ケミホタルの話(その5)

   1977年12月28日早朝フェリーは行橋港に着きました。ふる里Uターンです。

失業の不安を懸命に隠す中洲士郎と初めての家族揃っての旅にはしゃぐ子供達を乗せたニッサンサニーが一路二日市の新しい我家へ向かいます。

M団地は県内でも最安値クラスで住宅公社開発の団地です。建売り物件はいわゆる文化住宅という平屋の如何にも住めるだけの代物です。安さだけでなく長閑な田んぼに建つ木造の小学校が気に入ってこの場所を選びました。40年後の今もタエと士郎の棲家です。-

中洲士郎には今もそうですが凡そ経済観念が無く在職中は毎月殆どの給料を使い果たしていました。退職金が臨時に加わっただけの手元資金は100万円を僅かに超えるだけです。失業して住宅ローンも始まるし、さすがの士郎も不安がつのって参ります。

諸君!会社辞めても決して焦ってはいけないが少しは蓄えを残しておこう。とにかく出費を抑えて生き延びるのです。必ず転機が訪れます。

中洲士郎、職は失ったが自由を手にしました。まあ失業保険も貰えるし暫くは喰って行けるだろうと自分を慰めます。1978年の年が明けました。さて何を始めようか思案しましたが、ケミホタル計画に直ぐに乗り出す気にもなれません。少しだけ時間を楽しませてもらいましょうとライトバンを走らせて焼き物の村「小石原」に行きました。

高校時代何度か遊びに行った梶山豊太郎のうちを覗くことにしたのです。78歳になった豊太郎爺さん、聞けば本家を飛び出して行者杉の下で独り単窯を焼いているというのです。訪ねると喜んで迎えてくれました。

「爺さん!弟子を取る気はないか?弟子がダメなら手伝いをしよう」それから毎日通っては手伝いを始めたのです。

小屋を整理して爺さんの写真を飾り新聞に売り込み徳利を引けば日本一とふれ込みました。実際豊太郎爺さんの技術は凄いのです。それに話術も巧みでたちまち小石原一の人気爺さんになりました。そして見物客にはこの失業者の士郎を「先生だ」と紹介するのです。

士郎も調子に乗って底に穴が空いた花瓶をエポキシで塞ぎ「豊太郎名人の失敗作だ」とか何とか言ってはガラクタ壺を売りまくるので爺さんも調子に乗って島根から植木鉢を仕入れて売り始める始末。小石原の「イカサマコンビ」の誕生です。

爺さん金が入ると原鶴温泉に行っては芸者を上げて飲み明かします。本家で噂しました。「あの時の高校生、20年経って今度は爺さんをたぶらかしにやって来た。持ち山の杉を売って金を作ってニューヨークで個展を開くらしい」と。

豊太郎の名人芸をニューヨーカーに披露しようと思ったのです。実際豊太郎爺さんはこの士郎のプランに大変乗り気でしたが実現しませんでした。

高校生時代から続く爺さんの三人娘家族との親交は中洲士郎の人生の宝です。長女の「かつえ」の亭主ジロウさんは大皿焼かせれば小石原で右に出る者が居ないと言われています。それに大した男前で文化サロンの陶芸教室は今でも女性陣に評判です。

そのジロウさん「俺は種馬よ。息子を作って責任は果たした。人生楽しむだけだ」と屈託ありません。ある時中洲士郎を爺さんの窯で捕まえて「お前だったのか?うちの嫁さんの初恋の相手は」と。思いもしないその一言で士郎の失業者の暗い人生がいっぺんでバラ色に染まりました。

「あのかつえさんが俺の初恋の相手だったなんて!そんなのあるはずない」だが男前のジロウさんに敢えてそれを否定しませんでした。なんとなく女性にモテる気分を味わいました。

この気持ちのいい陶芸家夫婦はそれからもずっと士郎の会社を応援してくれています。

梶山豊太郎。中洲士郎のただ1人の師匠

ケミホタルの話(その4)

