アイパオの話(その13)

会社の若い男の出勤途中、彼の車のエンジンルームにしがみ付いてやって来て拾われた仔猫、中洲同様生まれ育ちが悪いだけにヤケに生命力が強い親猫に育っております。

その野良猫の「スズ」がしょっちゅう開発館で仕事の邪魔をします。先日スズも交え相棒のオーノ、ヒメノ、イワモト3人を集めて「新型アイパオ」の開発決起集会をやりました。事前に召集令状出していたので着席するや「一升飯喰らいのイワモト」が「世の為人の為ですな」とニヤリ。もうすぐ大連からサンプルが入荷、来年2月までに完成します。大連の張老人の教えを得て「魚植共生パオ」を世のホームレスに住まいと仕事を提供する哲人の道に踏み出すのです。

となると2011年の東北作戦の顛末を手短に書き残して夢の舞台に愛する読者を誘わなければ。

茨城の高萩に取得した新工場にエアーベッドやジャグジーそれに韓国からの軍用折りたたみベッドの類いがコンテナーで茨城工場に届きました。ヒッチハイクで福岡に戻ると直ぐに上海に行って買い付けたものです。これら救援物資と見苦しい五棟のビニール小屋を残されて困り果てた工場のスタッフを後に2011年5月から東北転戦です。

第1戦は岩手県大槌町に救援物資の保管倉庫作りです。5月15日朝4時起床6時茨城工場から遠野に向けてプロボックスという社用車で出発。津波によっていい様に生活の全てを破壊された跡が晴天の中でキラキラしています。気がつくと空中に沈殿する異様な匂いに鼻の粘膜が酷くやられて障害が起っておりました。

大槌町の避難所に入り責任者と協議。風呂が欲しいが「瓦礫の中でも洗い水を下の土地には流せない」と。「この非常時に」とバカバカしくなって退出。

そこの避難所の自慢の小屋(写真)に呆れる。

結局ふれあい広場に作業小屋(移動美容室に落ち着く)を建てることに決定して夜中茨城に帰還。

翌朝4時トラックで再出発。

ふれあい広場では海外からのボランティア10名ほどの手助けがあって日暮れ前に完成(写真)


疲れ果てて宿を探すが何処にもない。結局オーノの運転で4時間、花巻温泉にたどり着く。感じたのは心根優しいボランティア達を受け入れる設備と彼らを大切に思う気持ちが皆無のようでした。現地ではどうしていいのか思いが回らないようです。道端でシュラフに身を包んだボランティア達の為こそパオが必要だと思いました。

アイパオの話(その12)

「中洲流遊説術」なるものの話を聞いてください。中国語の単語に「老婆」と「老公」があります。ラオポーとラオコンと発音します。永く連れ添った二人が「ねえあんた」「なあおまえ」と呼び合う言葉でしょう。この親しい呼び掛けも語尾が下がるとヤバくなります。

「ねえあんた   今年は30万円づつ3回預金が下ろされてるけど一体何があったのよ。」

「・・・・」

「ウ~ン。チョットだけ人助けでねえ・・・」

我が老婆も知っている相手だ。由布院で亭主に先立たれ残されたちっぽけな食堂で命を繋いでいる老婦を援助しているうちに夜逃げされて焦げ付いた金です。

「大概にしなさいよ。あんたは人を見る目がないんだから。何よ他人にばっかいい顔して」とまあこう言うのはウチのラオポーだけじゃありません。

しかしこういう時に

「そ~かあ。まあ仕方ないよ。あんたには人を見る目が無いから私と一緒になったんだよね」とでもジョークが出れば男は痺れてもっと恐怖を覚えますが。

だが男の場合は修羅場でジョークの一つが出るか出ないかで値打ちが変わるのです。中国古代史でも一番面白い下りが「我が舌を見よ、まだ有りや否や」でしょう。

史記(十八史略にも)に司馬遷が語るのが戦国時代の遊説家張儀の話です。魏の人、張儀が南方の楚国に遊説に出かけて酷い目にあわされました。大怪我を負って帰宅した時かみさんが張儀を怒って「おとなしく百姓しとけばいいものを柄にもない遊説などしおって」とか何とか言って亭主をなじります。とその亭主張儀がぺろッと舌を出して言うセリフが「我が舌を見よ・・」です。そして又遊説に出て連衡策即ち楚斉燕韓魏趙の六国を秦に仕えさせて秦の覇権を成立させるのです。2000年以上も前の夫婦の話面白いですね。

