中洲若子の話(その10)

のれんの向こうの赤いニス塗りの素朴な木製扉を押すと薄暗い奥に長い居酒屋でした。中洲は本能的にいい空気を感じました。掘りごたつに入り6品ほど注文を出し生ビールと芋焼酎を頼みます。酒肴どれも小粋で気持ちが行き届いていました。

最後に熱いお茶が出された時老兵中洲が改まって店の若い女将に問いかけます。

「つかぬ事をお伺いするが・・この店のはじめに着く一方亭、珍しい名前だが何かいわれでもおありか?」

時空に歴史的な接点が付く時に生じる微妙な一瞬の間合いがあって。

「この店のオーナーの高橋さんのお婆さんがやってた店(一方亭)の名前を残すために、しょうき屋の頭に付けたそうです」と。

あとで考えるとそうやって中洲が一方亭にたどり着くとあたかもその役割を終えたようにこの店から一方亭が外され遂に一方亭の名前が世の中から消失してしまったのです。もしかしたらこの中洲が皆さんに「一方亭の話」をするように何かが仕向けたのかも知れません。折々に触れて一方亭の数奇な運命を「中洲若子の話」の中でお伝えしましょう。

様子ではこの店は、若いが趣味のいい高橋オーナーの下で30代の腕利きの料理人が店を取り仕切っている様です。

相手をしてくれている歯切れのいい女性はその料理人と夫婦かもしれません。

「一方亭と言えば博多の老舗の料亭だった筈ですが」                                     「そう、何か千代町あたりにあったそうです。今もオーナーの両親は70を過ぎてご健在でそのお母さんのお店だったそうです。それでお客さんはその一方亭とどんなご関係で?」

「いや実は私の母親がその店で奉公してましてな。それで・・」

次に暖簾をくぐった時、オーナーの父上高橋徳親氏と連絡が取れました。

電話に「それで貴方の母上の店での芸名は何と仰ったか?」

「いや只の下女中です」と答える。暫く会話が続く。

敢えて一方亭の名前をご子息が出資する店「しょうき家」に冠して何かを待っていたら・・・一方亭を尋ね聞く見知らぬ男が出現したわけです。前世の因縁に導かれたようにとても懐かしそうな徳親氏の声がレシーバーから伝わりました。

2013年の暮れに高橋徳親氏と初めて「しょうき屋」で酒を酌み交わしました。  氏は80を過ぎて実に品のいい風貌で物言いも静かで味わいがあり茶人とはこんな人種のことだろうと得心しました。そして長いこと時代を超えて互いが今存在する不思議さを語り合ったのです。

中洲若子の話(その9)

1997年の暮れに実父辰野亥蔵の死を偶然知ったいきさつはお話ししました。そのあと亥蔵との何度かの邂逅を思い浮かべるうちに母親若子と亥蔵の出会いと別れを知りたくなったのです。

それで若子に尋ねました。「置屋の吉良に奉公に出てからどうしたと?」「いっぽうていで働いた。何か小説でも書くとね」若子がそれだけポツリと答えました。今思い返せば若子には一度も奉公先のことや仕えた旦那の事を尋ねた事が有りませんでした。ただ時折若子は書き綴った日記を読み返しては昔の想いに耽っております。誰かに打ち明けたかったのかも知れません。

長い間「いっぽうてい」と記したメモが残りました。2010年5月若子は両膝の手術後歩行が困難となって車椅子生活に、更には脳梗塞が進行して認知症がひどくなってきました。

天気が良ければホンダCRZで大濠公園に行き車椅子を押します。和白のサニーで弁当を選んでは湖畔で一緒に食事をすることもありました。若子はこのところいつも優しい顔をして殆ど喋りません。

