中洲若子の話(余話その3)

「大連で見つけた一方亭の話が面白かった。続きが読みたい」と仰る一人の読者のお言葉に胸がそわそわしました。それで相棒と連れだって福岡市薬院の例のしょうき家の暖簾を再びくぐることに。

綺麗な女将さんと初めてカウンター越しにおしゃべりさせて頂きました。

包丁をにぎるイナせな料理人とはご夫婦でしょうか。素朴で憂いを含んだ眼差しで女将が聞き覚えのある「一方亭の話」をします。傍らの男は敢えて無関心を装い、子気味のいい包丁の音でお供をしております。中洲はボソボソと一方亭訪ね歩きのくだんの話をします。

高橋是清の隠し子の曽孫に当るこの店のオーナーは現在ベトナムで和食の店を展開されておられる由。先般この「しょうき家一方亭」から手を引き一方亭の名前を看板からおろされたとの事です。「来年にはこの店も再開発でたたむことになりそうです」と。いよいよ一方亭が博多の歴史の舞台から姿を消すのでしょうか。

身体に毒とは解りつつ「締めのラーメン」に正に逸品の「レモンラーメン」を頂ました。大名の「極み」のアゴ出汁ラーメンに勝る「福博一のラーメン」でした。「今夜は品切れのシジミラーメンをこの次は是非」と。

カウンター越しに女将が「一方亭に縁があるんですよ」とそっと差し出した瓢箪絵の湯呑み。断わって写真に収めました。その時は気付きませんでしたが先程アイパッドの写真集からその写真を取り出して観ると懐かしい名前が刻まれておりました。

「あの絵も一方亭に因んだものですよ。お客が描いてくれました」と女将が指差す先に。

もしかしたら一方亭を訪ね歩く「すき者」は中洲士郎だけじゃないのかも知れません。

中洲若子の話(余話その2)

ネットの検索エンジンってどんな仕組みなんでしょう。何でも調べ出せるが消されて行く情報も有るのですね。

母親の中洲若子の命の炎が細くなってしまってから彼女の奉公先が「いっぽうてい」であることを知りこれを手掛かりに中洲士郎のルーツ探しが始まりました。これを「中洲若子の話」として兎に角書き終えて中洲若子を弔ったのです。

最近は「一方亭」も検索にも掛からなくなってきました。一方亭のドラマが書に残らず歴史から消え去るのは寂しい限りです。

6月6日夜の事です。翌日からのチェリービールに添加するチェリーソース開発で大連にやって来たイケダ君と旅順の藍湾の賃貸マンションで飲んでおりました。夜も更けて取り留めない話がブログの「一方亭」に及んだのです。

8年前入社したばかりのフジイ君とイイダ君を連れて居酒屋「一方亭しょうき屋」の暖簾をくぐったのが探索の始まりでした。そのフジイ君が検索を続けたら遼東半島で日本建築の史跡を訪ね歩く粋人の写真ブログに「大連の一方亭」が収まっていたそうです。説明によると旅順の老虎灘の切り立った断崖の上に本家の一方亭を模して高級料亭が建てられたのは1932年、遼東半島が日本の租借時代だった頃です。本家の一方亭は戦後進駐軍に徴収された後焼失したのでその姿が僅かの写真に伝わるだけでした。なのにその雄姿が此処大連に残っているというのです。

イケダ君とバンちゃんが折角大連まで応援に来てくれたので張先生農園で仕事を終えて今日は2人に何かご馳走しなきゃと街に繰り出しました。最近大連空港前の通りにも万達集団が洒落たレストラン街を作りました。一画に大きな「龍虾館」が目に留まります。ロブスターを漢字表記したらそうなるのでしょうか。豪華な店内に客の姿は有りませんでした。メニューを開くとロブスター一皿270元(4000円)。まあいいかとオーダーしました。甘辛い味付けで傍の若いバンちゃん辛さに悲鳴あげながら元気にパクつきました。さてお勘定。なんと1050元(18000円)です。3斤半(サンチンバン)だと言ってます。そうかメニューの価格は1斤(500g)当たりだったのですね。金持ちに見えない客の懐を心配して、それで大きな生きエビをテーブルに見せに来たわけか。