しかしウチのラオポーは張儀の嫁はんよりも更に凄いようです。茨城での作戦中に諜報員を送り込んで来たのです。策略家中洲もこれには驚きました。4月15日の夕刻でした。老婆(ラオポ)の従兄弟の営造が何年振りでしょう突然電話を寄越して「自分は今被災地救援に来とるが伯父さん今何処だ」と聞く。そしてわざわざ茨城までやって来て我が一夜城のパオを見おったのです。そして「こりゃ凄い」と抜かす。

17日着替えを取りに帰宅した亭主に老婆優しそうに笑いかけて「お前さん被災地でトイレ作ってんだってね。営造から聞いたよ」これは油断がならぬ。そして更に続けて「それで16日は何処に泊まっとった?」

アクセスの速さとITの進歩で世のラオコンにはラオポーから隠れる場所が無くなってしまいますね。

アイパオの話(その11)

大震災の支援活動に行くのに「出陣式」はありませんよね。4月14日からは太助庄助士郎の3人は上半身裸で新たに取得した北茨城の工場敷地に秀吉の一夜城に倣っての築城です。

中洲士郎生まれてこの方大概バカをやって来ましたが本件は勝算ゼロ、人生最悪の愚行です。トイレ小屋から始まり風呂小屋、住まい、道具小屋を懸命に建て続けました。

この工場の気の毒な社員たちは以前の雇われ社長のゴルフ三昧で会社を潰され今度の中洲社長は「ご乱心」の様子。皆さん会社の行く末を案じとります。

兎に角異様なビニール小屋を乱立させました。何事もそうやって道が拓けるのだと自分に言い聞かせながら。

由布農園の経験で「トイレは落とし込みに限る」と信じておりました。ところが原発事故同様想定外が起こるのですねえ。ベビーユンボで穴を掘ってパナソニックの様式便器を設えて悦に入って翌朝ビックリ。穴は地下水であふれております。これじゃウンチも出来ません。

写真のようにとっさにドラム缶の上にトイレを作り外からドラム缶を取り出す方式に変えて事なきを得ましたが。何事に付け思い込みの強い性癖が加齢とともに強くなって社内の随所に問題を引き起こしていたのです。この所はブログを書きながら懺悔しましょう。

高萩市の偉いさん方の視察見学がありました。中洲勇躍。アイパオの良さを弁舌爽やかに説明しますが反応は期待外れでした。段々「中洲流遊説術」に自信が無くなってまいります。要は「早いでしょう。安いでしょう。明るく快適でしょう。被災者が自ら建てるのです」それが評価は「安っぽい、被災者を充分に満足させる造りじゃない」です。価値観の違いですね。今度はテレビ朝日の朝の人気報道番組がアイパオを取り上げることに。

あんまり人が驚かないモノを「ねえ凄いでしょう」と言うのも白けるので出演を断りました。代わりにルミカの常務に就いた例のゴルフで会社を潰した社長に代役を頼みました。

テレビをチラリと見たら小屋の宣伝じゃなくて以前の自分の会社の主力商品である「トイレ消臭剤」を宣伝してます。だって彼は全くアイパオなんかに興味がないのです。やれやれ「一夜城作戦」はそうやって失敗に終わったのです。

ところが東北の各地からタダなら建てて欲しいとの依頼が7件ほど舞い込み駆り出されることになりました。猛暑にも突入して難航苦行が秋まで続きます。一方で会社の本体は経営の芯を失い迷走を始めていたのです。

