大島東市の話(その8)

釣り具での販売は契約書は改正されたものの大島に任せているので市場の様子が伝わりません。それで中洲は独り小売店や専漁問屋を訪問します。どこもケミホタルの社長が来たと言うので歓迎してくれました。大島は威張るのが好きでセールスは不得意のようでした。

寒さが厳しい時節でも北海道向けの出荷が落ちません。5°C以下になれば「ぎょぎょライト」は光らず使い物にならん筈だがと訝しんで札幌に飛びました。1980年の暮れです。

「お客さん何処から?」「九州福岡から」「どんなお仕事?」「まあ釣り具ですね」「私も釣ファンだけど。竿かリールですか?」「いや。ぎょぎょライトってつまらんものこさえているの」「何い。ぎょぎょライト!それが手に入らないから困ってるのよ」「娘さんいるならぎょぎょライトのイヤリング上げよう」喜んだ運転手さんタクシー代サービスしてくれました。タクシーに只で乗ったのは生まれて初めての経験です。それも何故なのか訳わからずです。

着いたのは札幌駅前の大型釣具店のアメリカ屋さんです。そりゃ当時は日本一と言っても過言でない規模と売り上げのお店でした。

驚いたのは「ぎょぎょライト」がお店に並んでいないのです。聞くと「品が足りないのでお得意さんにしか売らない。売るときは新聞紙にくるんでこっそりと手渡す。店頭に置くと直ぐに全部買い占められてしまうから」と。

話を聞いてその足で小樽の大島が卸している佐野商店さんを訪問しました。「大島からすんなりと品物が入らず困っている」と。

親父が小樽港の堤防を見学に連れて行ってくれました。

「あの左の暗い半分はぎょぎょライトが手に入らない札幌の釣り人。右の竿先が光っている連中は小樽組。皆3~5本の置き竿。ぎょぎょライトが付いた竿では大物釣れているが光が無い連中は車の中で寝ているの。可哀想に夜が明けなきゃ釣りが出来ません」釣り具小売店はぎょぎょライト確保が死活問題だったのです。大島の奴めと歯ぎしりしました。

こんな状態でしたから水面下で「ぎょぎょライト」コピー作戦が進行し翌1981年2月に「ちびピカ」の出現です。恐らくアンプルで栗本が原液のカラクリで大島が暗躍したようでした。但しチューブの溶封技術が分からず商品としてぎょぎょライトのレベルには達しておりません。

1982年4月には日本化学発光直販を大島商会に通告し大きな補償金を支払います。その大島東市はその補償金で喫茶店を開いたようでしたが矢張り化学発光から離れ難く結婚式の光る液体の演出を始めました。神事「水合わせの儀」を化学発光で幻想的に演出させたのは大島東市です。日本化学発光を退職した数名も一緒にこの事業に携わり競合相手と成りました。しかし結果は日本化学発光を利するだけでした。彼も(びっこのアヒルの群像のひとりとして)40年間懸命に水を掻いて化学発光に歴史を刻んだのです。

これで「大島東市の話」は終わります。

再失業の危機を偶然乗り切った「第2の危機」なら会社出生の弱点が「第3の危機」で克服し解消されました。だがその代償で「第4の危機」を迎えるわけです。これを1981年からの物語として「青山紀夫の話」に述べます。これは米国ACC社と独占契約を勝ち取って危機を乗り切った面白い話です。

会社創立2年目の1980年も初年度同様大変でした。社会では5月にはモスクワ五輪のボイコット9月にはイラン・イラク戦争が勃発し日本化学発光同様揺れ動きました。

大島東市の話(その7)

縁が無かった筈の青山先生からの静かで落ち着いた声です。「その後大島商会とはどうなりました?ふと心配になって電話しました」受話器を手に薄暗い工場を見回した程です。何だか透視メガネで見られているような気分です。