中洲は気に掛けないフリをして銀レイカードで支払いましたがエラく高い食事、20年間の中国出張で一番高い食事に「ガクッ」です。

これが一皿15000円の料理です。

懐は厳しくなりましたが美味い食事にすこぶる気分良く、オリンピック広場のウオールマートで買い物を済ませて、ふと・・タクシーの運転手に老虎灘の一方亭跡に連れて行って貰う気になったのです。

80年以上の風雪に耐えた未だに勇壮な姿に当時の栄華が偲ばれます。一体日本の誰が此処に一方亭を建てたのでしょう。当時の一方亭の女将の高橋朝子はこの建築に関わったのでしょうか。もう少し一方亭探索は続くようです。

 

 

中洲若子の話(余話その1)

商品開発の話ならちっとも疲れませんが母親の鎮魂の話となると中洲士郎正直疲れました。読まされる方も疲れるのでしょう。このところ中洲ブログを覗かれる方がめっきり減っておられるようです。

若子の話が完了したので仲間を誘って薬院の「しょうき家」に繰り出しました。

有りましたよ~。世界にただ一つ「一方亭」の名前が残っていました。それは「しょうき家」の看板に赤いシミかと見まごう小さな細工。確かに赤い瓢箪そして懐かしい「一方亭」が彫られていたのです。

相棒は店に入る前にその造りを観察すると明智小五郎が虫眼鏡を取り出して覗くように左手の看板を調べ始めたのです。そして犯人の証拠でも見つけたように小声で「有りましたよ」と。

板前が作る家庭料理が揃って、中洲「じゃあ、かんぱ~い」に相棒から「今日は若子さんへの献盃だ」と。今宵は探偵作家にやられ通しです。

7年前と同じく美人の女将さんと料理をあずかる超イケメンのご亭主でした。何となく嬉しくて「こんな時は無粋なご挨拶は無用」と感じ一限客を装い黙って退出しました。

是非皆様も居酒屋「しょうき家」に足を運ばれて「酒よし肴更によし女将も良けれ」ば常連となって下さい。そして引き戸を開けるとき看板の中の赤い瓢箪を「よ~く見てやって下さい」

あなたにはこの赤い瓢箪、誰に見えますか?

中洲若子の話(その17完)

昭和28年士郎9歳の時でした。若子が西日本新聞の名士録で士郎の父亥蔵が東京から来福したのを知ったのです。若子悩んだのかも知れません。「息子に自分の父親の存在を教えておこう」と意を決して士郎に一人で父親に会いに行かせました。

記憶の始めが途切れておりますが若子が命じるまま当時国鉄枝光駅でホームから跨線橋の渡り通路を通って改札口へ向かいました。多分父の会社が枝光に有ったので枝光の駅舎で「御目通り」させる手筈だったのでしょう。予期せぬことに人気の少ない渡り通路で前方から「おじさんの2人連れ」が話しながら近づいて来たのです。小柄な年配の男と少し若い大柄な男です。一瞬この小柄な人が自分の父親だと確信しました。ジッと顔を見て「おじさんですか?」と問いました。少年という生き物は恐ろしく神経が繊細で鋭敏なのです。この時の2人の男の表情が網膜に焼きつきました。「違いますよ」との返事の代わりに喜びじゃなく大きな戸惑いが優しそうな顔に少し歪んで現出したのです。傍の大柄な男は何か興味深そうに笑顔を向けました。士郎は咄嗟に間違いであったようにその場を通り過ごしました。

若子が後々になって士郎に言ったことがあります。「お父さんに会えたか?嬉しかったか。」の問いに「何一つあんたは答えなかったよ」と。その後数度父親に会いましたが「この人にとって俺は迷惑な存在かも知れない」との感じを抱き続けました。

昭和50年に若子のパトロン飯山が肝臓ガンで亡くなった時は若子と老婆(ラオポ)3人で中洲の住居から浜の町病院に向かって申し合わせたように無言で心底お悔みと感謝のエールを送りました。