大濠公園で車椅子の若子

一緒に弁当食べて

そんな若子を見ていると「もうそんなに永くはない。若子の人生を振り返らなくてはならない」と。しかしもはや若子の昔の記憶を手繰り寄せるのは難しい状態です。

それで若子の親弟妹達が映った昔の写真を拡大し繰り返し指先で追いながら記憶の回復を図りました。

だが「この僕誰かわかるやろう?」その問いに笑って「うん精一」「違うあんたの息子の士郎や」何度言っても彼女の頭には弟精一しかないのです。

今思えば精一に深い思いがあったのでしょう。精一がアル中で生活が破綻した時お金の面倒を見てやらなかったのを悔いているのでしょうか。士郎の辛い幼児期精一は本当に優しい叔父でした。いつか叔父精一の物語をして彼ら姉弟の魂を慰めようと思います。

若子の弟精一と中洲士郎

そんな訳で若子に昔のことを聞き出すには時既に遅かったのです。

仕方なく手始めにネットでメモの「いっぽうてい」を探してみました。

それは「一方亭」と綴り昔博多で栄えた料亭であることがやっと分かりました。終戦後米軍に撤収されて焼失したとの説明だけが絵葉書記念館に残されておりました。

その後も時折ネットを探っておりましたら「しょうき家一方亭」という変わった名前の居酒屋がヒットしたのです。

1年程経った2011年5月のこと中洲士郎は会社の若造の池山治行と新入女子社員を連れてやっとの事でこの店の暖簾をくぐりました。

  

 

中洲若子の話(その8)

母親若子の命日に少し人の出生について思いました。人がこの世に不幸をまとって生まれて来ることについてです。4歳の頃母親が芸妓に働きに出て預けられた祖母の家での生活を思い出します。家の裏手からはいつもアイゴー!アイゴー!という悲痛な泣き声が絶えることがありませんでした。そしてそこは「朝鮮人部落だ」との大人達の説明。更に祖母は「朝鮮人部落」よりももっと酷い世界がある。この吉塚のドブ川の向こうの果てに部落があってエタヒニンが住んでいると。それに比べれば今の自分達の世界は天国みたいな物だと教えるのです。

 娘を置屋に売り飛ばすのって不幸のうちじゃないと祖母は自分に言い聞かせていたのでしょうか。娘の稼ぎに10人の生活を依存してもその娘の息子士郎にはダゴ汁が笑顔で届くことはありません。そんな時でも自分の家の先に部落があって「恐ろしい人たち」が住んでいるとの怯えが空腹に勝るのです。

博多の那珂川のほとりに清川町というところがあって昔花街として栄えました。専ら女郎として売られた貧しい子女達を相手の売春宿が軒を並べ今でもその名残があります。どなたの意図かロータリーの真ん中に丸い石組みが残されております。人呼んで女郎井戸。これは身ごもったり病に侵されたり世をはかなんだ少女達が身投げをした井戸だと。

ジェンダーが本当に悲惨なのは自分達よりもっと酷い世界があることでいくばくか安堵し、少しでも上級の性差別の社会に入りたいと願うことかも知れません。中洲若子も自分は女郎じゃない芸妓なんだと自分を慰めそれでも己の身分を蔑みながらせめて京都の舞妓に憧れたのでしょう。

こんな若子の写真を誰が撮ったのでしょう。

人の世の幸せも不幸も相対的なものであるようです。しかし絶対的な不幸にも出会います。

東北大震災救援でいくつか悲しい話に出くわしました。その一つが2011年5月福島県の大槌町でアイパオを組み立てていた時の事です。中洲の側に若いご婦人が寄ってきて呟くように

「この前の津波で5歳の息子を亡くしました。津波が迫っているというので皆んなで商店街を走って逃げておりました。ところが息子がねえ・・。カブト虫の幼虫を家に取りに戻ってそのまま津波にさらわれてしまったのですよ」と。

その坊やの年頃、中洲もヤゴ(トンボの幼虫)を飼っていてそりゃ大切にしておりました。やはりその子と同じく家にヤゴを救いに取りに帰えるだろうなと思います。瓶の中で汚い草にしがみ付いて生きているゴミのようなヤゴでした。