後に分かったのは青山がこの電話を寄越したのは彼の2度目の会社倒産でヤクザも混じって取り立て騒ぎの最中だったのです。あの時の清楚な女性「チーコさん」が機転を利かせて青山を建物の外に出し債権者を応接室に閉じ込めて外から鍵を掛けていたのです。

青山は史劇作家、演出家、そして彼女は史劇のヒロインでした。100人もの大所帯の劇団パロックの維持は並み大抵ではありません。団員達の私財を取り込むにも限界があり下手な事業に手を染めます。見栄っ張りの青山教祖のもとで借金は膨らみ続けました。そこでM百貨店山本部長と図り「日本化学発光」奪取を目論んだわけでした。

極楽とんぼの中洲士郎電話から戻り仲間に告げます。「神様の思し召しか。東京の凄い先生が大島のこと心配して電話を下さった。この先生に相談してみる」

中洲は青山を博多に呼んで大島と対面させました。青山の圧倒的な存在感の前に大島は職員室での小学生のようにかしこまっております。

「この契約書では大島商会の権利は法的に保証されないから作り変えて上げよう」との青山の優しい言葉に素直に頷きます。

すると青山、テーブルの原稿用紙に万年筆で一気呵成に契約書を書き上げました。一字の修正もなしです。サッと両社の署名を取り付けました。

これには契約の解約条項と補償金規定が盛り込まれております。(1982年相当の金額の補償金が大島に支払われて契約が終了しました)

先生の腕お見事。なるほど彼は東京理科大学講師、英文学者、高名な劇作家、役者、心理学者おまけに詐欺師だったのです。結局日本化学発光の収益の大半が大島から青山へと流れが変わっただけでしたが。

怪人青山は士郎にこぼします。「ああ嫌だ嫌だ。俺はあの小商人の無知な大島を騙して彼の得べき利益を掠め取っている」と。数年後「チーコさん」にこぼしたのは「生まれてこの方これ程人に利用された事はない。中洲には本当にやられた」と。中洲士郎人生でこれ程の賛辞を得ようとは。

大島東市の話(その6)

会社創立1年目の1980年2月東京晴海の国際見本市会場です。今回は自前のブースを持った東京釣具ショーで華やかにぎょぎょライトの発表です。

その人混みの中で今でも冷や汗の物語がここで始まりました。

その男、身長190cm近く堂々たる躯体 、大きな額が薄くなった頭髪の中に広がり眉は反り上がり眼光鋭く鼻はギリシャ彫刻に見る少しだが鷲鼻、唇は赤味を帯び少し薄いが品良い笑顔を作っております。   まさに歌舞伎役者のようでした。                          未だ嘗てこれ程立派な容貌の男に会ったことがありません。

付き添いの女性は黒いスカートに真っ白のブラウス、髪は清楚に結わえられております。

小柄だがいかにも知的な美人です。その彼女からその男青山への呼びかけは「先生」でした。この二人の出現で一瞬観客が静まり返えるのは正に後に知る詩劇の舞台です。

Mデパート山本部長の仲介などの通り一遍の話題の後、(既に予備情報は彼のもとに入っていたようで)現在の大島との販売契約に及び士郎差し出す大島と栗本の確約書を一読します。

彼は答えました。

「どうして折角の有望な事業を起こすのに端(はした)金でこんな契約を交わしたのか。この契約書がある限り貴方の会社は生き残れない」と。

そう宣託を残すと長居は無用とばかりに会場を後にしてしまいました。

名刺には「株式会社バルジン 代表取締役青山功夫」とあります。

「よくハッキリともの言う人だ」と感心すると同時に、この20分ほどの立ち話の間彼の表情は能面の様に変わらなかったのが強く印象に残ったのです。

さて読者諸君、世には色んな人がいるものですね。我々凡人からすると遂に彼の人生の命題が(どうしてそんな事でそんなに悩むのか)理解出来ないことがあります。

彼青山功夫は業(ごう)深き人の性(さが)を凝視して苦悩を背負って歩き続ける自らを「シジフォスの再来」だと信じているようでした。だから彼の事を軽々しくコメント出来ないのです。