ほとんど笑顔を見せない野武士のような飯山の残した唯一の無駄口は「俺なら絶対に母子を見捨てるようなことはしない」でした。中洲の土地と家は若子に残しました。若子が50年生きて悪戦苦闘して握りしめた唯一の財宝でした。飯山が亡くなった翌年昭和51年に若子が食事の店を始めます。

店の名前は士郎が「赤ひょうたん」と命名。

入り口の看板は赤いひょうたんです。当時神戸三ノ宮に同じ名前のサラダを食べさせる店があってこれから借用したのです。

不思議ですねえ。一方亭の名前は「一瓢亭」から来たもので看板も赤いひょうたんだったと高橋貞行氏の一方亭懐古録にありました。

若子のポツリと漏らした「いっぽうてい」を10年ほどかけて追いましたら以上のような物語が出て参ったのです。

これで中洲若子の話はおしまいです。お付き合い頂いて有難うございました。   若子があの世に旅たって5年、やっと若子の生涯のほんの一部を記録に遺してやりました。

昭和を駆け抜けた1人の女の話です。平凡な家庭で平凡な夫婦に収まる人生に憧れながら沢山の男を渡り歩いた女の話でしたが・・・。書き終わると現実の人生の方が若子にはずっと合っていたように思えました。

中洲士郎、折角起業してお金は何とかなったのですから、もう少し若子に贅沢させてやれば良かったのかな?  中洲は身内には少なからずケチでねえ。

それでも「今日は美味いもの食べさせるよ」そんな時に足が向くのは新天町の蕎麦屋「飛うめ」の上天丼でした。飛梅は天神地下街にも有って足の悪い若子には楽でしたが新天町の少しうらびれた狭い「飛うめ」の方が2人には落ち着きました。

甘ダレが少しだけ天ぷらの衣に染み込んだふんわり真っ白いクルマエビの天丼を食べている時はお互い大抵無言で・・・確かに幸せでした。

中洲若子の話(その16)

ネット(地図の資料館)に古い中洲の写真がありました。

那珂川の河畔に建つ白い建物が文士や学者が集った喫茶店のブラジレイロ、その隣の黒い大きな建物が博多一番の高級旅館玉川です。戦災後区画整理で旅館玉川は跡形もなくなり女将の中川フクは川沿いで小さな割烹なか川を営んでおりました。市電のずっと先が東公園でその入口に「一方亭」があり終戦で米軍に接収されて指令本部になった後火災で消失してしまいました。3代目女将の高橋朝子一家は大名町の新雁林町に移り住んでおります。

この老舗の旅館玉川の女将は中川フクという中洲切っての女傑です。一方亭の三代目女将の高橋朝子の亭主高橋敏雄は中川フクの従兄弟(養子)で両家は親戚付き合いの中です。料亭と共存する花柳界は義理と人情の世界、若子は亥蔵に身請けされ士郎をもうけた後も朝子女将とフク姐さんこと通称「お福しゃん」には何かと世話になっておりました。

そのお福しゃんの仲立ちで博多の実業家飯山稔の世話になったのでしょう。飯山の奔走で米軍将校からペニシリンが手に入り千代町病院で喉の切開の後ペニシリン注射で奇跡的に士郎は一命を取り止めました。残った半分のペニシリンで治療費も免じて貰えたと若子が言ってました。当時はペニシリンは治療効果が絶大だったので大変な貴重品、当然高額だったのです。そして士郎の喉には記念に大きな傷が残りました。

「一方亭懐古録」を読んで初めて知りました。昭和26年夏中洲母子が中洲から移り住んだ新雁林町の間借りの青木宅から高橋朝子女将のお屋敷は目と鼻の先だったのです。この事は取りも直さず高橋家の皆さんから中洲母子ずっと目を掛けて頂いていた証なのでしょう。