非常時の中で大人は決してあの小さな暖かい子供の手を握りしめて離してはいけませんね。老いた若子の手をもっとしっかり握りしめてやりたかったと命日に思います。

中洲若子の話(その7)

「Bi見逃サーズ」未完成のまま幕張メッセでの見本市インタービー出展で東京に来ております。

今日は若子の命日11月14日です。2013年に死んでしまってもう5年も経ったのです。それで今日は少し若子のことを思い出して弔ってやることにします。

中洲若子は大正 15 年 4 月 10 日に北九州若松の貧乏寺の三男坊と豊前の私生児の間で第一子として生まれました。その若子には 3 人の弟と 5 人の妹から「大きいネーチャン」と呼ばれて彼らの飢えた黄色いくちばしに食を探し運ぶ苦労鳥の運命が待っていたのです。その役割を死ぬまで担い昭和の時代を駆け抜けて行きました。

 「若子には尋常小学校出してやったから、そろそろ奉公にでも出てくれればいいが。女学校なんかにゃやれやしない」深夜父母の会話が襖越しに聞こえました。

第2次世界大戦が始まった年だったのでしょう。軍靴の音が密かに漏れ響き職業軍人と言うよりも口減らし二等兵の祖父も演習に駆り出されておりました。

祖父の写真らしい

狭い部屋に寝乱れている4人の妹と弟達に目をやり若子は決意します。翌朝若子は両親に「奉公に出ます」と告げました。女学校進学など夢に過ぎなかったのです。

15歳になると直ぐに母に連れられて福岡市の東の歓楽街千代町の置屋「吉良」に奉公に上がりました。置屋は貧しい家の特に器量の良い娘を事実上買取り将来売れっ子芸妓になるように躾けもするが掃除洗濯炊事それに主人の背中洗いなど女中代わりに使います。

芸妓に出し売れっ子ともなれば大きな移籍料が手に入る大切な商品ですから現代のようなセクハラの類いは案外少なかったのかもしれません。

若子が奉公に出た頃の写真でしょう。

置屋では娘を養女として親元から譲り受けることも多く若子も吉良から要請されましたが若子の父親は断わりました。若子の母親は家計の遣り繰りが下手で夫婦に諍いが絶えなかったが料理の腕は確か、食事は質素でも美味でした。

しかし吉良の家でありついた残り飯は糸を引くことが多く若子はそれが耐えられず一度は家に泣いて帰りました。「何でもするから家に置いてくれ」と。勿論そんな願いが受け入れられる筈はありません。

若子と士郎が生涯美味いものにこだわり続けるのはこの吉良の食事の恨みからでしょうか。以上のような話を若子から時々聞かされておりました。

そしてあの若子の店「赤ひょうたん」を再開して弔い客から意外な話を聞くことになりました。

赤ひょうたんの数件先の小料理店で仲居さんをやってる年を召した着物姿の婦人の話です。

「若子さんは本当に綺麗で品のいい人でした。小さい時から苦労されてね。私も少しだけこのお店で働かせて貰いました。優しい女将さんでしたよ」

「あんな時代ですから、まあ相応の苦労はしたでしょうね」

「若子さんは若い時京都で舞妓さんやってたそうですね」

「そんなこと言ってましたか。舞妓じゃないが訳あって一時中洲の芸妓、そう馬賊芸者をやってた筈ですよ」

なるほど中洲若子、生家貧しくその容貌を買われて京都は先斗町の舞妓だったと詐称していた訳か。いや若しかしたらどうせ奉公に出されるならば噂に聞く京都の舞妓に憧れていたのかも知れません。それに短い間でも中洲で芸妓をやってたとなるとやはり世間には冷たいものがあって辛い思いをしたのでしょう。

だがおっ母んに芸妓やってもらわねば中州士郎この世に 3 年しか生き永らえておらんのです。

なにぶんにも若子と確かな話をしていないので誤っているかもしれませんが中洲士郎がかすかな記憶を辿ると話はこうなります。お聞きください。

中洲若子の話(その6)

