アイパオの話(その2)

2011年3月11日午後2時46分に異変が起こりました。東日本大震災です。世界が戦慄する中で日本中がこの災害に巻き込まれて行きました。

事もあろうに中洲士郎を乗せた常磐線富岡駅2時20分発いわき行き上り普通電車が久之浜駅を過ぎて国道6号線が寄り添うように走って踏み切りに差しかかった時です。突然ガタンガタンと大きな音を立てて列車が飛び跳ねるや急停車したのです。国道を走る車はバウンドしながら止まりもせず走り続けています。

何か少し滑稽な感情に囚われて眺めていますと、まばらな乗客の前を車掌が運転席めがけてすっ飛んで行きました。何とオーバーな事と可笑しかったがその車掌に列車から線路わきに飛び下ろと指示されたのです。降りた線路から後方を見やると500メートルほど先に久之浜駅が 目に入ります。仕方なく乗客20人ほど連れ立って駅に向かいました。その時5メートル程眼下に広がる太平洋はとても穏やかでした。

駅迄の途中の家屋、駅前、駅舎とプラットホームもそれなりに破壊されていましたが、まあそんな程度の地震だろうかなと思って観察していました。ところが地震に続く異変がまず天空に起こったのです。不気味な暗がりが周囲に広がり気温は急速に下がって降りだした雨がみぞれに変わります。

高所を探すと線路に掛かる跨線橋が目についたのでそこに上がりました。人気のない沈黙の街に退去を呼びかけるパトカーの間の抜けたゆるい声が耳に入ります。次に東の海の方を眺めてみました。こんな時に津波なんか本当にやって来るのだろうか?不謹慎な期待もあって遠くに目を凝らしました。すると5分程して突然東の彼方の空全部を土煙が覆ったのです。

雲じゃなくて物体が押し寄せて来ております。慌ててiPhoneをビデオモードにするが何と電池残量が乏しい。それでも撮影を開始しました。「やあ電柱がなぎ倒されている!」隣の声。士郎は目が悪くよくみえない。「わあ水が来る。6号線にも溢れ出したぞ。」騒ぎが大きくなり彼方の土煙の中に火の手も上がり出しました。その時誰もが感じるのは津波はここまで来やしないだろうという変な確信です。しかし駅長に叱られ促されて線路を渡り高台にある久之浜中学に避難する事になりました。

途中で傍の川に目をやると何と川の水が陸地の方に逆流しているではありませんか。我が目を疑います。小型車が泳いで上がって来るのです。校舎に入る前に正門の横の空き地に入り火の手が上がっている久之浜漁港を眺めることにしました。沈黙の中で街の火が延々と不気味に燃え盛るのに消化作業の気配が全くありません。久之浜漁港では確実に大惨事が起こっていると実感しました。後で解ったのは無常な2番津波が港を破壊尽くし42名もの命を奪ったのです。

周りの誰一人からも港に救出に行こうとの声が上がらない中、中学校の体育館に入り大勢の被災者と寒さに震えることにしました。俯いて無言の数百人の被災者を支配する空気は一様に「嗚呼、仕方がない」でした。

列車から降ろされました。

アイパオの話(その1)

今日で欧州出張は終わりです。夕刻の帰国便には台風24号の手荒い出迎えが待っております。

この出張でも沢山収穫がありました。即行動(大抵は軽率な)を信条として来た中洲にとってブログは貴重な体験になっております。一旦文章にする事で少しですが物事を再考することを覚えました。それと間違った記述で人様に迷惑をかけるか怒りを買うんじゃないかと心配になります。言も重いに越した事はありませんが。

ブログに間違った事は書けません。事実の裏付けが必要だとフランスのエリックにミュンヘンに来てもらいました。ところがブログの為じゃなく現行のビジネスにとんでもない発見があったのです。

それは日常の仕事での歴史と人文地理の重要性です。どの様な職種、立場にあっても過去の歴史を徹底的に洗い直し現在の人文地理を把握するなら自ずから戦術が明らかになるという当たり前の事です。責任者ならその心得は必要条件ですが果たして世にどれほどの責任者が心しておりましょうか。

