星野焼源太窯(その2)

春先の柔らかな日差しに包まれ山あいに少し遠慮するように星野焼源太窯がたたずんでおりました。辺りに人の気配はありません。10m程坂を登ると朽ちかけた小屋の奥に小物雑器が並んでおり、どの焼物にも丁寧なロクロの技が伝わります。窓脇に本が2冊立てかけてあって手に取ると一冊は「土泥棒」それと詩集の「蛇苺」と言う表題でいずれも源太著。そうか源太さんは陶工にして詩人なのです。

1942年3月4日鳥取県の山村に生まれる。15歳の頃、北へ憧れる。山陰、北陸、東北、日本海沿岸を放浪。20歳の春、陶工を志す。伊勢「神楽の窯」で基礎を学んだ後、陶郷小石原へ。1968年26歳の秋、星野に「源太窯」を開き古窯  星野焼を再興する。

詩集の末尾に載せられた山本源太の略歴でした。

源太が「蛇苺」に吐露するのは少年期から思春期そして放浪に出た青年期の心の葛藤で中洲士郎が憧れ悩み恥じて封印すらしていた青春を代弁してくれておりました。ピンポイントの言葉が本のあとがきに見えます。

おそらく誰でも経験するあの不思議な感情。うつくしいものを志向しながら、身内にどす黒く渦巻ている力をおもって、ほとほと困りはてていた少年時代。

その頃、東京から赴任してきた国語の教師は、何も知らない僕等に朔太郎やホフマン、カフカなどを熱心に吹きかけたのだ。死の匂いさえ漂わせながら教室で講義する。教師というより初めて見る人間の、眼鏡の向の奥深い「瞳」に催眠術にでもかけられたように吸いつけられてしまったものだ。続く。

性に目覚めるあの頃を「ほとほと困り果てていた少年時代」と形容する筆力に多年の胸のつかえがとれる思いでした。日頃さまよい歩いて詩集を手に小石原にも紛れ込んでいた中洲士郎にも十分にその動機はありました。しかし源太のように実際に放浪に飛び出す勇気は持ち合わせていません。勿論自分の体力、根性から窯暮れ人生の選択肢は湧いても急いでそれを打ち消し妥協の道を選択。その源太は火夫(ひおとこ)のいばら道を50年歩み続けたのです。

程なくその詩人と陶工2つをモノにした源太さんが目の前に現れました。自信のないそれでいて人恋しの趣きがあって尻軽女が直ぐに付いて行きそうな男前じゃありませんがたしかに「いい男」の顔です。記憶に残る小石原の力太郎窯で修業していた若者とは別人のようです。聞くと力太郎の窯に居たのは別の山本で山本幸一、今は熊本で山幸窯を開いているとのこと。本人は隣家のフジノリの窯だったそうです。言わず語らずに力太郎の美貌の三人娘の長女には少なからず想いを寄せていたようです。(まさか!中洲の恋仇か?)詩集蛇苺の一編に小石原での修業時代の詩を紐解いてもらうとあの力太郎窯の裏山の描写に

ニワトコよ  ダラよ  野桐の芽もよ  ぼくは聞く・・・・。ひとりの青年のやるせなさが謳われていました。

すると他愛もない男の会話に老婆(ラオポ)が割り込んできました。

我が老婆(ラオポ)が師事する農民詩人の松永吾一さんと源太さんが敬愛した詩人丸山豊とは詩作を通して競い合い尊敬し合う仲だったそうです。母屋の横の小さなテーブルと低い椅子で2人は互いの師匠を話題にしております。源太さん、頃合いを見ては片口に茶を注ぎ程よい暖かさの八女茶を老婆(ラオポ)の茶碗に差しております。「星野焼に茶を注ぐと器の底が金色に輝きます」と。確かに深い輝きが見えました。源太さんは中々の商売上手。ふたりが話にふける間に値が張る湯呑みを買ってしまいました。

力太郎の娘の話になると目を吊り上げる老婆(ラオポ)も好きな詩人の話に源太さんと興じて中洲は蚊帳の外に。超倦怠期の「ひきこもり」夫婦から別々の玉手箱を器用に開けてくれた源太さんでした。

50回目の結婚記念日に思いもしなかったプレゼントに心地よい帰途です。老婆(ラオポ)が坂を下りた茶店で八女茶を買って車に戻りました。「源太さんに頂いたあのお茶はこのお店で最高の品だ」って。どう見ても収入の乏しい貧乏詩人がねえ。そんな高いお茶で一限の客をもてなしてくれたとは。少し日が陰った山あいにひっそりと佇む源太窯をバックミラーに黙礼して一路予定の晩餐会「初心」へ。

星野焼源太窯(その1)

あの日のことはやはり書き記しておきたい。そう思ったのは我が貧乏団地の公園の桜が狂おしく花びらをアスファルトの小径に撒き散らしている4月7日も夜更けになってのことです。

中洲にはこれといった才能は無く格別誇れる人生を歩いて来たわけじゃありません。だけど人様に申し訳ないほど面白い毎日を過ごさせて貰っております。しかしガサツな日々の中で何か大切な忘れ物をしていると時々感じます。その忘れ物の正体は出会って初めて「そうだ、そうだったのだ」と気付くのです。皆様もそんな出会いをご経験されたことがお有りでしょう。

その格別の場面は例によってつまらないキッカケから惹き起こされました。

3月21日の事です。冷えてはいないが徹底的に無関心の老婆(ラオポ)と老公(ラオコン)にも結婚50年の記念日がやって来てしまいました。中国出張の予定を組み込んでいましたが老婆(ラオポ)の呪いがかかりそうな気がして出張を取りやめ美味い飯にでも連れ出すことにしたのです。それであの福岡市の平尾交差点の「初心」に席を頼みました。

その日の朝「飯だけじゃあね・・・」そこで充分に記憶の外にある面倒なドライブに出かける次第になったわけです。柳川の老婆(ラオポ)の実家に久し振りに顔を出し昼飯時前にいとまを告げ、八女の方で何か食べて久留米絣の作務衣でも探して時間潰しをするコースを選びました。

ところが全く不毛のドライブ、昼飯はよりによってドラッグストアでの冷たい弁当、それに二軒の機屋(はたや)も休日。地場物ブームのご時世に乗っているのでしょうか、ちっぽけな機織り屋の大きな駐車場に観光バスが押し寄せているのが見て取れます。馬鹿馬鹿しくもあり最悪の遠出の予感。これじゃさすがに老婆(ラオポ)にも悪い。ここはなんとか挽回しなくっちゃ。

そこで記憶の歯車を回しました。確か50年程前、小石原の力太郎の本家の窯で修業していた2人の若者の一人「源太」が八女で窯を開いる事を思い出しました。愛車の中でネットを開くと「星野焼源太窯」とありました。そこでちょっと源太窯とやらを覗いてみる事にしたのです。

そこで青春の忘れ物に出会ったのです。