若子が死んで葬式も終わりかなりの虚脱状態の中で「さあこれからどうしたものか」思案しました。それに2013年から又しても会社は存亡の危機に立たされております。12番と13番の悪者が相呼応してまさに芸術的にルミカ事業を奪取せんとするところ、とても若子の弔いどころじゃありません。

しかし2013年11月14日若子があの世に旅たち14年4月10日は生きとれば88歳の誕生日。ここは意地でもなんとかしたい。やらなければ後で後悔する。「何時もの思考パターン」です。中洲で35年間気を吐いてきた「ひとりの女」の死を告知しない訳にはまいりません。知らせれば誰彼の胸に若子が去来するでしょう。じゃあどうやって知らせようか。思案しました。答えは10年前に閉めた若子の執着した店「赤ひょうたん」を改装し再開して若子の魂を慰めることでした。2014年4月あらゆる蔑視と抵抗に抗っての狂った船出です。

勿論中洲に同情して仲間の数人も助けてくれました。しかし愚行中の愚行、大変な労力と出費でどれだけ中洲若子の鎮魂になったのか。この鎮魂劇での顛末から「中洲若子の話」を拾います。

2014年3月17日改装なって人形小路のお隣さんや店の前を通り過ぎるお客が店のウインドウに記された次の奇妙な挨拶文を目にしました。

                         ご挨拶

私、中洲若子は昨年11月14日あの世へ旅立ちました。生きとる間皆様には大変お世話になりました。経営が苦しゅうなって店閉じて10年「人形小路」にはご不便おかけして済んまっせんでした。この度やっと息子と嫁が赤ひょうたんを再開します。昔の様にどうぞ「ビールば一杯飲んで行きんしゃい」

                      

                    中洲若子

                     ご案内

      4月10日(若子誕生日)開店

      3月20日-4月9日若子お別れ会

中洲一筋の女将若子が33年間守り育てた「赤ひょうたん」の灯が消えて10年。どうにか再開にこぎ着けました。4月9日まで「若子お別れ会」期間とします。ご近所の方、赤ひょうたんと若子をご存知の方、どうぞ立ち寄って若子の魂を慰めて下さい。ド素人がぼちぼち店作りを進めますのでご助言お願いします。

                            平成26年3月17日

                            若子の息子新店主

                                    中洲士郎敬白

ポップコーンバル

赤ひょうたん

電話291-4718

「憎いばってん品いいや。どうぞ来てみんしゃい」

中洲若子の話(その5)

ささやかな葬儀でした。若子の妹弟と士郎の家族だけ20名ほどで若子を見送りました。見栄っ張りの若子のためにもっと派手にやれば良かったのですが。

それでこのブログを借り弔辞を記して若子に送ろうと思うのです。

先ず若子がこの世に別れを告げた日のことから。

士郎沖縄の出張から戻り心配しながらホームのベッドに駆けつけたときは弱々しくも若子はまだ生きておりました。「生きとるや?」問いに頷きます。何時ものように顔と背中と足をマッサージして手を握ると返えす力が弱まっていました。数ヶ月の間、胃ろうで食べ物が何も喉を通っていないのが不憫です。それで士郎手製のチェリージャムのソースを少し口に含ませて甘さの思い出を呼び覚まさせます。コックリと一飲みするが眼は虚ろでした。

今思えば3日3晩士郎の戻りを待って生きていたのです。出勤する士郎を幾分正気を取り戻して確かに見ていました。それが2時間ほどしてホーム職員からの通報で運ばれた病室に駆けつけたときは動かない屍になっていたのです。

顔は別れた時のまんまです。職員の報告では士郎が帰り何時ものようにチューブから食事を流し込みました。気持ちよくトイレもしてお風呂の日だったので浴室で職員2人で車椅子のままお湯に入れました。気持ちよさそうにお湯に当たり終えたところで急にうなだれてしまったのです。それで大急ぎで救急車を読んで隣接の済生会病院に搬入したが既にこと切れていたとの話でした。若い医者は若子の死亡時刻は息子が看取ったとして午後2時としました。