ペニシリンの薬効は強烈でした。瞬く間にジフテリア菌は駆逐され熱も引き大きな喉の切開口もふさがり四才になった幼児の五感が躍動を始めたのです。それは確かに記憶に有ります。暗い部屋で一人寝かされておりました。家には誰もいません。目が覚めると頭がスッキリして身体はふわふわと浮くような感じでした。薄暗く湿った部屋から表(おもて)の長屋の軒を連ねた路地に下駄を履いて出たのを覚えております。兎に角生き返った心地よさを感じました。コンクリートがすり減って玉じゃりが浮き上がった共同洗い場を左に折れて更に薄暗い細い路地に入ると左側には馴染みの板塀、見るとそれが緑の苔に覆われ湿気を十分に吸って鮮やかな黒緑色に光っています。そこから小便の匂いが冷たく伝わって来ました。光が漏れているその板塀の節穴に目をやると陽光が本当に燦々と中の畑に降り注いでいたのです。

路地の先はヨーカンと称して板付基地を出入りする進駐軍の大型トラックがうなりをあげて突っ走る怖い大通りです。急いで右に折れてその先の更に小さなドブ川の手前土手道を用心して進むと直ぐに轟音が耳に入ります。鍛冶場です。裸の上半身が炎を受けて真っ赤に染った屈強な数人の男が大きな鉄の塊をヨイトマキで引き上げては真っ赤に焼けた鉄片に落としています。今考えれば鍛造作業です。おばさん達も働いています。皆んなそりゃ汚い格好でした。傍に座って眺めていましたが急に空腹を覚え再び家の前の道を通り過ぎて6丁目のドブ川を左に折れてコンクリートの橋を渡ったところにパン工場が有るのです。ここに行って窓越しに覗くと壁を伝ってバンが面白く走っています。パンの列が士郎の目の前にやって来ました。いい匂いです。コッペパンです。よく見ると割れ目にキザラの砂糖が美味しそうに光っていました。

若子は芸妓から足を洗いパトロンの飯山の出資で中洲人形小路に小さなバー「メーゾンお染め」を開店します。そりゃ置屋に売られてから客扱いの訓練を受け水商売の世界を穴が空くほど見つめて来た若子ですからバーは大層繁盛しました。「中洲の士郎」も皆んなに可愛がられて人気者です。しかし学業は酷いもので冷泉小学校の担任の中原先生は恨みでもあったのか一学期の通信簿は全て右端一列に⚫️印でした。

その楽しい一年生の夏災禍が起こりました。若子がパトロンの飯山とタクシーで一緒の時事故で顎に大怪我をしたのです。世間体もあって事故は表に出ず店は畳まれ若子は今度はしっかりと学問の街大名町に士郎を連れて引っ越ししました。顎に傷跡のある妙齢の色街娘と喉に傷跡のある中洲育ちのガキが静かな新雁林町にやって来て騒動を起こすのです。

高橋貞行氏が懐古録に懐かしい雁林町の地図を描いてくれております。

地図の中の新雁林町で青木宅を出て大名小学校に登校するところ。

左から中洲士郎、一級下の水の江君、青木君代、君代の親戚です。

中洲若子の話(その15)

2月に士郎が生まれて11月に亥蔵の妻が6人目を出産しました。何とまあ男の子でした。跡取りが生まれたのです。そりゃあ家族、親族、会社を上げてのお祝いですね。そして士郎は要らなくなったのです。士郎が辰野家に入籍される可能性は無くなり代わりに当時としては破格の離縁金が支払われました。若子と士郎が家を買って後々充分生活できる金額だったと若子は言ってました。

ある時中洲は自分が精子の1匹となって受精行為に及んだ様子を妄想しました。先ず母親の卵子というもんは自分で好みの精子を選べないのでしょうか?  いや選べる筈だって。じゃあどうやって?