アイパオの話(その10)

7年半前に東日本を襲ったあの恐ろしい津波は日本人の心に到底癒えない傷跡を残しました。日本という地震国では太平洋岸なら10メートルもの高さの濁流が一切合切を飲み込んでしまうことを東日本で目の当たりにしたわけです。地震が午後2時46分じゃなく真夜中なら首都はどうなりましょう。長らく我々の心から厭世気分が消しきれないのは当然です。

今回のアイパオ第10話は「出陣式」の話です。

2011年4月12日いよいよ古賀市にあるルミカ本社の駐車場で仰々しくも東日本大震災支援活動「出陣式」を取り行ったのです。その救援活動の模様を書き残す段になって思考が頓挫しました。何を書いても読み直すと白々しくてブログにアップ出来ないのです。沢山の人達を海に押し流しながらそれらの犠牲を省みていない無為無策を書いては消しておりました。

そんな時に待ちに待った昨日24日の朗報です。約束通り大連金州の相棒からアイパオのプラスチックの柱と梁サンプルが大連新工場に届きました。東北支援出陣式でトラックに積み込んだアイパオは未完成だったようです。それで新型アイパオの開発を目論みました。下の写真のこんなプラスチックで御殿を建てちゃいます。それも3時間の記録を狙って。

この美しい日本で自然災害は避けられません。しかし地震が津波が引いたら家族が揃って空き地に飛び出し建築許可の要らないアイパオを明るいうちに建て終わります。そして日が暮れたら空調の効いた2階建てパオで家族一緒に鍋をつつくという図式でした。「子供達のために黙々と汗を流す昔のオヤジを取り戻そう」と。

それらを期待しての2011年4月12日の東北行でしたがあまり上手く行きませんでした。いや作業の楽しい写真を眺めると少しは成功したのかも知れません。それらを例によって布団の中で色々考えるうちにPVC異形押出成型が閃いたのです。

この「アイパオの話」では東北で経験した苦心談をボチボチ記載しながら今度の新型アイパオの開発模様を実況中継します。東北戦では敗れましたがトラウマを少しでも消して次の自然災害に立ち向かいたいものです。

アイパオの話(その9)

4月4日の記録です。東北震災救援で小生意気なミキに遅れをとって気が焦っておりました。アイパオが形にならず未だ救援トラックは出発できません。ここ福岡のホームセンターでさえ復興資材機具の類いが姿を消してアイパオのセッティングに難儀しているのです。

そんなモヤモヤの中、このところの花冷えが凍えた今冬を思い出させます。桜は五分咲き。そして直に爛漫の春がやって来るのです。

そんな時節にあの男北川安洋が逝ってしまいました。4月2日に亡くなり4日はお通夜です。79歳でした。春の宵のこぶしの花の手招きに誘われて旅立ってしまったのです。この世からまた一人いい男がいなくなりました。

一代で世界的な疑似餌(ルアー)メーカー・ヨーヅリを立ち上げた北川安洋には老弱男女を問わず彼を知る人は皆ファンになります。会社が不振で解雇になった連中さえも彼を慕いました。特に女性、中でも水商売の人なら一目で惚れ込んでしまいます。風貌は<7人の侍>の志村喬を彷彿とさせ若い時、空手や陸上競技で鍛えた逞しい身体に大きな口と人懐っこいギョロ目、魚ならアラの大物です。

「男がいい男を論ずるのはお止め。それは女の仕事よ、そして私のね」とは向田邦子の言葉でした。だが中洲もいい男を論じたいです。無骨で笑いが爽やかで口数少なく日本酒をいっ時も手放せない男です。

それでいて突然「士郎さんよ、わしは最近好きなおなごとでも続けて2度はやれなくなった。衰えたもんだ」と呟いたりするのです。一瞬周りに身内が居ないかと心配しました。まるで小学生が小便を遠く飛ばせるのを自慢するような調子でした。あっけらかんとした色恋なんでしょうね。多分彼を惚れた沢山の女性達は「焼きもち」とか「恨み節」など抱かないのでしょう。ほんのひと時でも一緒に居てくれさすればいいと。