中洲士郎が創業者から特別待遇を受けていたセラミックス商社を離職することになりました。その経緯はこうです。

中洲士郎は独立計画バインダーの中の超小型化学発光体というB6インデックスカードを栗本に切ってからは、独立という淡く甘い夢が急速に現実味を帯び始めました。

1977年夏大阪中之島図書館で閲覧したACCの基本特許の資料やサイリューム製品1箱640本をACCの日本子会社から取り寄せて栗本に送りました。開発が順調との粟本の知らせが入ります。心が騒ぎ出します。「ヤッパリもの作りの仕事に入りたい。栗本のように光ってみたい」と。

土台どこから今のような商いの道に迷い込んでしまったのだろうか。そもそも冶金工学を選んだのは若子の旦那の山田稔が勧めたからでした。彼はボイラー屋で父親の亥蔵は釘屋。どちらも金属系だったわけです。

然し全く面白くない学問でして毎日退学しようと考えているうちに若子と同年の植田教授に出会い教えを受けて実験装置作りと理論を検証する作業を通して生まれて初めて学業の面白さを経験させてもらいました。

就活では山田稔のコネで北九州のS金属の線もありましたが気乗りしないしおまけに手にした「トーマスJワトソン」の伝記にミシンのセールスマンが60歳で起業したIBMを世界3位の大企業にする下りを読み「先ずセールスを覚えてみよう。製鉄所勤めでは世に出れんだろう」となんとも気安く進路を変更したのです。

そして植田教授に探して貰ったのが大阪にある小さなセラミック商社でした。

「この会社を辞めようか。辞めさせてくれるかな」遂に覚悟を決めました。大阪駅前旭屋書店の喫茶店でしたためた「不退転の決意で会社を辞す」との大仰な書き出しの辞表を総務部に提出して数日、全く予想外に辞表がアッサリ受理されて愕然とする中洲士郎でした。

1977年暮れ10年世話になった会社を遂に強く引き止められることなく退職してしまったのです。12月27日、日産のオンボロ車に同乗したのは柳川タエと幼い3人の子供それに手乗り文鳥の文太と幼鳥8羽。メスは逃げてしまっていません。

西宮からフェリーは福岡の行橋に向かいます。真夜中、デッキで独り漆黒の海が東へ流れて行くのを黙って眺めていると背後から「アンタ大丈夫ね?」柳川タエの声がします。            

「そうか。ただ面白いから真っ黒に泡立つ白い航路を見ていただけなのに身投げでもしないかと心配される境遇になったのだ」

国に戻り母親の店に身を寄せての一時、士郎の里帰りで(一緒に赤ひょうたんがやれる)と歓喜した中洲若子でしたが士郎の別の独立開業の企みを知って失望します。そして調理場をサボっては夜な夜な仲間を集めての二階での密談。若子と大げんかになるのが1978年大晦日近くでした。士郎から脱いだ割烹着を投げつけられた若子「何を!裏切り者め」とばかり激して店の円筒石油ストーブを蹴倒しました。

士郎は仲間たちが待つ人形小路の「かげやま」へ一目散。この「かげやま」という店は 中洲士郎それに妻の柳川タエが一番懇意にしておりここの女将は正しく「粋のかたまり」でした。中洲若子の店とは対極の雰囲気で森繁久彌が終生愛し続けた、止まり木5脚の居酒屋です。

壁一面には久彌直筆で「酒よし肴さらによし。女もよければ来てみんしゃい」と大書きされております。

中洲若子それが癪の種で「かげやま」には終生強いライバル意識を持っていたようです。死んでしまった今では、おっ母に悔しい思いをさせたことが悔やまれます。

その「かげやま」で「日本化学発光株式会社」の旗揚げ式を行いました。だがその事業は粟本主導で進みます。有田焼のK社を巻きこみ更にM百貨店外商部も加わり粟本は暗黙のうちに仲間の首班に収まります。粟本はキラキラした目の野心家で世の成功者の一人に列せられる素質は充分にありました。