こんな具合でした。若子は貧しく生まれ修学旅行にも行かせて貰えない惨めな小学校時代を過ごしました。吉塚小学校では成績一番だったのに女子校にも行けず直ぐに置屋に売られてしまったのです。

「生まれてくる子供は必ず自分を大切に守ってほしい。何も秀才じゃなくていい。できればイカサマしてでも生命力が強い方がいいなあ」と。

一回の射精で放出される4~5億匹の精子の中で士郎精子は泳ぐのも卵子に穴を開ける力も強くない。それに不運なことに射精で卵管にくっついた時は若子の卵子は未だ排卵されておらず卵管にへばりついておりました。生命力だけが他より強かったのでしょう。翌日排卵があって今度も元気な4億もの精子が先を争って卵子に向かい一番強い精子が卵子に穴を開けて滑り込もうとしたその瞬間です。若子が膣を締め付けてその精子を卵子から飛び出させてしまい代わりに昨日から命絶え絶えの士郎精子を既に穴が開いた卵子に招き入れたのです。士郎にしっかりと貸しを作って。

本当は東大にでも入れる亥蔵DNAじゃなく中洲血統の学力の低い、しかしイカサマに強い子供が生まれました。亥蔵に離縁された母子には過酷な運命が待っておりましたがイカサマで人生を乗り切ることが出来たのです。坊ちゃん育ちの亥蔵には到底想像がつかなかったことでしょう。

先ず離縁金は全て祖母が取ってしまいました。その金は新円切り替えで紙屑同然になったそうですが信じられません。多分若子よりも更に悲惨な娘時代を経て金に飢えた祖母が生まれて初めて放蕩三昧をやらかしてお金を全部スッテしまったのじゃないかと思っております。一家は又直ぐに極貧生活に戻り若子の妹達に士郎を背負わせて亥蔵の会社にお金をねだりに行かせたそうです。その時八幡の大勢の社員を前に亥蔵がどれ程困惑したか想像に難くありません。「あ~あ。あんな小娘に手を出さなきゃよかった」と。

つい最近まで日本の優しい男性陣が韓国や中国で娘に惚れて一緒になったらその一族郎党20名が一緒についてきたなんて話を聞きます。飢えるという事はそういう事で日本も嘗てはそうだった訳です。

そしてあの優雅な妾宅を出て祖母の子供達の鼻をつまむ小便臭い布団に投げ込まれ、節句の写真で着用していたあの柔らかい肌触りの絹の綿入れは叔父達に取られてしまいました。

沢山のオデキで背中が痒くて何時も柱の角で擦っておりました。劣悪な環境で栄養失調、免疫力の無い士郎にジフテリア菌が喉に侵入して来たのです。

昭和22年の中洲。20年6月の大空襲で中洲は廃墟になりました。その焼け跡には低俗なバラックのカフェが並び女給と酔いどれ客の下品な嬌声と流行歌がこだましております。戦前の中洲の住人達はこれを嘆いて中洲を去ったと一方亭回顧録にもありました。

那珂川の川向うは西中洲、ここは空襲を免れて料亭それに置屋や妾宅が軒を連ねています。

その一軒に置屋「縄田」がありました。

若子 15 歳の春には親に置屋に売り飛ばされましたが21歳の今回は自分の意思でこの縄田に身を置いたのです。

春吉橋から路地をくるりと入ると今でもそれらしき風情があります。

対岸の東中洲の喧騒と対照的にここ西中洲は仕舞屋風の置屋が続く路地の向こうは三味の音色が漏れる小粋な花街でした。

置屋の二階でしょうか。物想いの若子。

中洲検番登録の縄田では 4、5 名の芸妓を置いて西中洲の高級料亭を商いの相手としておりました。

若子は見習いの半玉ではなく始めから 10 歳年上の清子姐さんについて芸妓です。

士郎は 4 歳の頃確かな記憶として(多分十日恵比須さんの祭りで)着飾って宝恵駕籠に揺られる母親を目撃しています。

その清子姐さんは士郎が中学の頃までよく家に遊びに来ました。

彼女には士郎養鶏の卵を使った特製のミルクセーキを何時も振舞ったものです。頬には少しそばかすがあったが口数少なくハスキーな声が特徴で気っぷのいい確かに美人でした。

さてその置屋での芸事修業は厳しかったようです。若子は唄、琴、太鼓、鼓、舞踊などは何とかこなしましたが三味線は下手だったようです。しかし色白できゃしゃな立ち姿を買われて若子は直ぐに沢山の座敷を持ちました。

若子 21 歳売れっ子芸妓に

 だが稼ぐ間もありません。最愛の息子士郎が病を患ったのです。怖いジフテリアです。

その末期には喉から犬が唸るような異様な声を発して周りの者は唯も耳を塞ぎやがて音が掠れて止むのを待ちました。あと数日の命です。

中洲若子の話そ(その14)