あの開高健にして西に男あり北川安洋と言わしめました。かの越国の美女西施のひそみに倣い彼の飲み方を真似するも中洲では到底様になりません。それでもあんな雰囲気の男になりたいものです。

亡くなって2年が過ぎて生きておられれば80歳の誕生日の2013年暮に登美子夫人から冊子が送られてきました。題は「洋々と行く」。安洋の半生が綴られております。彼を愛して止まなかった人たちが思い出を書き残しました。中洲のようにブログを書かなかった北川安洋の茫洋たる人生を語り継いで貰いたいもの。そんな冊子があること知っておいて下さい。そのうち機会があって登美子夫人の許しが出たらこのブログに冊子のPDFを貼り付けますね。

不思議ですねえ。色んな人物と母親の中洲若子とに接点が生じます。

「佐賀の武雄にいいお客様がいてそれはいい男。奥様も小粋な綺麗な人でねえ」中洲若子の夢を壊しちゃいかんので「その人はワシの友達だ」とは言わずにいますと「あ~あ。ひと時でいいからあんな男の妻として世話焼きたかったなあ」己の不憫をいたわるような口調でした。

然し商品開発だけは簡単には彼に勝ちを譲れません。彼は物作りにこだわりました。そしてモノとは矢張り実際に存在するものから派生しております。中洲士郎はこれからずっと皆さんと蛍の夢に誘われて珍奇な発見と妄想に溺れて参ります。但しそれは未だ誰も見たことがない代物なのです。既にあるものはいくら手を加えても商売になりません。それが中洲の持論です。商品開発も北川安洋と違うやり方をしましょう。女性にモテるのは諦めて。

アイパオの話(その8)

今読み直すとミキさんの国語力は中洲より格段に優っております。論理もしっかりしておりバー・コルで一緒に飲んでる時でも中洲の失言を絶対許しません。だから震災支援活動を論じるのは余程注意しないといけないのです。

そもそも支援活動について彼女とは根本的に考え方に相違がありました。まあ彼女は現地を見てないので衣類や食品を届けるのが一番だと思うのは仕方ない事です。メールでその事を正直に述べております。

じゃあどうやって問題を解くかになると中洲の奇跡のアイデアにイチャモン付けるだけのヒス女(性)ですね。一般的に女性は問題を解くことに男ほどには興味を持たないようです。

被災者には個人のプライバシーが守られる清潔な住まいを災害発生後数時間で届けること。それが文明国の為政者の義務なのだという事を久ノ浜中学体育館での避難民生活から確信しました。

メルトダウンの被害者である沢山の夫婦がダンボールの間仕切りで生活させられておりました。衆目は被害者達のセックスを破廉恥にも公然と奪っているのです。ついでに日本国民を何と礼儀正しく従順なのだろうと自慢しておりました。

こんな事態にこそ三島由紀夫が登場して檄文を差し出して欲しい。そう思ってネット見ると怖いですねえ。滅多なことは言えませんよ。政治もメディアも皆そうです。

然し思い出すのはあの久ノ浜中学での先生や生徒の献身的な立ち振る舞いです。彼らのように危機に際して「今こそ責任を果たそう」との心が持てれば未だ日本には救いがあると思います。

繰り返しますが瓦礫の前で「建築確認申請をすること、させること」が優先されるバカバカしさです。そして一棟300万円の仮設住宅を立てるのに半年、それもルールで一定期間の使用後数百万円かけて取り壊しです。あの合理的なドイツでさえ難民受け入れに同じことをやってます。全て税金の無駄遣いでしかも被災者や難民の神経を逆撫でするだけの上目線でね。

結局大震災の後中洲は半年間走り回っての渾身のアイパオ普及作業でしたが遂に一人の賢者にも出会わず無為に終わったわけです。次に起こった熊本震災で も状況は全く同じでした。皆異口同音に日本は「東日本大震災からは何も教訓が得られてない」と。