但し彼の欠点は吹聴したがる事、それも事をなす前に誰彼となく自慢することでした。そして自縛にハマります。

ケミホタルの発案者が自分でなければ辻褄が合わなくなりました。「じゃあ中洲士郎は何者だ?」「あいつは山師だから首にする」との話が士郎の耳に入るようになるのです。

中洲士郎起業13番危機の最初の1番がそこに待ち受けていたのです。

思えば「あの若子の卵管での精子事件」以来世に出ても飽きもせず危機が続きます。死ぬまでトンマの中洲士郎なのでしょう。しかし皆さん。一つ一つの危機が実は面白く思い出されついつい喋りたくなってしまいます。これから時間をみては危機13番の顛末をここに綴って参ります。

ケミホタルの話(その3)

この4人の仲間たちとの出会いはこうでした。

中洲が社会に出て8年経った1977年、身を置いたのは窯業界、そこは泥にまみれ灼熱に炙られる最後進性の業界です。そこにファインセラミックスという耳慣れないハイテク製品が登場し京セラが大躍進して参りました。ならばと当時技術系新聞の紙面を賑わしていた気鋭の(売名の?)技術者、F社の栗本に依頼して(誘い出して)中洲が奉職していた会社で彼の開発物語をさせたことから事態が動き始めたのです。

ホラとは分かっても京セラを射程に捉えるのは有田のF社であり技術主任の栗本だと言う話は中洲の心を揺さぶりました。

栗本は無邪気に自分を天才と信じる活性の男で中洲には自分と同質の匂いが感じられます。会社で彼の圧倒的な自慢話が終わり大阪梅田の地下街で一緒に安い夕食をしながらお互い独立の夢を語りました。

互いが独立起業の夢を追っていることを確認すると「それではイザイザ」両者は独立カードを切りあいます。粟本のカードは猫用避妊パンツ、中洲が最初に切ったのはケミホタルでした。

猫の避妊パンツなど如何に下らんアイデアかを説明する必要は有りませんでした。栗本は無類の釣りマニアでそれから約1時間伊万里湾青島でのチヌ釣りの極意を聞かされたのです。

当然のように「ケミホタルの開発に是非加担させろ」となりました。

ケミホタルの開発ではガラス細管の加工が必要です。技術者と設備がなければ話になりません。有田のF社なら少しは可能性もあるだろうと栗本に開発を依頼したのです。

栗本は取引先S製作所の土海と九大研究員の福本を開発仲間に引き込み 中洲士郎は福岡で懇意にしていた弁理士事務所のアルバイト藤本を誘いました。栗本は自社の社長や経理課長もケミホタル開発で儲けさせると焚きつけます。大阪から遠い有田で騒ぎだけ大きくなって来ました。事態は少しまずい方向に進んでおります。

F社の故深田正一社長は東大出の深田家入り婿。実に純で栗本と因襲の焼物の街、有田にファインセラミックスの灯をともすのに躍起の夢追い人でした。経済畑で技術に暗いので栗本の口車に乗せられ会社の本業を離れて一緒にケミホタルで大儲けをしようとの栗本の誘いに乗ったようです。

深田には博多の中洲に想いの女性がいます。「バー白馬」の美人ママがその人で彼女を喜ばせるのに金も欲しい。その白馬のママは中洲若子の友達だし士郎とも挨拶を交わす仲ですからいろいろ情報が入ってくるのです。本当に世間は狭い。

当時作家の今東光が「小股の切れ上がった美人」という表現をしました。これがどんな美人を指すのか分からず「白馬のママ」がそういう美人かと勝手に解釈した記憶があります。

