何気ない一日(その89)カジワラ君の話(その3完)

「ま~だ大昔の高校受験のこと言っとるのか。未練がましい」と老婆(ラオポ)の罵声が聞こえるようです。しかし敢えて言わせてもらうとこれが世間で出くわした最初の不合理と逆境だった事。そして分かったのは生きてる間、それらが身辺に満ち満ちていた事です。

それらの悪魔の軽いモノは切り返しの技で、重いモノは秘剣を編み出して仕留める事です。自慢じゃないが中洲は会社興して只今14回目の理不尽に立ち向かっております。逆境もショッチュウだとゲームみたいなもので面白いです。

社長なら何でも面白いと言えても会社内で無意味な人事考課にさらされ忖度を強いられるなら社員は本当に不幸です。それは社員の力を削ぎわざわざ会社の倒産を早めているわけですから社長は泣くに泣けません。中洲に第14番目の不合理をもたらす霞ヶ関こそその極みでしょう。官僚のコロナ対策の不作為で国庫も国民も疲弊しきっております。そこには忖度だけあって競争と倒産がないから尚更タチが悪いと感じます。

新製品新技術開発の夢を見てそれを形にしその形をビジネスにする作業ほど面白いものはありません。もしも厚労省から新型コロナ終息の方策がアナウンスされるなら一瞬にして世の中が明るくなり日本の官僚の志の高さを世界に誇れるでしょう。二酸化塩素にこそ解決の鍵がある事は厚労省は知っているはずなのに。

身を置くグループが開発魂に満ち満ちていたら毎日がどんなに素晴らしい事でしょう。残念ながら中洲が最初に奉職した会社は他人のフンドシで相撲を取ることを信条としていたので当時、記事に見る本田宗一郎が尚更経営者の理想と映りました。ホンダで働けたらいいなあと。

その後「開発こそ命」として起業した中洲、20年ほど前、しゃれた言葉を見つけました「我々はホンダに採用して貰える力量がなかったから我々のホンダを自分達で作ろう。本田宗一郎もきっと誉めてくれる」と。勿論社内での拍手は皆無でしたけど。

ホンダのHP見ると大きく本田宗一郎直筆の大書「夢」がありました。初志を貫いた同志カジワラ君、あの後の60年、忖度のない夢追いの日々を過ごしていてくれていたらいいが。

ホンダのHPからお借りしました。素敵です。

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何気ない一日(その88)カジワラ君の話(その2)

中洲士郎1959年春久留米F高校入学。そして最初の事件が5月1日佐賀県基山の大興禅寺つつじ祭りの遠足で起こりました。春爛漫の中、F高校を志望した若人達は皆ウキウキとしてこれに参加したのでしょう。中洲はといえば心の中真っ暗で泣けて仕方がありません。とても遠足なんかに行く気分になれずサボる事にしました。中学時代なら必ずサボリの相棒がいて一緒に映画館なんかに行ったのでしょうが。初めての一人ぼっちのサボりでした。

大興禅寺のつつじ祭り。HPから借用

翌日のことです。突然、(確か)4名がM体育教官から呼び出しを受けました。木造のボロ校舎の裏手にです。4人はその時初めて互いを仲間と知りました。その一人が背格好良く色白の美少年でそれがカジワラ君だったのです。あとの二人は顔が思い出せずただオズオズしていた記憶しかありません。

浅黒く目つき鋭くちょび髭を付けたM教官が昨日のお祝いの遠足をサボった行為が断じて許せないと大声を出しました。先ず影絵のような2人が平手で殴られました。可哀想に「お前達は補欠入学じゃないか」との罵声まで受けて。次にカジワラ君には別の罵声と平手打ちが飛びました。次は多分顔面蒼白の中洲士郎。ヤバいぞブタれるな。と・・。M教官が少し大きめの黒い教官手帳を開いて「中洲か。君の入学の成績は優秀だった。しっかり頑張っていい大学に入れ」と。それは余りにも理不尽な処置ですので3人とも大層悔しかったでしょう。

そのあと放り残された4人、涙ながらに話し合いました。中洲がどうしてF高になったかの「モグリ入学交代劇」の悔しい話を聞かせてやりました。

カジワラ君の経緯はこんなでした。確か浮羽町からやって来たという彼は中洲と違って田舎中学の優等生で女生徒に大変もてたようです。ところが彼女達にいい格好して「な~に俺だってF高校位通れるぞ」って放言したのが災いして挑戦する事に。結果はその浮羽の中学でただ1人栄誉の合格。それで意に反して県立やめてF高に入ってしまったらしい。だがF高は男ばかり。体育部はなく好きな野球が出来ない。それで面白くなくて腐っていたと。親父は町の有力者だから「何とかしてくれるだろう」とも。相談できる親父がいる奴は羨ましいな。そこでの話でF高生なら普通高校に容易に転校できる事を初めて知りました。「だが修猷館は絶対無理だ」と確信。つまりまたあの受験勉強か?自分だけ不公平にも平手打ち受けなかったズルい喜びとも相まってF高に残留する気分に傾いて行きました。もしも平手打ちを受けていたら多分退学の腹が決まっただろうに。入試の成績よかったと言っても60番かそこら、「来年修猷に再挑戦して必ず受かるという保証もないしなあ」そうやってその後の妥協の人生が始まったのです。結局3人はF高を退学して普通高校に転校したのでしょう。再び姿を目にすることはありませんでした。

一座の同窓生達にとって感じ入る話じゃありません。しかしこの話をした後思い出が湧き出て来ました。

吹っ切れて手にしたのが岩波文庫のヘッセ等の青春文学。授業はそっちのけで耽読したので成績良いはずありません。予習して授業に熱心な他の生徒達からはぐんぐん離されて行きます。

好きな授業と言えばは唯一漢文の大石亀次郎先生の朗々と詠じる唐宋の詩賦でした。先生とは下校が何時も西鉄久留米駅まで同じバスでした。そこでは決まって「皆んな~、後方までよく整列して~」と明るい声を響かせたものです。思い出が続きます。

大石亀次郎先生。この先生に出逢えました。

そしてそのバスではアッちゃんの兄ヨージョさんと一緒になりました。小学校の時と同じく士郎にはすごく尊大で「な~んだ(修猷館じゃなくて)F高か」こちらも全員優秀なアッちゃん7兄妹の中で「(九大医学部じゃなく)久留米大学の医学部だったのですか」と返すとお互い少し気まずい空気です。ヨージョさんは勉強は苦手だったが遊びは凄かった。小4の時既に蓑笠被ってプロ釣り師の出立ちで渓流釣りに精を出していました。ある時腰に付けた魚箱のヤマメを士郎に見せてくれました。銀色の脇腹に虹がかかったそれは美しい魚で見惚れたのを覚えています。何かにつけて敬服しておりましたそのヨージョさん、今は棒術に凝っているという。彼のことだから恐らく大層な達人なのでしょう。とても無骨な男だったから女々しくアッちゃんの消息聞く勇気は遂に持てませんでした。

結局母親若子に経済的負担をかけるだけでロクに勉強せず少しばかり漢文とヘッセを読んで近場を放浪しながら3年の歳月が流れていきました。ヘッセの話とはほど遠く、士郎は美青年ではなく楽器も出来ず従って美貌の娘との出会いも皆無の3年間。はてさてあのカジワラ君のその後はどうなったのでしょう。