じゃあどうすればいいのか思案しました。何事にも不可能はありません。方法を見つければいいのです。無ければ作り出せばいい。

ホームレスを顧客とする「営利事業」を始めるのです。発想を変えれば事業は幾らでも広がることを唯一自慢の後輩の孫正義がそれを世界に実証しています。だが彼が震災直後投じた私財100億円の義援金は一体どこに消えてしまったのでしょう。他に問題解決策が天才孫正義に思い浮かばなかったのでしょうか。もはや「義援金」で問題は一つも解決しないこと、「真のビジネス」にこそ貧困問題を含む諸問題解決の鍵があると断じるべきだと思うのです。

お金の無い数千万もの人々にお金を貸す事業が成功しているのです。考えりゃこれこそ真っ当な銀行業であった筈です。だったら家が無い人にこそ家を売るべき。それが出来れば金持ちの被災者に1日1ドルで家を貸すなど造作もないことでしょう。

巧妙な規則を作ってそれを守らせることを天職と心得るのじゃなく「時代に合わない規制は急いで撤廃しよう。だが現行のルールは守らなきゃいかん。だから一緒にうまい解決策を見つけよう」それが優れた「公僕」でしょう。「DiDi」や「UBER」を白タク呼ばわりする行政に孫正義が遂に噛み付きました。彼のことです。きっと「約10平方米で災害発生から数時間で建ち上がる住まい」開発をビジネスとして捉えるでしょう。

これから何が起こるか読者の皆さんと一緒に期待しましょう。

子供達のためのバス停です。

アイパオの話(その7)

最近はウイスキーにはまっております。一年前知り合った「タリスカー」から今度は「オーヘントッシャン」です。いずれもスコッチのシングルモルトです。量が過ぎるとやっぱり朝お腹が重く感じます。

そういう時はいつかもお話ししましたが韓国家庭料理でスープに飯の入ったククパップが一番です。中でも棒鱈(たら)のブゴククが最高。スーパーで開いた鱈の塩漬け乾燥品を買って先ずオーブンでこんがり焼き塩抜きしてほぐしスープを作ります。これに大根の短冊、薄揚げとトーフを入れて煮込みます。焼きあごと同じく冷水に一晩浸けて味を出すのがいいのかもしれません。たぎったら少し硬めのご飯を入れて出来上がり。中洲の家族はみんな一様に不味いと不評だから由布農園で一人で作って食べます。

由布院農園には結構見知らぬ来客が多いのです。農園の前の農業水路の土手を歩きながら「何をなさってますか?」の声には大抵「遊んでます」と答えますと「へえ遊んでいるのですか?」と怪訝そうです。

10年ほど前の年の暮そうやって「お邪魔してもいいですか」に「はいどうぞ」と、この時は男女のふたり連れを招いたのです。6角形の小屋「SOHO1号」なんか覗いて「まあ。アートですね」なんてキザなこと言ってます。

お昼ですから例のスープ飯が余るので勧めると大層気持ちよく「美味い美味い」の連発。こちらも気分良くなりました。忙しいので早めにお引き取りいただきました。

翌年の正月会社に礼状が届きました。農園入り口のルミカの表札見てでしょう。内容は「ルミカ社長様。御社の由布院の農園に突然お邪魔しましたが大層親切な管理人さんに昼食をご馳走になりありがとうございました。どうぞあの管理人さんを大切にしてください」と。

「中洲はやっぱり見かけ悪いんだな・・・」

トンマな差し出し人は東京の木場フィットネス佐々山ミキとありました。木場なら東京支店からも近いし半年ほどして面白半分に訪問し東京出張時にはそのワンコインフィットネスに通うようになりました。