だからこれも余談ですが世界初のケミホタルのイヤリングは中洲士郎の物語では白馬のママの柔らかい耳を飾る事になるのです。そのことは深田正一 氏もご存じありませんでした。

さあケミホタルが動き始めました。だが下手をするとこのチャンスは中洲士郎の手からこぼれ落ちます。考えもしなかった退職が現実味を帯びてきたのです。

秀才には程遠い5人の技術屋が登場したところで中洲士郎の出生や起業して13回もの危機に遭遇した「ケミホタルの話」を始めましょう。時々ブログを覗いてください。

ケミホタルの話(その2)

4人のお客が代わる代わる好きな釣りの話を続けます。黙って伺っておりますと釣りが彼等の人生すべての様です。

そのうち少し若手の笑顔のいい男がシンミリした口調になりました。「僕は夜の磯で独りケミホタルを点けた浮子を眺めているのが一番好きです。唯ボンヤリ眺めて真夜中の磯辺で時を送って行きます。静かな時間の流れの中に緑に光る浮子がユラユラ揺れて来て沈黙の海中と暗闇にそよぐ磯風の接点でケミホタルが魚との語り合いを伝えす。次にケミホタルが揺れながら暗い海に引き込まれて行って、そーっと闘いの開始を告げるのです。焦る心を抑え暫く合わせるのを待つ。この時が堪らなくいい。ケミホタルのない釣りは考えられません」

彼の話を聴くと最早ケミホタルは我々の商品だとは言えません。開発者の手を離れて誰かに愛されてその人の生活の一部となっているのです。

中洲喜んで答えました。「そうですねお客さん。道具とはそういうものですね。私もこのiPad、いっときも手放せませんよ。確かに2010年4月に世に出たハナはこれに感動しジョブスを尊敬もしたけど今は僕の人生の一部で、開発者とは距離を感じます 。そう言えば昔、ケミホタル発売開始の数年間は世界中から手紙が届きました。写真や新聞の切り抜きも一緒にね。30年程前英国のケンプさんという人がケミホタルを使って25年振りに大西洋マッカレル(鯖)の新記録を釣ったとの知らせもありました。大きな獲物との夜の格闘、仕留めた興奮の様子が伝わってまいります。男女群島でカッポレ(平アジ)の日本記録が話題になりましたよ。どれもケミホタルで釣れたとありました」

夜のとばりが降りると岸辺の小魚を狙って大ダイ、ヒラマサ、スズキが走り海底ではヒラメ、メゴチ、クエなどがゴソゴソ動きます。結構賑やかな夜の海。夏が過ぎると台湾から回遊して来る太刀魚が小アジやイワシを狙って海の中は大騒ぎです。

こんな時はどの魚もケミホタルに興奮しているのか光った浮きにまで飛びつく始末です。そこから餌の近くにもケミホタルを付けて魚を釣るようになりました。世界の海で夜毎に夜釣りが裾野を広げて行ったのです。

「ケミホタルはこの赤ひょうたんのお店と関係あるのですか?」        

「あります。大有りです。この店の二階で5人の男が集まって何時も飲みながらケミホタル開発会議をやったのです。有田のF社の栗本、S製作所の土海、弁理士受験中の藤本、九大助手の福井それと中洲士郎、都合5名、全員技術屋でした」

近くのスタンドバー88で中洲太一と中洲ハルカ3人で飲み会の予定があったので話の途中でしたが人のいい4人連れにいとまを告げました。

88のエリカちゃんは実に魅力ある女性でね、色気を抑えた立ち振る舞い、それにシェーカーを振る時の職人気質の仕ぐさがいい。ファンが多く大抵満席です。

ニューヨークのソーホーにはミュージカルのオーディションに臨みながら夜はバーでアルバイトに励む娘達の姿があります。人生とは演技なんでしょうか。娘たちを見て中洲ヨタヨタするなと自分に言い聞かせます。「今夜の俺はハンフリーボガードだ」とばかりに背筋に張りを付けてオーダーするのは大抵塩で縁取りされた極冷えのウオッカです。