安らかに寝たままで今朝との違いは体が動かないだけ。それが「死んじまった若子」に変わっていたのです。人間って心臓が止まったその一瞬をもって現世から来世に移るのだろうかしら。若子が死んで2日間添い寝をしたと申しました。よ~く観察しておりますと顔の血管のむくみが引いて表情が変わって参ります。そして突然素顔を表したのです。弱々しいお人好しのそれとも「赤ひょうたん」を潰して借財にビクビクしている顔じゃありません。昔の剣気で時に意地悪い丙寅の女に変わりただじっと目を瞑った戦う女の顔でした。「私が死んだら士郎が嘆くのが辛い」などいつか漏らした得意のイカサマ言葉でも吐きそうな顔です。

この変化を見るうちに士郎は無性に嬉しくなって「いいぞ、その生きざまやよし。また会おう」と告げたくなりました。後々人が「また中洲のホラだろう」と言うのを封じるために証拠写真に収めております。

お通夜って言うのはそう言うことじゃないでしょうか。なきがらは肉体は死んでも意識は夢見ている状態じゃないかと思うんです。若子が死んで2日の間添い寝してやれたのはいいことでした。

中洲若子の話(その4)

賑やかな叙勲のお祝いの席でした。参加者は皆植田教室で非鉄冶金を学んだ卒業生100名程です。挨拶も終わって先輩後輩での歓談が始まりました。傍の同窓の石橋君が高校の先輩を見つけ挨拶して戻ります。頭が薄くなった恰幅のいい人でした。聞くとはなしに「偉い人みたいだね」の問いに石橋が名刺を見せました。

一瞬衝撃が走ります。父親の会社だった八幡枝光のY工業常務取締役工場長とありました。

逡巡の後、意を決してその人の前に出ました。中洲士郎の名刺を差し出して。「つかぬことをお伺いしますが・・・。先輩のお会社にむか~し御在社された辰野亥蔵さんご存知ではありませんか?」

「・・・・」

「うちのグループ会社の大御所ですから毎年正月には池袋のご自宅にご挨拶にお伺いします。ところで辰野さんとはどんなご関係で?」

突差に「うちの親者が生前Y工業の辰野社長様に大変お世話になった」と申しておりましたので辰野さんの近況をお伺いする次第です。

安心したようにしかしふと考え込むような目で中洲を見つめ語り始めました。中洲に答えるのじゃなくて役目を帯びてモノローグするようでした。

「今年お亡くなりになられました」

一瞬衝撃が走ります。続いて

もう少しで3世紀に渡って100歳を生きられたところでした。誰もが残念に思いました。

ご葬儀の後ご子息のサダメさんにお亡くなりになられた事情をお伺いしました。そうそうサダメさんは早稲田を出てずっと大学で教鞭をとられており申されるには、「父はその日も碁会所に顔を出し戻って、少し疲れたとコタツに入って暫くして静かに息を引き取りました」と。「それで抱え上げると父親の軽さにビックリした」と仰っていました。辰野さんには数年前大変驚かされた事がありましたよ。

「もうこれが最後になるので枝光に来たい」と。それで皆んなでお迎えして歓迎の宴を開きました。なんとあの年でそれもたった独りで新幹線で来られたのです。聞くと同伴予定のお供と駅ではぐれて切符だけ握って来られたのです。老いた辰野さんの横でご機嫌を伺いました。すると「今回枝光に参ったのは実はどうしても最後に会っておきたい母子が博多にいてねえ。だがもう博多までは無理だから諦めよう」と。翌日新幹線で独りで東京に戻られましたね。

初対面のこの方がどういう訳かお勤めを果たされるような話し方で話し終えられました。

「左様でしたか。それはご苦労様でした。お話しありがとう御座いました」一礼して席に戻ると石橋君「僕のあの先輩と知り合いだっの?」「いやたまたまね」

年が明けて母親若子が「辰野さん死にんしゃったよ」「俺も知っとるが。どうして知ったの?」「年賀状出しといたら」「またどうして年賀状なんか出すんや。ご迷惑かけるやろうが」「・・・・」「奥さんからの年賀の返信にねえ・・」