会社の常務もここに通ってミキさんのアドバイスをまじめに受けて物の見事に体質を改善したのです。

フィットネスコンビニ店経営のかたわら老人相手のソーシャルワークに精を出すそのミキさんですから東北震災救援にはじっとしておれません。

その彼女3月28日の夜青森の八戸に向かって借りたワンボックスを勇躍飛ばして行ったまま消息がありません。大丈夫だろうか。

4月1日ミキさんから次のメールが入りました。

連絡遅くなりました。

皆様からお預かりした物資を届けて、昨夜2時ころ無事石巻より戻りました。心配してくれるメールもたくさん頂いていたにも関わらず、連絡が遅くなり申し訳ありませんでした。

肉体的・精神的な疲労もさることながら、私が現地で感じたこと・体験したことをまだうまく言葉にまとめられずいるうちにこんな時間になってしまいました。

まず何よりも先に、今回ご協力・ご支援頂いた皆様にお礼の言葉を述べさせて頂きたいと思います。本当にありがとうございました。私個人の力では決して成し得なかったことです。

それから、バタバタしていてせっかく頂いたメールにマメに返信できなくてすいませんでした。

今回私たちは29・30日と2日かけて石巻と女川、牡鹿半島の一部を回りました。

連日テレビやネットを通じて被災地の状況を目にしていましたが、実際にこの目で見た現地の状況は想像を遥かに上回るものでした。

この2日間で私はたくさんの人に出会い、たくさんの絶望と悲しみと、そのさらに奥にある人間の強さと優しさと生への欲望を目の当たりにしました。

その場に行かなければ、その人たちと触れ合わなければ知り得なかった事が本当にたくさんありました。肉体も精神もこんなに削った経験を生まれて初めてしました。

そして今回皆様の協力を得てそれらを知る機会を与えて頂いたこと、本当に感謝しています。

また今回ご協力頂いた皆様に私の経験したものをシェアするとともに、今回の活動のご報告を兼ねて、現地で私が得たことをまとめて近日中に公開したいと思っています。ちょっと時間がかかるかもしれませんがお待ちください。

街が、そこに暮らす人たちが元の日常を取り戻すには途方もない長い時間が必要になると思います。

これらを公開することが今後の息の長い支援に結びついてくれることを切に願っています。

2011年3月31日

本当にありがとうございました!

アイパオの話(その6)

3月14日から出社です。何かバツが悪くて皆んなと会話になりません。大揺れに揺れた東京と違って福岡の連中に地震のすごさを理解しろと言う方が無理です。社内でおおっぴらに犠牲者を悲しむわけにも参りません。今度の24号台風だって「ああ自分の所から逸れた」ただそれだけです。天災なんてものは。

然し実際に大災害の現場を見た者にとってはじっとして居れないのです。早速あのへそ曲がりのイノウエ君に頼んでアイパオ のイメージを描いてもらいました。

イノウエ君が中洲の頼みを明らかに鼻で笑いながらサッサと絵にしてくれました。さあ大急ぎでアイパオの開発です。

それでは皆様にアイパオのいわく因縁を聞いて頂きましょう。iPadでアルバムを開くと先ず大分県は湯布院塚原の不良資産2000坪です。

1998年  取引先の建設会社から高値で摑まされました。それも川底の上一面を茅が覆うひどい荒地です。

1999年から会社の仲間を誘って(強制して)開発開始。オーノ君が中洲の土木建築の師匠になりました。

2005年強風に耐えるか12角形のビニールハウスを作ってみました。何とも不細工です。

2008年改良した屋根構造が特許になります。

2011年震災後大急ぎで準備。12枚のソーラーパネル設置。だがドアを忘れておりました。

ご覧のように福島のK化学買収同様ここでも中洲の無駄遣いからコトが始まっております。だからこの荒地と20年間格闘しているわけです。「週末農業羨ましいですね」と人は仰います。確かに楽しいですが農業とは時間との戦いで相棒の新澤さんは黒板にTODOLIST書いては消しこむ毎日です。草刈りも終わる時には出発点の草があざ笑うように伸びております。アスキーの鶏も越境して畝を作る端から足で壊します。新澤さんはキャベツに卵を産み付ける可愛い蝶々を本気で追い回さなきゃいけません。2000坪はなかなか大変な広さです。