先程の店の4人連れのことを振り返ります。そんな画期的なケミホタルが (実はイカサマでね) と告げたら彼等釣り師の夢をぶち壊すでしょうか。物事の真実って一体なんだろう。

特に発明発見ストーリーはどう伝えればいいのでしょう。思うに発明発見とは大抵(パクリのリレー)なのに我々はそういうものに泣いたり笑ったり嫉妬したり感動しているのではないでしょうか。まあ「イカサマ」だろうと軽く受け止めて貰えると救われますが「大したものだ」と思い込まれたら辛いものがあるのです。

そもそも今回のブログのテーマは日立の技術者とのツーショットから始まったのです。

ケミホタル開発に5人の技術屋が集結したのですと4人の釣り人に語りました。優秀な技術屋と匂わせたのです。その方が筋が通ります。実は5名に共通しているのは学歴が幅を利かせる社会に不満を持ち(即ち一流大学に入れなかった)組織に順応出来ずに日を送る落ちこぼれだったのです。

さて偉大なケミホタルの発明者は誰だったのかどうして生まれたのか綴ってみましょう。

ケミホタルの話(その1)

老婆(ラオポ)にとって「赤ひょうたん」はトラウマで近づこうともしません。それが士郎の母親若子が死んで5ヶ月後若子の88歳の誕生日にその若子の店「赤ひょうたん」を士郎が再開してしまったのです。2014年の春のことです。若子鎮魂と言う建前でね。これはその時の物語の一つです。

   赤ひょうたんに4人連れの客があり中洲士郎に幼友達に巡り合ったような親しみの目を向けました。店の飾り窓に白いマーカーペンで「ケミホタルの里」とあるのを見て店に入ったそうです。

「この店、もしかしてケミホタルと関係があるのですか?」何か宝物でも探り当てたかのように嬉しそうな笑顔を士郎に注ぎます。一方の士郎は隠し置いたルアー(疑似餌)の魚信に微かな笑みを漏らしました。勿論好人物らしき4人連れにその士郎の表情の変化の意味をくみ取れる筈はありません。

    全国に釣りを少しでもかじる人の数1200万人位の中で夜釣りを楽しむのは限られます。100万人位としましょう。その人達は殆どケミホタルを知っています。多分このケミホタルが世界に夜釣りを広めたのでしょう。

人間に与えられた楽しみの一つが道具を手にすることと新しい道具を工夫することです。孤独な幼児が竹笛を鳴らして野鳥と会話を始めるように誰しもそうやって道具を手にして人生が始まり短い一生を終えるのでしょうか。

アメリカ自然史博物館、ここをウロつくと人間と道具の関わりが沢山の仕掛けに物語られています。中洲士郎ニューヨークに行くと大抵一日ここで遊びます。連れの女性が博物館散策が好きだったらその人はきっといい女です。

      色んな道具の中で釣り道具は特に面白い。同じ空気中の生き物じゃなく別世界の水中の獲物の姿を想像して捕獲するのですから刺激的だし知恵がいるのです。誰よりも優れた道具が欲しくなります。だから釣り道具にはその時代の最先端技術が詰め込まれているのです。

少々値が張っても、見合う獲物が取れれば道具は直ぐに売れます。面白いことに現代でもナイフで削り出した棒一本が釣りビジネスになるので起業の一大宝庫であります。青春のひと時「一旗上げたい」と思うのは人の世の常、例えその一歩が踏み出せずともです。

中洲士郎もその一人でした。ローレライの妖精の囁き「起業しなきゃアンタ後悔するよ」に乗せられ小舟を手のひらで漕ぎ出してしまったのです。一家の命の支えである毎月の銀行振込がピタリと閉じられる恐怖の世界です。