しかし中洲士郎は図らずしもその超人に出会い戦ったのです。この第3の危機の記述は難しい。若しかしたら近い将来日本の偉大な知性人として青山功夫は蘇るかもしれないのです。(但し中洲士郎にペンの力が有ればの話ですが)

ここではどうやって大島商会との因縁の契約問題を解決したかだけ記しておきます。「これなら命を失う」と勧告する医者なら命を救う手立てを知ってる筈ですから。

翌3月北九州市小倉の西日本総合展示場で九州釣り具見本市が開催されました。ここでは一応仲良く大島と一緒にブースに立ちケミホタルの宣伝をしました。問題が起こったのです。

大島のやつ自分の晴れの舞台を惚れた美人の嫁さんに自慢したくて彼女をブースに呼んでました。お昼の時間です。中洲士郎は何時も女性にはそれは礼儀正しく親切です。「奥さん。仕事は旦那様にお任せして一緒にコーヒー飲みに行きませんか?」と誘い出しました。結果的にはこれが大島の逆鱗に触れてしまったのです。

後日ご丁寧にも会社の全役員宛に告発状が届けられました。

内容は「中洲士郎は無礼な男、自分の家内をコーヒーに誘って誘惑した。(但しうちの嫁はんはそんな手には乗らんが)兎に角けしからん男だ。云々。即刻解任せよ」と息巻いています。面倒だが日曜日遠賀の工場に4人の仲間が集合して協議です。

告発状を手にした3人の役員笑うでもなく怒るでもなく例によって何の発言もありません。「要するに大島ってのはそんな奴だ。しかし栗本との契約書取り返すまでは問題が続く。どうしたものかなあ・・」中洲独りため息をついたそんな時でした。

日曜日なのに電話のベルがジリジリと・・・。

大島東市の話(その5)

 ブログが進むにつれて中洲士郎今更ながら自分のマヌケさを思い知らされ呆れております。人の話を直ぐに鵜呑みにして大抵疑うことがないのです。

諸君、特に耳打ちでもされた時は(何か裏があるかも知れない)と疑って、何なら無視する方が安全ではないでしょうか。

その代わり賢明と思える判断ばかりで事に当たると人生で世にも奇怪な物語に出逢えないかもしれません。この奇っ怪な事の起こりはこうです。

1980年1月大島東市騒動の最中、電話がありました。

「M百貨店の山本で~す。士郎さん元気~↑。東京に良い先生がいるから紹介したいの。東大理一から文転した法律にも明るい先生だ。そ~お。東京に来るの。それなら今度その東京釣具ショーに顔を出されるから会ってごらん」Mデパート外商部山本順一部長からです。

この男、曲者。外商部部長の名刺で日本中に人脈を張っており独特の嗅覚でマッチメーカーの役割を果たしております。商業高校卒ながら努力し営業で頭角を現して外商部部長に栄達しておりました。老舗のMデパートとは誰もが取引を夢み彼に取り入ろうとします。元来人一倍面倒見がいい山本のところに商品と人材とイベント情報が毎日のように流れ込みます。彼はその情報を操り利を得ております。それがデパート外商部なのでしょうか。

土台、有田のF社とは「第2の危機」で袂を分かっているからMデパート外商部とも縁が切れた筈なのに。だが電話の中で(その先生に大島との契約の相談でもしてみようかな)との考えがよぎったのです。何事も好都合な方に思考を進める悪い癖が出ました。

あの脅迫電話の一件から大島商会との契約は改定しなければ会社の将来が危うい。かと言って弁護士に相談できる内容じゃなさそう。そこで大島東市を懐柔しようと会って話をしてみました。

「色々煩わしいからいっその事、会社を合併して一緒にやらないか」との士郎の提案に彼の答えがふるっておりました。

「鶏頭となるも牛尾となるなかれだ。俺は独立を選ぶ」と応えたのです。(士郎と同じ会社では嫌だ。一緒になればこの士郎に牛耳られる)という訳か。高校の漢文の大石亀次郎先生からは「鶏口牛後」と習ったような気がするが兎に角「簡単にお前の都合いいようには行かんぞ」と言っている訳です。