然しですよ。もしも世に出た駆け出しの若者が職場で誰よりもこの2つを体得して政策を立案したらどうなるでしょう。「孫正義」も「スティーブジョブス」もテスラの「イーロンマスク」もそこを解っていたのでしょう。そして大事業を成し遂げました。中洲士郎はこれに気付くのが遅すぎました。いみじくもブログ記載のためにエリックの話を拾って化学発光の年史を埋めるうちに明日が炙り出てきたのです。有史この方、国も会社も覇権を戦略の中心に置いて戦って参りました。ルミカの事業の目標を覇権に置けばその道が歴史上に見えて来たという事です。

今回のドイツ出張中に取引先の女性社員と仕事の夢を語りました。昨年覚えた「タリスカー」に代わって今度はスコッチシングルモルトの芸術品(写真のオーヘントッシャン)のストレートです。世の中にこれ程芳醇な酒がありましょうか。この酒に酩酊しながら語り合いました。

英語ドイツ語を自在にこなし理系にも明るい彼女の話では「この世に生を受けて大学で学んで今度は恵まれない人たちの力になりたい」それでソーシャルワーカーに進みたかったが父親が許さなかったと。彼女の考えには中洲酔いに任せて強く反論します。「お父上に同感。奉仕では貧困の問題は解決しない」「施しを受けるよりも取引を望む。それが人間のプライドだ」「だから中洲士郎は世に1億人ものホームレス(実際はこの数倍)に家を売りつけるビジネスを思いついた」延々と彼女にまくし立てること15分。多分何事も打算に走る中洲の姿勢には彼女同調してはおりません(経済至上主義で人類は幸せになれるのか)。この世界一の大ボラを実行に移すのは2年後としておりましたがこの才媛に極秘のミッションを明かした以上早速着手するしかありません。そして会社の可愛いシトミちゃんの「他のホラは良いけどアイパオのホラだけは許しません」との無礼千万な物言いに鉄槌を食らわせましょう。

それではアイパオにブログの焦点を当ててキホーテにならい痩せ馬を進めてまいります。

「こいつはストレートだね」

ヘルシンキにて

皆さ~ん。とお声掛けします。この歳になり初めて社内ブログを公開してみて思案すること沢山です。

最近ちょくちょく「ブログいつも読んでますよ」と社外の人に言われます。するとご当人に対して恥ずかしさと奇妙な嬉しさを伴う微妙な親近感が湧いて来るのです。逆にその結果このところ1ヶ月ほどペンが動かなくなってしまいました。

正確な情報を敢えて書き換えるのと、間違った情報を書き連ねる事は全く別物。となると自分の経験してない事はしっかり取材して裏付けを取らないといけません。それに人様に読んで頂くとなるとヤッパリ文章力です。暑い暑いといっても既に9月に入った夜更け、何の気はなしにiPadで青空文庫から大正昭和の小説をめくるうちに岡本かの子の短編小説「老妓抄」にたどり着きました。とにかく上手いのです。読者をグッと作中に引き込み、読後各自各様の人生にそんな「老妓」がチラリと姿を見せます。

中洲の場合は「中洲若子の話」で母親若子が駆け抜けた昭和を記す積りです。じゃあ若子とはどんな女だったのか。昭和とはどんな時代だったのか。彼女の何を残したらいいのかを「老妓抄」から思い起こすうちにこれも描けなくなってしまいました。

それに岡本かの子の語彙の豊富さと文章の艶。文豪だから当然といえば当然だが中洲の下手なブログに1分でも貴重な時間を浪費させられた読者は堪りません。それでも世間に恥をさらしながら老婆(ラオポ)に毒づかれながら「美味い話」を一つ遺してみたいもの、そんな気持ちで「岡本かの子」にも「菊池寛」にもしばらく痺れておりました。

実は中洲に唯一自信がある主題と言えば「夢追う老人の他愛ない発明発見の話」です。これだとブログとしては無難ですね。しかしこれだって過去の発明ならある程度正確な時系列の中で記述しないとまずい事になります。

それもあってこの9月23日から30日までの欧州出張中にフランス人エリックをミュンヘンに呼び出し彼の側から化学発光物語を吐いてもらいました。場所はオクトバーフェスタの大喧騒のテントの中。英語フランス語日本語のちゃんぽんをアイフォンに録音しました。酔って宿でメモに抜き出し時間軸に整理すると言う涙ぐましい努力です。

皆さん、作家という人たちは大変な努力家なんですね。それって読者に読ませる為もあるけど実は自分が読んで面白くて仕方ないからじゃないかと思います。  中洲士郎も少しだけ作家気分でブログのための取材旅行を楽しんで感じた次第です。