とにかく漕ぎ出しました。

破滅の予感です!実は自分には人も金も技術もない紛れもない素寒貧でどうしようもないトンマだという認識があったのです。

神戸の港からフェリーで故郷の博多に戻る前のいい加減な独立プランの一つが釣具それも夜釣りの光の開発でした。大それた実現出来る筈のない企画、今思っても背筋が寒くなる舟出だったのです。

生まれ変わっても絶対こんな真似はしません。ああ幸いに人は生まれ変わることがないから安心です。

   そしてその恐ろしい起業の話をする機会を伺って「ケミホタルの里」という疑似餌を仕掛けていたのです。

酔客の一人が目に止めて朦朧とする脳裏に「ケミホタル」と手書きして「ケミホタルだと?」と呟きながら店に入って来る筈でした。

 だが実際に入って来たのは酔っ払いでなく40歳位の女性一人男性3人の真面目な連中でした。皆無類の釣り愛好家だったのです。そして会話が始まりました。

「ケミホタル」の話です。(続く)

ケミホタルの話をしましょう

ずっと出張が続いておりました。昨日大連から成田に着いてビッグサイトでのスポルテックショーに大連でこさえたバンバンライトを展示しました。今日はもうくたびれ果てて着陸した福岡空港からヒメノさんの運転でお互いの棲家二日市に向かっております。

「何とかBi見逃サーズをヒットさせたいなあ。この前の18日からのメンテナス展どうやった?」「こいつは凄い。あんたんとこの会社の株買っとくべきやった。安いなあ。どうしてこんな値段で出せるの?味噌樽の中覗くの大変でね。脚立は危ないし。これなら楽だ。すぐに買いたいな。そんなこんなの凄い評判でしたよ」運転中のヒメノさんの話に疲れが吹っ飛びます。

そう言えば宿題を忘れていたのを思い出しました。ブースに日立のエンジニアがやって来て「こんなモノ出されたらもう参ったな」「すみませんねえ。ウチは釣り道具屋だから竿は得意なんですよ」「会社は初めケミホタルってもの出しましてね」「えっ!ケミホタルだって?僕はその大ファンよ」彼暫くして県庁の釣り仲間とやらを連れてきて「記念写真撮らせてよ。ケミホタルの発明者と一緒のところを会社のブログで紹介するんだ」だって。

そうか中洲士郎はあのケミホタルの発明者なんだ。これってこの前の勲章よりも凄い誉れです。そしてお二人にケミホタルのカタログ送るって約束していたのを思い出したのです。

ついでに明日はそのケミホタルの話の一つを皆さまに紹介させて頂きましょう。

首から吊るしたタブレットには天井裏に隠れたあらいぐまが写ってます。

キホーテに倣って

昨日の朝のMU便で上海に飛び昨日今日とビリビリアニメエキスポを視察しました。ここでのルミカの新コンテンツの確認でした。

世界中の若者たちはSNSで瞬時に情報を共有し逸早く最先端の流行に追い付こうと真剣です。

中国の起業家達も同じく獰猛に獲物を捕獲しております。彼らに貪欲で勇敢な投資家が続きます。孫さんが遂に運輸行政に噛み付きました。米国ではUBER中国ではDiDiが無ければ最早生活が成り立ちません。これを白タクと定義する日本の役人に悲鳴を上げているのです。便利さを知らない日本国民はさほど苦にもしません。しかし最早貴重な収入源のインバウンド達が日本の不便さに黙っちゃいないのです。

規制政策の問題は企業の開発力ひいては国力の彼我にどうしようもない格差が付く事です。既に中国には全産業でどんどん引き離されております。

数年前からニコニコ動画配信が日本に生まれて広がりました。これをパクり違法動画をどんどん吸い込んだビリビリ動画が市場を席巻しているそうです。そして今回の視察がビリビリワールドでした。ドローンも飛び回る物凄い設備の展示会です。そこに未だ未成熟のコスプレ人種数10万人を吸い込んでロボットアーティストが大音響で彼らを教化しておりました。真面目で熱心な若者達が来年にも日本を追い越して世界に新らしいコスプレ文化を広げるでしょう。それがニコニコを瞬時にそして遥かに飛び越えたビリビリのコンテンツなのです。