それでどうしたものかと頭を悩ませていた丁度その時でした。オレオレ詐欺みたいに山本部長が電話を寄越して来たのは。こうして人は策略にハマるんですねえ。

大島東市の話(その4)

大好きだった崔朝栄の話が長引いて大島危機が先へ進みません。

オフィスには少し垢抜けしない若い娘がいました。崔の身の回りの世話を焼いているという。崔の執務室は何の飾りも無く猟銃と刀が真っ白い壁に掛けられていました。その壁には5、6箇所穴が空いています。

「これか? ピストルの弾丸の跡だな」事もなげに答えます。そこにいる崔朝栄は修羅場で牙をむいて闘う別の獰猛な男なのでしょう。

「どんな仕事しているのか?」に答えます。

「なあ士郎、分かるか。この日本に俺たち三国人がまともに働ける場所などないのだ。パチンコ屋か金貸しかヤクザしかない。俺は金貸し業それもヤクザ相手の金貸しを選んだ」ヤクザも人の子、崔に凄まれておとなしく借金の返済に応じる姿が映る。

「事務所で迎え撃つのはいいとしても外での立ち回りは怖いだろう?」         「確かに怖いが車のトランクのゴルフバッグには何時も日本刀を隠し持っていて、これで相手を斬りつけると大抵の奴は参るよ。刀の不法所持で警察の取り調べを受けたが素早く刀は藪に投げ入れ (防戦したのはこの5番アイアンだ)と逃げたね。どうせ相手はチンピラヤクザだ。傷跡がゴルフクラブじゃないのは明白だがお咎め受けずだったよ」

ふと気が付くと我々市井の分別という鋳型の中に毎日押し込められている人間達にとってはこういう(有無を言わさない非常識な)世界に憧れが湧いて来ます。

崔の話に思わず引き込まれる自分の馬鹿さ加減に呆れていました。                「他にどんな商売やっているのか?」「取り立て屋だ。借金しながらつべこべ言ってドロンを決め込もうとする連中を見ると全く虫唾が走る。手形を不渡りにする常習者達も相手だ。本気で腹が立ってぶっ叩くこともある。借りた金は返す。それが当たり前だろう。なあ士郎」                                                                      この辺りになると小学校時代の正義漢崔朝栄そのままです。

「結婚はどうしたんだ?」「士郎。それよ。俺は悪いことをしたね。やっぱり嫁は朝鮮から貰えと諭されてソウルに行った。韓国語は全く話せないが日本で会社の社長をやっている朝鮮人2世という触れ込みでね。そうしたら韓国で大層由緒ある家柄の娘が紹介されてね。ついつい唯の金貸し業だとは打ち明けれずに日本に連れて来てしまった。全く悪いことをしたもんだ」こうなると崔朝栄は本当に無邪気です。小学校時代もそうでした。だから皆に好かれたのです。騙されて朝栄について来たその嫁さんもきっと崔に惚れてしまっただろう。

そうそう。朝栄と士郎、あの怖かった花田先生とも一番の仲良しになりました。

ところで肝心の大島東市からの脅し対策ですが「ヤクザは頭悪いからこんな問題は引き受けない。先ず金にならん話に出てくるわけがない。大島とやらは格好つけているだけだ。万一ヤクザが絡むなら警察への通報が一番。スネに傷持つ連中のこと直ぐに退散するよ」

別れ際崔朝栄「士郎も会社経営で大変だろうな。お前は夢を追えよ。何かあったら俺は士郎に命をかけるからな」と少し暗く呟いたように記憶しております。

確かに崔の見立ては確かでした。だが大島今度は別の角度から攻めてまいります。

その崔朝栄は10年ほど後命を落としました。崔朝栄を人違いしてチンピラが匕首で刺したのです。退院後彼と会った時は元気でした。肝臓に傷を負いましたが胴にサラシを巻いて動き回っているのです。士郎にシャツを開いて見せた白いサラシには血の滲みがあります。士郎が心配しますと事もなげに「時々少し出血するだけだ。そのチンピラの奴、人違いで刺した相手がワシだと知ってビルから飛び降り自殺しやがった」と。