オクトバーフェスタ2018

足跡その2

皆様。中洲は相変わらず老いた働きアリです。本当は今日帰国して明日は由布農園でログ牛舎建設打ち合わせの予定でした。それが急遽明日から深圳出張が組み込まれてしまいました。

ブログはというと開発物語をサボってこの1ヶ月三文作家のまねごとをしております。どうにか「青山功夫の話」と「中洲若子の話」では農業で言えばやっと荒地を耕したところです。2人の人物どう活写したものか想が浮かび上がるまでここ暫くは本業に戻り開発談義を再開することにします。

昨日のブログでまた年寄りの嫌味な繰り言を書き連ねてしまいました。今朝は会社の寮がある旅順藍湾(ランワン)マンションの広い公園をぶらぶらしました。思い起こせばここに入居したのは2012年5月。前の総経理がクーデターを起こしルミカ大連乗っ取りを始めたので彼らと戦うための根城がこのマンションでした。

それで初めて中国でのマンション事情に触れたわけです。最近耳にするのはマンションの一軒家主にとって1000万円の投資と言えば大金。マンションが痛んで値打ちが下がるのも気がかり。そんな時耳にするのは日本人の評判です。日本人に借りて貰うと売る時手入れが行き届いて直ぐに売れるし条件もいいと言うので管理会社も喜んで世話してくれると聞きました。ルミカの皆さん入れ替わり立ち替わりだけど誰も部屋の掃除洗濯が行き届いて大連市内のホテルより余程快適です。

今日の土曜日独り腕によりを掛けてチェリージャムの豚角煮とハルピンの奥山で採れた本シメジのカレーを作りました。夜は2号館の山手君冷たいビールを手にここ6号舘にやって来て2人で晩餐会。勿論後片付けは山手君がしっかりやってくれました。

足跡

大連ルミカでヤマテさんと激しく仕事をしております。旧工場から新工場移設作業の中で生産工程どれをとっても40年ひたすら進化を拒絶してきた姿がありありで2人はそこかしこで絶叫しております。

「ケミホタルの話」で縷々語りましたがルミカはその出生に問題があったために命令系統が曖昧のまま人員が増えました。生産現場というのは地層のようにその会社の技術開発の風土が映し出されます。ルミカには製造責任を自覚した「長」がいなかったのです。

これはルミカの生産現場に限ったことではありません。己の責任を認識して毎日それを反芻する「長」の下なら人は育ちチームは大きく成長を遂げます。しかし現実社会では平気で真反対が横行しているようです。そんな職場では明日が見えません。そして朝の出勤が辛くなるのでは。

本当ならルミカは日本を代表する会社になれたのに。しかし幸いルミカは生きております。40年経って漸くくびきから解放された今、これからルミカは明日に夢が託せる会社になれるような気がしました。

後々嘗ての自分の職場に人が足を踏み入れた時そのすがすがしさにウットリするといいなあ。

30年の代物。新工場でまだ働きます。

中洲若子の話(その6)

若子が死んで葬式も終わりかなりの虚脱状態の中で「さあこれからどうしたものか」思案しました。それに2013年から又しても会社は存亡の危機に立たされております。12番と13番の悪者が相呼応してまさに芸術的にルミカ事業を奪取せんとするところ、とても若子の弔いどころじゃありません。

しかし2013年11月14日若子があの世に旅たち14年4月10日は生きとれば88歳の誕生日。ここは意地でもなんとかしたい。やらなければ後で後悔する。「何時もの思考パターン」です。中洲で35年間気を吐いてきた「ひとりの女」の死を告知しない訳にはまいりません。知らせれば誰彼の胸に若子が去来するでしょう。じゃあどうやって知らせようか。思案しました。答えは10年前に閉めた若子の執着した店「赤ひょうたん」を改装し再開して若子の魂を慰めることでした。2014年4月あらゆる蔑視と抵抗に抗っての狂った船出です。

勿論中洲に同情して仲間の数人も助けてくれました。しかし愚行中の愚行、大変な労力と出費でどれだけ中洲若子の鎮魂になったのか。この鎮魂劇での顛末から「中洲若子の話」を拾います。

2014年3月17日改装なって人形小路のお隣さんや店の前を通り過ぎるお客が店のウインドウに記された次の奇妙な挨拶文を目にしました。

                         ご挨拶

私、中洲若子は昨年11月14日あの世へ旅立ちました。生きとる間皆様には大変お世話になりました。経営が苦しゅうなって店閉じて10年「人形小路」にはご不便おかけして済んまっせんでした。この度やっと息子と嫁が赤ひょうたんを再開します。昔の様にどうぞ「ビールば一杯飲んで行きんしゃい」