数年前我々二人に逢いに枝光まで来ていたことを若子に話してやればよかったと悔いております。

飯碗だけが残りました。

中洲若子の話(その3)

中洲士郎、生を受けてこれまで幾度となく危機に直面しております。

その最初はと言うと全ての生物に共通する受精の危機です。日本人の場合正規の婚姻であれば嫡出子、非正規であれば非嫡出子としてブランディングします。人間誰だって4~5億の精子の競争から選ばれて得た生命に何の焼印もないのにある日突然「お前は非嫡出子だ」と宣告されたりしましてね。嫡出子達だってビックリするでしょう。知らない間に異母兄弟がいたなんて。これって本来面白いことじゃないでしょうか。

ケミホタルには有田と強い御縁がありました。そして有田焼の思い出には必ずあの男辰野亥蔵が登場します。

香蘭社と深川製磁が有田では窯業の両雄で共に博多川端に立派な店を出しております。その深川にはよく遊びに参りました。辰野亥蔵がまだ存命ならば 90 歳だろうかと思って深川の店でお祝いに古伊万里の飯碗を探してもらったのです。1989 年のこと。

会社興こして 10 年経ち「そろそろかな」と思ったのですが例の妖精が「未だ未だ」と答えた気がして祝いの飯碗は士郎とタエの文化住宅の押入れに入ったままでした。

それが1997年の暮れのこと恩師植田教授の叙勲の祝いの席で父辰野亥蔵の他界を知ったわけでした。

<遂にくるべきときがきた>僕の人生の第 1 幕が終わったという感じがしての家路は悲しくはなく何かつかえが取れたとでもいうような気分でした。思えば物心ついて何時も何時も親父のことを想い続けていたわけですから。

 帰宅して居間の炬燵に入り、ふと思い出して中洲タエに頼んでかの桐箱を探し出してもらったのです。牡丹紋絵錦古伊万里の錆びた赤絵の飯碗で遂に親父に贈られることがなかった祝いの品です。

中洲タエにはその日の出来事を説明するのに言葉が見つからずにいますと、  「そうですかお亡くなりになりましたか」そう言うなり再びもとの桐箱に納め押し入れに運びました。

中洲若子の話(その2)

天王寺詣りの話の発端はこういう事でした。

若子が中洲士郎を生んで暫く西中洲で芸妓をやっていた事、三味線や小唄が下手で難儀していたようだと冊子「若子」に書きました。だが20年仕えた旦那の山田実も逝って士郎も就職して中洲赤ひょうたんを独りで切り盛りする孤独の若子に嫌だった芸事への郷愁が湧いたのでしょうか。その当時も芸事の中で「生け花」だけは天職と念じ岩田屋デパートはじめ天神界隈のウインドウを飾っていたが息子も嫁もそれを褒めてはくれぬ侘しさの中、幽玄のお謡いの世界に眼を開かされたのでしょう。

それも観世流家元直伝で儲けた金を注ぎ込みます。しかしそもそも中洲一族に美声のDNAは皆無。とても聞けるものじゃないのに能舞台にでる厚かましい若子を軽蔑しておりました。

だが中洲士郎は2013年11月14日若子が逝って2日の間、一人で若子に添い寝した時、怖い思いをしたのです。妻の老婆(ラオポ)中州タエが前もって用意していた旅立ちの衣装を送り人が若子にまとわせ死化粧をするうちに段々畏怖を覚えてきました。

そう言えば中洲若子は士郎幼少の頃から毎日ビシリと着物を着こなしておりました。姿見に映る自分の姿を厳しく吟味していたようです。

長い間ベッドの上で身動きままならぬ生活から解き放たれて老婆(ラオポ)が用意した七草模様の着物を羽織ると夢の中で鏡に映る自分の姿を吟味し始めたのでしょうか。老いてボケ顏だった筈の若子が威厳に満ちてまさに謡い始めるのかと錯覚する佇まいに変じたのです。