その後暫くして同級生から崔朝栄の訃報が届きました。傷を負った肝臓が悪化して急逝したとの事です。全くなんという奴だ。

大島東市の話(その3)

その崔朝栄とは中学で別れて20年経っています。士郎がUターンで故郷に戻り赤ひょうたんの止まり木に羽を休めていた時舞鶴中学校の学年同窓会がありました。

顔ぶれの中に懐かしい崔朝栄の顏があり明らかに堅気と違う空気の崔が女性陣の注目を引いております。一緒について行った二次会の席でも酒が入り賑わいの中心に崔の姿がありました。この20年間朝鮮人2世としてどうやって生きてきたのか興味が尽きませんでした。

この再会からしばらくして「赤ひょうたん」に大きな身体を現しました。律儀な男です。派手な外車で運転手が「へいこら」して送って来ました。

中洲若子も崔朝栄を良く覚えており、崔が「お母さんの作ってくれたカボチャと小豆のいとこ煮は実に美味かった」というと崔をウットリ見つめながら「崔君の食べっぷりは小さい時から今も色気がある」などと訳のわからんことを言っています。

店の板前も崔の雰囲気に惚れ惚れして「崔さんは本当に士郎さんの幼馴染ですか」と侮辱的な言葉を吐く始末。崔、カウンターの中で小さくなっている士郎に目をやり「士郎、何かあったら何時でも俺を訪ねろ」と囁きました。

そんな事があって大島の呼び出しを受けた時、まず崔朝栄に相談することにしたのです。

赤ひょうたんに彼が姿を出して1年経っておりました。

天神の岩田屋で待ち合わせしました。親不孝通り近くの彼のオフィスマンションに向かって肩を並べて歩きます。小学校の時は士郎にとって兄貴みたいな存在でしたので一緒に歩を進めるとその懐かしい気分が舞い戻ってまいります。

がっしりした躯体から発する明るいオーラには野生的な匂いがあります。

世にイケメンで女性にモテる男は沢山いるが逞しい野獣の牡が雌を引き付けるモテ方は士郎の世界では余り目にしません。途中パチンコ屋から出て来た可愛い店員らしい娘も崔に嬉しそうに挨拶をします。朝栄の奴「この娘とも寝たな」笑って士郎に教えます。

大島東市の話(その2)

 崔朝栄と言う男がいました。士郎の幼友達で独りぼっちの士郎にとっての憧れでした。

母親は日本人、父親は韓国人です。博多港の縁、須崎という街のいわゆる朝鮮人部落に住んでいました。家は廃品回収業だったようです。お互い行き来して彼の母親には何度か会いました。優しい人で粗末な身なりに真っ黒に日焼けしたお母さんだったと記憶しています。

あの時代玄界灘を自ら渡って、或は日本の憲兵に拉致されて来た朝鮮人の若者に日本人の娘が嫁いで暗く重い物語を紡いでいます。大部分の在日は差別と貧困に打ちひしがれ、宿命を背負った2世の子供達もやはり苦難を強いられて差別の世を渡って行きました。孫正義さんもそんな絶望的な環境で不屈の精神を養ったのでしょう。

あの当時着物姿の艶やかな若子は際立っております。大名小学校では男の教師達、父兄たちの若子を追う目、そして同窓生から「綺麗なお母さん」との羨望の声を耳にする度に士郎気恥ずかしい思いをしました。

そして崔朝栄の母親を見ると何故か「いいなあ。自分のおっ母んもこうあって欲しい」と思うのでした。何しろ若子はその時28歳の年頃、おまけに花街で男を手玉に取る修練を積んでおりましたので男の気を引くのが女の勤めと心得ております。逆に士郎は若子に近寄る男たち、若子に取り入ろうと士郎に目をかける先生が堪らなく嫌でした。