                      

                    中洲若子

                     ご案内

      4月10日(若子誕生日)開店

      3月20日-4月9日若子お別れ会

中洲一筋の女将若子が33年間守り育てた「赤ひょうたん」の灯が消えて10年。どうにか再開にこぎ着けました。4月9日まで「若子お別れ会」期間とします。ご近所の方、赤ひょうたんと若子をご存知の方、どうぞ立ち寄って若子の魂を慰めて下さい。ド素人がぼちぼち店作りを進めますのでご助言お願いします。

                            平成26年3月17日

                            若子の息子新店主

                                    中洲士郎敬白

ポップコーンバル

赤ひょうたん

電話291-4718

「憎いばってん品いいや。どうぞ来てみんしゃい」

中洲若子の話(その5)

ささやかな葬儀でした。若子の妹弟と士郎の家族だけ20名ほどで若子を見送りました。見栄っ張りの若子のためにもっと派手にやれば良かったのですが。

それでこのブログを借り弔辞を記して若子に送ろうと思うのです。

先ず若子がこの世に別れを告げた日のことから。

士郎沖縄の出張から戻り心配しながらホームのベッドに駆けつけたときは弱々しくも若子はまだ生きておりました。「生きとるや?」問いに頷きます。何時ものように顔と背中と足をマッサージして手を握ると返えす力が弱まっていました。数ヶ月の間、胃ろうで食べ物が何も喉を通っていないのが不憫です。それで士郎手製のチェリージャムのソースを少し口に含ませて甘さの思い出を呼び覚まさせます。コックリと一飲みするが眼は虚ろでした。

今思えば3日3晩士郎の戻りを待って生きていたのです。出勤する士郎を幾分正気を取り戻して確かに見ていました。それが2時間ほどしてホーム職員からの通報で運ばれた病室に駆けつけたときは動かない屍になっていたのです。

顔は別れた時のまんまです。職員の報告では士郎が帰り何時ものようにチューブから食事を流し込みました。気持ちよくトイレもしてお風呂の日だったので浴室で職員2人で車椅子のままお湯に入れました。気持ちよさそうにお湯に当たり終えたところで急にうなだれてしまったのです。それで大急ぎで救急車を読んで隣接の済生会病院に搬入したが既にこと切れていたとの話でした。若い医者は若子の死亡時刻は息子が看取ったとして午後2時としました。

安らかに寝たままで今朝との違いは体が動かないだけ。それが「死んじまった若子」に変わっていたのです。人間って心臓が止まったその一瞬をもって現世から来世に移るのだろうかしら。若子が死んで2日間添い寝をしたと申しました。よ~く観察しておりますと顔の血管のむくみが引いて表情が変わって参ります。そして突然素顔を表したのです。弱々しいお人好しのそれとも「赤ひょうたん」を潰して借財にビクビクしている顔じゃありません。昔の剣気で時に意地悪い丙寅の女に変わりただじっと目を瞑った戦う女の顔でした。「私が死んだら士郎が嘆くのが辛い」などいつか漏らした得意のイカサマ言葉でも吐きそうな顔です。

この変化を見るうちに士郎は無性に嬉しくなって「いいぞ、その生きざまやよし。また会おう」と告げたくなりました。後々人が「また中洲のホラだろう」と言うのを封じるために証拠写真に収めております。

お通夜って言うのはそう言うことじゃないでしょうか。なきがらは肉体は死んでも意識は夢見ている状態じゃないかと思うんです。若子が死んで2日の間添い寝してやれたのはいいことでした。

中洲若子の話(その4)

賑やかな叙勲のお祝いの席でした。参加者は皆植田教室で非鉄冶金を学んだ卒業生100名程です。挨拶も終わって先輩後輩での歓談が始まりました。傍の同窓の石橋君が高校の先輩を見つけ挨拶して戻ります。頭が薄くなった恰幅のいい人でした。聞くとはなしに「偉い人みたいだね」の問いに石橋が名刺を見せました。

一瞬衝撃が走ります。父親の会社だった八幡枝光のY工業常務取締役工場長とありました。

逡巡の後、意を決してその人の前に出ました。中洲士郎の名刺を差し出して。「つかぬことをお伺いしますが・・・。先輩のお会社にむか~し御在社された辰野亥蔵さんご存知ではありませんか?」