そして又ここは色んな開発の拠点であり人との出会いの場所でもあります。

由布岳の西端からのオロシは強烈で折角建てた最初の5棟の高床式小屋「オヤジ1号」は台風19号で壊滅。この経験から6角形の小屋「SOHO1号」開発で勝利しました。

素人の悲しさ。5棟全部吹っ飛びました。

6角形だと基礎なしでも20年健在です。

強風のためにここ塚原地区にはビニールハウスは一棟もありません。そこでモンゴルのパオに倣って12角形のビニールハウスを開発し生ゴミ発酵菌を研究してRMC35菌を量産、壁構造から棚構造にすれば躯体が強靭になることを見つけてニワトリ小屋に応用しました。これが被災地救援用簡易組み立てテントハウスへ発展したわけです。

中洲はこれを動機不明の芋づる式開発と定義しております。人との出会いも又不思議に商品開発と絡まってくるのです。

アイパオの話(その5)

大地震から2晩経った3月13日の朝、前夜のコンビニの前でタクシーを拾い王子まで走って列車に乗り羽田空港から何事もなかったように自宅に戻りました。     丸2日東北で音信不通でしたが幸いと言うべきか誰も彼も中洲は無事だと確信していました。変なところで信用が厚いのです。

さてそもそも何で中洲はあの時第2原発くんだりまで出掛けたのでしょう。大層な出来事も元を辿れば他愛ない事からが多いものですね。然し他愛ないことから事件が起こりそして未来に大きく作用することが有るのです。笑わないで下さいね。事の次第はこうなんです。

先ず2010年12月20日東京は神田に本社がある化学会社を訪れました。この会社はゼラチンが得意でS化学に特殊消臭剤を納めて一世風靡しましたが茨城に大きな工場を作ってから業績が悪化、IPOを断念した投資会社から売却される憂き目に遭っておりました。

中洲は茨城に物流拠点でもこさえようかと軽い気持ちで訪問したのですが既に売却先は決まっておりました。それが受付でねえ。女子社員のM嬢が愛想が良くて目と目でチカチカやりました。

中洲得意のイカサマでひょんな具合に売却先がルミカに逆転してさあ大変、3億円の買い物ですよ。後にも引けず会社の役員達をなだめすかして契約、3月11日午前神田の本社で調印式やって折角だからと言うので福島工場に挨拶訪問となったのです。富岡駅から迎えの車で第2原発エネルギー館の前を通り過ぎるとき少し胸騒ぎを覚えました。

そして5年後放射能汚染でクローズされたその福島工場を再訪しました。工場事務室の黒板には「3月11日午前11時中洲ご来社予定」と記され柱時計は2時46分を指して止まっております。床には書類が散らかりコピー機などが倒れており中洲が事務所を訪問したそのままが記念館のように残されておりました。

序でにお話ししておきましょう。第一原発のメルトダウンで富岡町は立ち入り禁止となりここの工場を所有したルミカには毎年大きな額の補償金が支払われました。若しもK化学を買収しなければ2012年からの経常赤字は避けられず若しも契約が3月11日でなければ地震に遭遇する事もなくそして何よりも「アイパオ」は生まれなかったでしょう。アイパオはまさに数奇な運命の産物なのです。但しこれがケミホタルみたいな天才児であればの話ですが。

帰宅して夜テレビでは東電の第一原発事故で大騒ぎです。現場から生還した中洲の目には醜い世界に映りました。もしも自分が東電の社長だったらここでは出来ることは一つしか残っていないと思いました。

津波で亡くなった15000人もの方達は自分の死に方を選べなかったのです。

一日も早く東北へ戻らなきゃと気が焦ります。

2ヶ月後の被災地

 

アイパオの話(その4)