子供というのはとても敏感なのです。

そんな境遇にあって崔朝栄は素晴らしい作品でした。良い男を測る物差しが学歴や経済力だけじゃ面白くないじゃありませんか。(それは同じ境遇から彫り出された傑作孫正義と対極を成すものであるような気がするのです) 

混血の具合が良かったのか崔はとに角逞しい身体で、小学生の時でもすでに士郎より顔一つ背が高く士郎がぶつかってもビクともしません。大きな頭、広い額、張り出した頬に二重の大きな目が優しく見開き厚い赤い唇で口は裂けるように大きかった記憶があります。鼻も高くはないが広く十分に釣り合いが取れていました。逞しい身体それでいて何時も笑顔絶やしません。

同級生には誰一人手を出しませんでしたが上級生であっても他所の学校の生徒にやられたと聞くと必ず仕返しに走り込み、それもひどい仕返しをして相手校に恐れられました。

頭は確かに良かった。小学校3年の時でしたか全校で知能テストがあってIQが異常に高かったのでしょう。教育庁から3、4人の試験官が寄越されて崔朝栄にだけ2度ほどIQの再確認テストが行われました。学校のテストでは目立つような成績ではありません。周りの生徒は余り気付いていないが士郎は崔朝栄はテストで手を抜いていると確信していました。士郎は崔朝栄をいつも観察していたのです。

小学校4年で担任がそれまでの優しい女性の永島先生から花田先生に代わります。授業初日「昼休みは45分だ」の声にこれまでの調子でついつい「チェッ」と漏らした士郎の声を聞きつけると直ぐに士郎を教壇に呼び出しいきなり平手打ちの洗礼です。

生まれて始めて大人の赤い大きな手が顔に迫りくるという恐怖におののいていたら崔の奴、今度は昼休みに入って軽く「セシボン・・」と流行りの洋画の唄を口ずさんでこれも呼びつけられ吹っ飛ぶほど強くぶたれました。

教室の隅で士郎と崔朝栄の二人、この恐ろしい花田先生との出会いを嘆き赤く腫れた頬を押さえて震えました。

崔は舞鶴中学から高校は修猷館に苦もなく合格しましたが色んな暴力沙汰があり中退してしまったようです。その後地元の新聞を賑わし何度か刑務所にも入りました。何時も相手は、ヤクザだったので刑務官から「お帰り」と仲間内にされる受刑者だったと聞きます。

   

大島東市の話(その1)

さて1979年の終わりに中洲士郎は粟本の突然の退任で第2番危機(再失業の危機)が無くなりました。

だが日本化学発光は半分死んでいたのです。9月から工場は閉じたままの状態。まさに今度は倒産の危機です。何しろ大島の注文少なく液漏れクレーム多く製造停止やむなしです。近所のパートさんにも辞めて貰っております。

大島は日本化学発光を破綻させて会社を乗っ取ろうとし、士郎側は「ケミホタル」を「ぎょぎょライト」に切り替えて大島からの決別を企みます。

当然大島は危機感を募らせます。大島もエリートじゃありません。工業高校卒で久留米の電気部品会社に勤めました。大手電気メーカーの下請けで会社も惨めならそこの高卒工員は更に希望のない毎日です。

美人のかみさんが美容師で街外れで美容院を経営、いわゆる髪結い亭主で頭が上がりません。だが大島何としてでもこのままで終わりたくない。世に出たいとの思いが人一倍です。

脱サラして小さな小屋に独立の夢を託します。選んだのはゴム製品の集積地久留米でクッションゴムという釣具の製造販売です。安全確実な起業だが稼ぎは微々たるもの。始末に始末の毎日です。その男が海の物とも山の物とも知れぬケミホタルに爪に火を灯して貯めた全財産を注ぎ込んだのです。