例の東大に安田講堂を寄贈した安田財閥の話です。創始者安田善次郎は中洲と同じく素寒貧からコトを起こして中洲と違って大きな財を成します。主に金融業が主業で製造業では洋式釘の製造以外殆ど成功しませんでした。人材が育たない同族経営に起因したと述べられています。

以下の論文を参考にしております。
小早川洋一著:「安田善次郎死後の安田財閥の再編成」です。

読みますと今日の会社経営でも普遍的な問題です。同族経営が問題というよりも低学歴故に同族に取り入って自己保身に走りがちな役員の存在が会社を潰してしまうようです。

明治30年東大卒の優秀な入り婿二代目安田善三郎が明治38年エリート社員を集めて安田の産業進出を図りますが非エリートの古株たちの執拗な抵抗にあって敗れ虚しく安田を捨てて出て行ってしまいました。そして陰徳の人善次郎が大正10年に右翼の朝日平吾に刺殺され安田は危機に陥ったのです。

明治大正を死に物狂いで駆けた経済人が昭和に入ると国士気取りの暴漢に相次いで命を奪われました。社会が奈落の底へ落ち込んで行くのです。

その時代を父辰野亥蔵は耐えて生き抜きました。「死ねば人にそしられるだけだ。長生きするしかない」そう言って98歳まで頑張って生きたのです。

安田本家から救済の要請を受けて時の大蔵大臣の高橋是清はこれも東大法学部卒のエリートで日銀大阪支店長で金融危機の混乱を鎮めた辣腕家結城豊太郎を安田に送り込みました。

あの当時東大法学部卒と言えばエリート中のエリートで国家社会に嘱望されて使命感に燃えて奉職したのでしょう。しかしそれら賞賛と尊敬の中で非エリートの恨めしい抵抗勢力に泣かされる様子も論文にありました。

彼ら抵抗勢力は直ぐに「お家第一だ」ともっともらしい大義ををかざすのです。それも暗愚の跡取りの顔を伺いながら。今日でもその図式に大きな変化は無いようです。中洲にはそんなお勤めが耐えられません。だから起業して同族経営をやらない事を心に決めました。でないと楽しい人生が送れないと思うのです。

大正11年安田銀行の専務理事に就いた結城豊太郎はどんどん改革を進めます。これは凄いですね。先ず人材育成でした。早速母校東大の法学部から父辰野亥蔵をスカウトしたのを手始めに合計30名翌年は50名翌々年は180名のエリートを採用します。後に彼らが安田銀行を日本一のメガバンクへ引っ張り戦後は芙蓉グループの中核に成長します。次に金融業では将来の成長産業と貸付先の企業調査が肝要だとしてこれに優秀な人材を惜しげもなく注ぎ込みます。そうなると例の抵抗勢力はいよいよ御曹司を担ぎ上げて自己保身を露わにするのです。

会社ってのは大抵がそうやって内部崩壊するのですね。昭和4年結城豊太郎は無念のうちに安田を去り日本興業銀行の総裁に着きました。その後結城に引っ張られた父を始め沢山のエリートたちは後ろ盾を失い苦心を重ねある者は傷心のうちに会社を去ります。父辰野亥蔵は銀行を去り安田の数少ない産業である安田製釘の経営に携わり八幡と仙台の安田工業を発展させます。生涯鉄鋼業との深い関係を持ち東北鉄鋼協会の理事長に収まりました。

小学5年の頃、不思議なことに一方亭の跡地に建った県立図書館で分厚い紳士録を開いて父辰野亥蔵の来歴を知るわけです。

亥蔵は結城退社後も実力が認められて38歳で安田貯蓄の支店長に41歳の昭和15年福岡支店長に就任して九州最大の資金元となります。

亥蔵は昭和5年に妻を娶りますが男児に恵まれず10年間で5女を得ました。

一方亭にとって辰野は最重要の顧客、そして結城豊太郎ー高橋是清の繋がりから店の女将とは大変親密な間柄になりました

昭和11年2.26事件で高橋是清暗殺。世情は更に暗くなって行きます。愛する父親を亡くしたふさと朝子母娘は青年将校達を呪いました。父亥蔵が一方亭に出入りするようなったのはそんな時期です。