かと言って企業の劣勢を無策行政のせいにしちゃいけないと思います。世界で日本ほど起業に恵まれた場所は無いと念じるべきです。セレンテビティ精神でルミカは何処にも負けないコンサートの光パワーを確立しました。ウチの連中はオタ芸コンサートという新しいコンテンツを作り上げて世界中に進出しそうです。逞しくも逆に中国企業のやり方をパクっておりました。

となると老兵中洲士郎はヒカリモノを卒業していよいよ「Bi見逃サーズ」で勝負するしかありません。痩せ馬ロシナンテに跨り中世の騎士を模して槍ならずBiRodを傍らに目指すは悪魔の化身の風車です。

 

暑い夏の夜には

仲間たちをビッグサイトに残して1人帰福です。ホンダの愛車で空港から我が団地に到着したのは7時も過ぎていました。

明日から又出張で今度は上海です。髪が伸びて何ともスッキリしません。そうです今日は散髪の話です。

日常で頑固に変わらないのが散髪でしょう。誰しも散髪の物語すれば一冊の本が出来上がりますね。何しろ月に一度の散髪だけは巷に溢れる品物みたいには変えられないのです。

だがこんな時間に「花花」が店を開けてるはずがありません。6時半にはたった1人の店員鈴木君は帰宅します。半分諦めて電話してみたらマスター「いいよ。店閉めて書き物してるから開けよう」それでUターンして店に飛び込んだのは7時半でした。

ここでの散髪は摘む方も摘まれる方も慣れたもので15分とかかりません。客の誰しもこの散髪の間の他愛もない会話が店を変えられない訳の一つでしょうか。

「店閉めとったのにゴメン。何しろ明日からの出張、むさ苦しくてやりきれん」「いいよ。暇で絵を描いとっただけやから」「ふ~ん。相変わらず下手な絵描いとるの?」「始めて5年になる。それが人に勧められて県展なんかに出したらみんな入選してしまうんよ」「水彩の風景画やったよね」「今は油絵で仏像画ばっかり」「仏像画ならワケありだから審査員も簡単に落とせんかもしれんな。どうして仏像画なんか描き始めたの?」「宝満山のカマド神社に行って観音様描いたら自分でも上手く描けたの。それで他人に見せたくなって店のお客の1人に電話して見せに行ったの」ここまでの話は実のところバカバカしくて調子だけ合わせていたのです。

この後話が怪しくなってきて思わず背すじを伸ばしました。その散髪のお客の旦那、マスターの絵を見るなり泣き出してしまったという。観音様の顔がつい最近亡くした妻にそっくりだと言うのです。勿論マスターはその奥さんに会った事もないし亡くなったことも知りませんでした。それで哀れになって旦那に絵を呉れてやったら毎日大切に拝んでいるそうです。人伝に話を聞いた人に頼まれて仏像画を描いては上げること数十枚になったらしい。

絵心ある中洲には「下手な絵を描いて貰って飾る心境」が理解できません。ところが話に乗ってきたマスター、まだ客の髪をつみ終わっていないのに僅か2脚の散髪椅子の小さな店に奥から大きなキャンバスを次々と5枚も運び入れて来ました。今描いているのは3尺X6尺2枚のキャンバスに牛と岩盤に乗った2体の仁王像がお数珠で繋がれている様で更に3枚描いて都合5枚の屏風仕立てになるそうです。どの仏像も巧みな陰影の中で生身の人間に代わっているようです。勧められて今度は日展に出すらしい。信じられん。身近にこんな親爺がいるとはねえ。