「・・・・」

「うちのグループ会社の大御所ですから毎年正月には池袋のご自宅にご挨拶にお伺いします。ところで辰野さんとはどんなご関係で?」

突差に「うちの親者が生前Y工業の辰野社長様に大変お世話になった」と申しておりましたので辰野さんの近況をお伺いする次第です。

安心したようにしかしふと考え込むような目で中洲を見つめ語り始めました。中洲に答えるのじゃなくて役目を帯びてモノローグするようでした。

「今年お亡くなりになられました」

一瞬衝撃が走ります。続いて

もう少しで3世紀に渡って100歳を生きられたところでした。誰もが残念に思いました。

ご葬儀の後ご子息のサダメさんにお亡くなりになられた事情をお伺いしました。そうそうサダメさんは早稲田を出てずっと大学で教鞭をとられており申されるには、「父はその日も碁会所に顔を出し戻って、少し疲れたとコタツに入って暫くして静かに息を引き取りました」と。「それで抱え上げると父親の軽さにビックリした」と仰っていました。辰野さんには数年前大変驚かされた事がありましたよ。

「もうこれが最後になるので枝光に来たい」と。それで皆んなでお迎えして歓迎の宴を開きました。なんとあの年でそれもたった独りで新幹線で来られたのです。聞くと同伴予定のお供と駅ではぐれて切符だけ握って来られたのです。老いた辰野さんの横でご機嫌を伺いました。すると「今回枝光に参ったのは実はどうしても最後に会っておきたい母子が博多にいてねえ。だがもう博多までは無理だから諦めよう」と。翌日新幹線で独りで東京に戻られましたね。

初対面のこの方がどういう訳かお勤めを果たされるような話し方で話し終えられました。

「左様でしたか。それはご苦労様でした。お話しありがとう御座いました」一礼して席に戻ると石橋君「僕のあの先輩と知り合いだっの?」「いやたまたまね」

年が明けて母親若子が「辰野さん死にんしゃったよ」「俺も知っとるが。どうして知ったの?」「年賀状出しといたら」「またどうして年賀状なんか出すんや。ご迷惑かけるやろうが」「・・・・」「奥さんからの年賀の返信にねえ・・」

数年前我々二人に逢いに枝光まで来ていたことを若子に話してやればよかったと悔いております。

飯碗だけが残りました。

中洲若子の話(その3)

中洲士郎、生を受けてこれまで幾度となく危機に直面しております。

その最初はと言うと全ての生物に共通する受精の危機です。日本人の場合正規の婚姻であれば嫡出子、非正規であれば非嫡出子としてブランディングします。人間誰だって4~5億の精子の競争から選ばれて得た生命に何の焼印もないのにある日突然「お前は非嫡出子だ」と宣告されたりしましてね。嫡出子達だってビックリするでしょう。知らない間に異母兄弟がいたなんて。これって本来面白いことじゃないでしょうか。

ケミホタルには有田と強い御縁がありました。そして有田焼の思い出には必ずあの男辰野亥蔵が登場します。

香蘭社と深川製磁が有田では窯業の両雄で共に博多川端に立派な店を出しております。その深川にはよく遊びに参りました。辰野亥蔵がまだ存命ならば 90 歳だろうかと思って深川の店でお祝いに古伊万里の飯碗を探してもらったのです。1989 年のこと。

会社興こして 10 年経ち「そろそろかな」と思ったのですが例の妖精が「未だ未だ」と答えた気がして祝いの飯碗は士郎とタエの文化住宅の押入れに入ったままでした。

それが1997年の暮れのこと恩師植田教授の叙勲の祝いの席で父辰野亥蔵の他界を知ったわけでした。

<遂にくるべきときがきた>僕の人生の第 1 幕が終わったという感じがしての家路は悲しくはなく何かつかえが取れたとでもいうような気分でした。思えば物心ついて何時も何時も親父のことを想い続けていたわけですから。

 帰宅して居間の炬燵に入り、ふと思い出して中洲タエに頼んでかの桐箱を探し出してもらったのです。牡丹紋絵錦古伊万里の錆びた赤絵の飯碗で遂に親父に贈られることがなかった祝いの品です。

中洲タエにはその日の出来事を説明するのに言葉が見つからずにいますと、  「そうですかお亡くなりになりましたか」そう言うなり再びもとの桐箱に納め押し入れに運びました。