旅立つ若子の脳裏には山田実との葛藤の日々、死ぬ前に東京から遥々八幡にまでやって来た独り歩行も儘ならぬ老いた亥蔵の魂との再会を正装して謡っているようでした。それで少しだけ能「弱法師」の物語が気になっていたのです。

最近になって稀代の才女で異才の白洲次郎の妻白州正子の書を読みました。そこには友枝喜久夫の「弱法師」の仕舞の感動が綴られており、やっとこの歳になって謡とお仕舞いの奥深さを教えて貰ったわけです。それでNHKのDVDも買って幾度か観てそれで若子の下手な謡を思い出すことになりました。

次回は中洲士郎の父親辰野亥蔵が「弱法師」の父道俊さながら老いて最後に母子に逢いにはるばる旅して来たお話し聞いてください。

若子の謡を1度でも聴いて褒めてやればよかったなあ。今は処分してしまいましたが樟脳の匂いのする若子が残した夥しい和綴じの観世流の謡本の中に弱法師の表題を観た気がします。

中洲若子の話(その1)

中州若子の遺伝子が災いして中々枯れた好々爺に近付けない生臭爺いの中洲士郎でございます。幾人かの読者にこのブログを読み続けて頂いており心底恐縮しておりますが。老婆(ラオポ)にも遂に見つかるところとなり「あんなブログおぬし狂ったか?恥ずかしくって団地歩けやしない」「あんなブログとは失礼な。団地でルミカのブログなんか開く人いやしない」双方応酬の中ブログ存続が怪しい空気です。

素寒貧の男が渡米しスーパー企業のACCの懐に飛び込むまでのイカサマ行脚は綴り終えました。ここらで小休止して今度は読者の皆さんと未来への企みを始めましょう。「中州若子の話」で用心深くこの母親をブログに蘇らせるのです。そうする事で父親辰野亥蔵も蘇り必ず何かが起こります。数少ない読者と一緒にスリリングな旅を始めましょう。先ずは「弱法師」の話から。

某月某日

前夜は酩酊してホテルのベッドに倒れこみそのまま爆睡です。

大阪支店では皆さんと1人づつの個人面談しました。1年以上の交換日報でオンライン上は大変親密、それでオフ会と称してお喋りを楽しんだのが個人面談の真相です。若い連中が、中でも妙齢の娘たちが話し相手してくれると気分がナマめいてまいります。結末は「今期も宜しく頼む」の慣用句です。

支店を少し早めに出立して四天王寺散策にしけ込みました。引率の支店長のエンドーさんが「支店近くのこの寺に何用?」といぶかしがります。

この寺の西門の先に石鳥居がありここからの夕陽の眺めは日想観と言って極楽浄土が拝めると古来信仰の場でした。

能に弱法師(よろぼし)がございます。父の道俊に捨てられ放浪し盲となってここ四天王寺で物乞いする俊徳丸が父親とここで再会する物語です。盲ながら心に刻んだ石鳥居からの風景を「さて難波の海の住吉の松原、東の方は春の緑の草香山」と謳う俊徳丸。「これより更には狂わじ」もうこれ以上は狂いたくないと呟いて道俊を避ける痛ましい青年の姿とこれを見て父親の喜びが当惑に変じる舞台が演じられます。

その石鳥居から眺める現実の風景は無数の小汚い建物に覆い尽くされております。かってすぐそこまで緑の松の海辺だった事を誰が想起できましょうか。年老いた父辰野亥蔵が亡くなる前に遠く九州まで捨てた母子に逢いに来ていたのを知りました。その辰野亥蔵と道俊、俊徳丸と我が身をダブらせてしばし感傷に浸る中洲士郎だったのです。とだけ書けば相当わざとらしく鼻摘まみもんです。

これもその真相は?