ついでに写真帳の中の例の観音様の絵を見せて貰いました。淡いオレンジとピンクの絵模様の中の観音様は福よかな微笑みを湛えたいいお顔です。

どうも何かが中洲にこんな絵を見せるために時空を設定したのでしょうか。妻を亡くして悲嘆に暮れる亭主にその妻が観音像を描かせて届けさせたように。

暑い夏には怪談が付き物。西鉄朝倉街道駅から歩けば10分位。店の名前は「花花」です。

50年前の開発案件

満を持してBi見逃サーズの発表。場所は東京ビッグサイトで開催のメンテナンス展です。

BiRodはよく売れていますが専らプロ相手だから年間10億円の池ではなさそうです。一般消費者が欲しがる道具に仕上げれば数字はとんでもなく大きくなる筈です。

このBi見逃サーズをモノにする物語かそれとも全く当てが外れて悲嘆に暮れる話かを少ない読者と共有させていただきます。

どんなに優れた新製品でもヒットさせるにはそれなりの話題作りが不可欠でしょう。ある種の企みですね。これの方が開発よりも面白いかも知れません。結局石巻からは返信ないので大震災海底捜索行は止して上海ビリビリワールドに針路を変更しました。上海から戻って策を講じましょう。

見本市なら歩き回ってネタ探しが堪らなく面白いです。序でに今年入社の新人女性社員を連れて商品開発の特訓もやりました。

見本市ブースでの社員の応対でその会社の開発力の実態が分かること。ICレコーダーで録音して戻って情報を反すうする事。カタログが一番の教科書である事。女性もあらゆる分野の技術に明るくなる事。などなど年寄りの繰り言をどれ程理解してくれたでしょうか。

会場での沢山のネタ探しの中で涙が出るほど嬉しい情報がありました。橋梁の伸縮継手です。中洲は新卒で入社した小さな耐火物商社で運良く勝手に商品開発して起業させて貰いました。

その最初が橋梁の伸縮継手です。厚かましくも天下のBSに駆け込みタフジョイントと言うブランドで世に出しました。何のことはない。それは社外恩師であるアライ氏のラバトップジョイントをパクっての商品開発でした。そのアライ流起業術と稀有な営業力こそ中洲の生涯の虎の巻です。そのアライ氏今や80歳。会長職で当時3歳の息子が社長で会社TG道路は存続中との事でした。

それだけでは有りません。未だ伸縮継手の決定打が世に出ていないから誰も市場を制覇していないのです。更に3M社のブースを覗いたらそこに大秘密が寝ているのを発見しました。血が再び騒ぎ始めます。これって世界の橋梁の伸縮継手の革命となるに違いありません。

あの当時伸縮継手で青春を燃やしてからもう半世紀も経過してしまいました。

5歳の子供

7/14(土)22歳のその娘は博多の中洲でバーやっておりました。店がどうにか軌道に乗ったので祖母の元に預けていた息子を店に引き取ります。

母親として振る舞うのは初めてのこと。ぎこちなく「電車に乗せてあげよう」と息子を西鉄急行電車に乗せて天神から春日原の大神家に向かいます。息子は生まれて初めて乗る急行電車、車窓の街の景色がどんどん後方へ移るのにおどろきながら女性を観察します。地味な和服に身を包んでいます。「大きい姉ちゃん」と呼ぶのも憚られかと言って「かーちゃん」と呼ぶのも恥ずかしく生まれて初めて誇らしくウキウキしました。春日原まで立ったまま、母親はずっと窓の外を眺めて無言でした。昭和24年の春中洲士郎5歳になったばかりでした。

あれから70年。筑紫野のイオンモールの3階。前を歩く息子夫婦とワガママ一杯の5歳と7歳の孫を見ながらあの時の記憶が蘇りました。「今日は金持ちの爺ちゃんにおもちゃを買ってもらうのだ」と連れ出されております。