3月12日の朝が来ました。天空からは何事もなかったように穏やかな日差しが降り注ぎ、景色の中には露ほどにも人々の嘆きをいたわるようなモノは見当たりません。

唯、時折地底の傷を癒すような余震です。ここはジタバタしても始まらん、あの一晩中燃え盛った久之浜漁港をこの目で確かめに行こうかと迷いましたが「物見高い奴だ」と軽蔑されるかも知れん、それに「又地震と津波がやって来るんじゃないか」と少々怖気付いて取り敢えず久之浜から東京を目指すことにしました。

勿論一睡も出来ず疲れ果て腹も空いておりました。国道6号線は壊滅との情報で245号線をてくてく2時間ほど歩き35号線に出会うところでご婦人運転の車に拾われます。お寺の井戸水を貰いに行くところだと。どこも水道は止まりコンビニも開いていないので飲料水に困っている由。途中のガソリンスタンドは車が長い列を作りおまけに給油は10リッターに制限。これこそ行政の怠慢で腹が立ちました。結局3台の親切な車を乗り継いで打ち壊れた常磐線のいわき駅にたどり着きここでタクシーを拾いました。

そのまま東京を目指せばいいのに宿を探すことにしたのです。変な気分ですね。このまま東北を見捨てて平和な福岡に戻るのが何となく悪いような惜しいような・・。本当に馬鹿だな中洲士郎は。

運転手は40歳くらいの姉さんで「その時あんたはどうしていたのか?」当然の質問です。「私はねえお客さん、非番でパチンコしてた。地震で揺れた時パチンコが物凄いフィーバーモードに入ってね。もうやめられやしない。天井から板切れが降って来るわ床上はパチンコ玉が溢れるわ。スピーカーは、表に出ろとがなりたてるわ。しかしこのフィーバー、終わるまでやめられん。とうとう打ち終わって最後の客になったよ。興奮したね」だって。その気持ち分からないでもない。中洲士郎、自分もそうするかも知れんと答えました。そしてふと地震の極限の中でのパチンコのフィーバーモードと絡み合う男女の姿が重なったのです。

タクシーで探しても探しても営業しているホテルなんか一軒もない。その姉さん運転手、パチンコの話で面白くなってか「どう?うちに来て泊まるか?」親切な話だが座席でブラウズしていたら丁度磐城温泉健康センターがヒットしたのです。電話の向こうで何となくだが泊まれる部屋があるような口ぶりでした。

当の健康センターでは電気も灯いておらず薄暗い玄関口で被災者の為に炊き出しが準備されています。久しぶりの食事だった上にご飯とおかずにはトンカツもあって本当に美味い調理と優しい作法に感動しました。

ふと、傍の女将さんに目をやると又これが言いようのない美しさ、東北美人とはこんな人を指すのでしょうか。「実は当センターは公共設備のためにひどく壊れた今、宿泊に供することは出来ません。ついては自分が経営する宿が裏手にあります。よかったら見られた上でお泊り下さい」と。

それでその女将に案内されたのが林の中に立ち並ぶ小さな小屋・・若しかしたらラブホテル!?そうでした。もう暮れに近く薄暗い6畳ほどの部屋。風呂場を覗くと当然お湯はない。タイル張りの四角い湯船、床には何と奇妙なエアーマット。ご丁寧に「ゆっくりお楽しみください」との貼り紙まで。気がつくとラブ小屋の入り口に密やかな香りを漂わせた女将の立ち姿がぼんやりと浮かんでおります。

変な気分で床について12時頃目を覚まし真っ暗の道を恐る恐る国道に出ました。数個の電灯が点いたコンビニも盗難に会ったのか入り口は板切れに釘が打たれひどい有様でした。なるほど災害の後は盗難防止が肝心です。当然といえば当然この時間に女将の姿はどこにもありません。時折思い出したように車が過ぎます。人影は一つもありません。

以上が中洲士郎が見た被災直後の福島ルポです。


その頃我が由布農園では相棒のニイザワさんとガールフレンド。平和です。