まる人生に憧れながら沢山の男を渡り歩いた女の話でしたが・・・。書き終わると現実の人生の方が若子にはずっと合っていたように思えました。

中洲士郎、折角起業してお金は何とかなったのですから、もう少し若子に贅沢させてやれば良かったのかな?  中洲は身内には少なからずケチでねえ。

それでも「今日は美味いもの食べさせるよ」そんな時に足が向くのは新天町の蕎麦屋「飛うめ」の上天丼でした。飛梅は天神地下街にも有って足の悪い若子には楽でしたが新天町の少しうらびれた狭い「飛うめ」の方が2人には落ち着きました。

甘ダレが少しだけ天ぷらの衣に染み込んだふんわり真っ白いクルマエビの天丼を食べている時はお互い大抵無言で・・・確かに幸せでした。

中洲若子の話(その6)

若子が死んで葬式も終わりかなりの虚脱状態の中で「さあこれからどうしたものか」思案しました。それに2013年から又しても会社は存亡の危機に立たされております。12番と13番の悪者が相呼応してまさに芸術的にルミカ事業を奪取せんとするところ、とても若子の弔いどころじゃありません。

しかし2013年11月14日若子があの世に旅たち14年4月10日は生きとれば88歳の誕生日。ここは意地でもなんとかしたい。やらなければ後で後悔する。「何時もの思考パターン」です。中洲で35年間気を吐いてきた「ひとりの女」の死を告知しない訳にはまいりません。知らせれば誰彼の胸に若子が去来するでしょう。じゃあどうやって知らせようか。思案しました。答えは10年前に閉めた若子の執着した店「赤ひょうたん」を改装し再開して若子の魂を慰めることでした。2014年4月あらゆる蔑視と抵抗に抗っての狂った船出です。

勿論中洲に同情して仲間の数人も助けてくれました。しかし愚行中の愚行、大変な労力と出費でどれだけ中洲若子の鎮魂になったのか。この鎮魂劇での顛末から「中洲若子の話」を拾います。

2014年3月17日改装なって人形小路のお隣さんや店の前を通り過ぎるお客が店のウインドウに記された次の奇妙な挨拶文を目にしました。

                         ご挨拶

私、中洲若子は昨年11月14日あの世へ旅立ちました。生きとる間皆様には大変お世話になりました。経営が苦しゅうなって店閉じて10年「人形小路」にはご不便おかけして済んまっせんでした。この度やっと息子と嫁が赤ひょうたんを再開します。昔の様にどうぞ「ビールば一杯飲んで行きんしゃい」

                      

                    中洲若子

                     ご案内

      4月10日(若子誕生日)開店

      3月20日-4月9日若子お別れ会

中洲一筋の女将若子が33年間守り育てた「赤ひょうたん」の灯が消えて10年。どうにか再開にこぎ着けました。4月9日まで「若子お別れ会」期間とします。ご近所の方、赤ひょうたんと若子をご存知の方、どうぞ立ち寄って若子の魂を慰めて下さい。ド素人がぼちぼち店作りを進めますのでご助言お願いします。

                            平成26年3月17日

                            若子の息子新店主

                                    中洲士郎敬白

ポップコーンバル

赤ひょうたん

電話291-4718

「憎いばってん品いいや。どうぞ来てみんしゃい」

大島東市の話(その3)

その崔朝栄とは中学で別れて20年経っています。士郎がUターンで故郷に戻り赤ひょうたんの止まり木に羽を休めていた時舞鶴中学校の学年同窓会がありました。

顔ぶれの中に懐かしい崔朝栄の顏があり明らかに堅気と違う空気の崔が女性陣の注目を引いております。一緒について行った二次会の席でも酒が入り賑わいの中心に崔の姿がありました。この20年間朝鮮人2世としてどうやって生きてきたのか興味が尽きませんでした。

この再会からしばらくして「赤ひょうたん」に大きな身体を現しました。律儀な男です。派手な外車で運転手が「へいこら」して送って来ました。

中洲若子も崔朝栄を良く覚えており、崔が「お母さんの作ってくれたカボチャと小豆のいとこ煮は実に美味かった」というと崔をウットリ見つめながら「崔君の食べっぷりは小さい時から今も色気がある」などと訳のわからんことを言っています。

店の板前も崔の雰囲気に惚れ惚れして「崔さんは本当に士郎さんの幼馴染ですか」と侮辱的な言葉を吐く始末。崔、カウンターの中で小さくなっている士郎に目をやり「士郎、何かあったら何時でも俺を訪ねろ」と囁きました。

そんな事があって大島の呼び出しを受けた時、まず崔朝栄に相談することにしたのです。

赤ひょうたんに彼が姿を出して1年経っておりました。

天神の岩田屋で待ち合わせしました。親不孝通り近くの彼のオフィスマンションに向かって肩を並べて歩きます。小学校の時は士郎にとって兄貴みたいな存在でしたので一緒に歩を進めるとその懐かしい気分が舞い戻ってまいります。

がっしりした躯体から発する明るいオーラには野生的な匂いがあります。

世にイケメンで女性にモテる男は沢山いるが逞しい野獣の牡が雌を引き付けるモテ方は士郎の世界では余り目にしません。途中パチンコ屋から出て来た可愛い店員らしい娘も崔に嬉しそうに挨拶をします。朝栄の奴「この娘とも寝たな」笑って士郎に教えます。