では当時何故ケミホタルが大島にとってそれほど有望な商材だったのでしょう。

前回もお話ししましたが釣り具は小さな元手で開業出来ます。道楽の釣りをやりながら釣れる道具を開発して起業する人も沢山います。中洲同様釣り師じゃない大島は陸で獲物を嗅ぎ回っていました。そして超敏感な光るウキ獲得にターゲットを絞り込んでいたのです。それに人一倍負けん気の小男、クッションゴムの集金の度に釣り具問屋に値切られて「強力な製品でいつか彼等に頭を下げさせたい」と歯ぎしりしておりました。

針や糸や竿やリールはその道の専門家に任せるとして少しだけ夜釣りの電気ウキの話をさせて下さい。

1976年に中洲士郎が初めて夜釣りした時の電気ウキは松下電池の「サンライズ号」となります。単三マンガン電池の豆球が光源で夜釣りウキの定番でしたがこのウキでは人気沸騰中のチヌ釣りには使えません。そこで敏感な電気ウキの開発競争が巻き起こったのです。中洲が市場に参入した時はユアサ電池の海水電池を使った「銀ピカ」が松下電池を逆転していました。さすが松下、今度はリチウムピン電池を開発し発光ダイオードとの組み合わせで(軽くて明るくて球切れしない)「パナフロート」で勝負を決した時だったのです。松下幸之助はこの勝利に異例の社長賞を伝授した程です。

このリチウム電池だってアポロ計画の産物というじゃありませんか。これを直径2mmという米国の発明元も信じられない細さにして何と夜釣りウキに使うなんて日本人しかできない事業です。1979年7月発売のソニーウオークマンでも基本技術は全て外国でした。1979年のケミホタルの発売も負けずによく似ております。そしてこれ等3社は何と象徴的な存在でしょう。技術の視野がド広いソニーとド狭い松下そして父なし子で空に飛び出せない「びっこのアヒル」の日本化学発光です。

史上最強の「パナフロート」には店も釣り師も松下に頭を下げるだけでした。そんな時に恐るべき競合「ケミホタル」の登場に松下電池はビックリしました。パナフロートの唯一そして最大の欠点は釣り人がこだわる独自のウキの頭を光らせることが出来ないことです。釣り人はケミホタルの出現に喝采を上げました。ケミホタルを握った男大島は夢が叶い溜飲を下げます。

早速大手メーカー数社が動きました。米国のACC社にもオッファーを入れます。しかし「化学的にも発光できない」「物理的にもアンプルの製造は不可」「世界中誰にも技術譲渡はしない」との返答を得ます。従って大手メーカーのエリート社員は日本化学発光は特許違反しているからもうじき消えてしまうとの報告を上げたのです。しかし国内外の更に多くの男達が早速市販の「ケミホタル」を分解します。「人に出来ることは自分にも出来る」筈。だが皆原液の謎に頓挫してしまうのです。しかしその秘密の鍵は社外で大島も握っていました。「憎っくき中洲を倒すために他の相手との共同開発もありだ」と蠢(うごめ)きます。

「誰よりも早くACC社と契約に持ち込まなきゃ」と中洲は狙いを定めました。

当のACCは民間で売れないサイリュームが兵隊のいない日本で何故売れているのか不思議に思っていました。

勿論ケミホタルが出現する前から大会社で調査得意のエリート達は化学発光に着目していたかもしれません。だが誰一人栗本の様に自分で手を動かしませんでした。更にはACC側への姑息なオッファーの回答を鵜呑みにするのです。矢張り特許と法律の壁でしょうか。ここに大会社とエリートに共通の弱みがあるようで素寒貧起業家の狙い目は今後もこの辺りにありそうです。

身体を震わせて美味い餌に食いついた矢先、中洲士郎の奴が口から獲物を抜き出そうとします。

「この野郎。許しおかん。ケミホタルは俺の命だ」と叫ぶ大島東市です。1月のある日、遠賀工場の電話に大島の凄んだ声がありました。

「今自分の机の前に男が座っている。直ぐに顔を出せ」と。                              やって来た、やって来た。さあどうするか。