昭和17年当時一方亭は 高橋敏雄の後妻となっていた40歳の朝子が三代目女将として店を仕切っております。43歳の亥蔵は一方亭で博文と是清の生き方の影響を受けて参ります。家貧しく身売りされた娘達の境遇を憐れみ一方亭では彼女たちに目をかけました。出来れば元気な男児を残しておきたいと思うのも当然の世情でした。

女将の朝子の目に留まったのが16歳の中洲若子だったのです。当時の売れっ子芸妓といえば ふく子、奴、りつ子の三羽ガラス。いずれもどの旦那が身請けするか関心の中で亥蔵は芸妓でも仲居でもない未だ下女中の若子を身請けしました。とても異例のことだった様です。この時一方亭では朝子の取り計らいで大層な宴が張られて若子の門出を祝ったそうです。「私のためにそりゃ信じられんような祝宴やった」若子がポツリと言ったのを思い出します。そして昭和19年2月亥蔵は若子に待望の元気な男児を得て狂喜しました。亥蔵は千代町に妾宅を構え乳母まで雇って母子を大切にしました。

戦時中、物資がない時に5月節句の祝いに写真が残されています。中洲母子の前途は洋々としておりました。

これまでの話は以下の資料を読ませて頂いて参考にしました。高橋貞行著一方亭回顧録

中洲若子の話(その13)

作家でもない中洲が人様の事を珍奇な妄想を加えて描こうと言うのですから危険です。

しかも相手は近代日本を作り上げ世界の歴史に名を残す2人の英傑伊藤博文と高橋是清ですからオオゴトです。この機会に記録や評伝を読むと改めて幕末から明治の時代の人々の未知への挑戦それも「国の為人の為」という湧き上がる使命感を強く感じます。その男の世界に料亭と花柳界の女の世界が色濃く絵模様を描いているのでとても情熱的、人間的ですね。

この2人の男、何時も命を狙われる公的活動から夜遊びの世界に入ると女性に大モテの可愛い男たちに変身します。

慶応2年1966年未だ駆け出しの25歳の青年伊藤俊輔、惚れて身請けした芸妓小春と一緒になるためカミさんと離婚、その騒動の中でも昼間辛うじて生きながらえた命を確信するかのような夜の遊びです。あの時代は避妊が上手くいかないので直ぐに子供が出来ます。翌年別の女性との間で「山口げん」をもうけました。(と中洲は想像します)

15歳になったピカイチの美貌の娘、今更入籍出来ず未亡人の藤野みちと図って「春帆楼」をこさえてそこの仲居とします。営業部長の博文総理は政界経済界の大物をどんどん連れ込んで明治16年には「春帆楼」に世界初の公認河豚料理の看板を上げさせるわけです。凄い政治力ですが尋常な熱の入れ方じゃありません。

そして仲居頭で天下の才媛「山口げん」の名声は高まるばかりの明治26年52歳の宰相博文一計を案じました。おのれの醜聞を腹心の39歳、是清大蔵大臣の女としてカモフラージュしたのです。政界一の好男子の是清は翌明治27年に生まれた娘の「ふさ」と山口げんを熱愛しました。

時は流れて明治40年博文66歳是清53歳げん40歳です。男女親子の愛情は兎も角2人の娘、愛人、娘の行く末を案じる博文と是清は奇想天外の手を編み出したのです。博多で老舗の料亭「一方亭」は妻に先立たれた商い下手の黒川清三郎の下で倒産寸前でした。ここに「げん」を清三郎の後妻として送り込み先々清三郎の長男清太郎と「ふさ」を夫婦にして「一方亭」2代目を継がせるのです。見事な親子丼です。これで戸籍上もスッキリし子孫繁栄の筋道が出来ました。

今度は2人の営業部長、政界だけでなく筑豊の炭鉱主や任侠の吉田磯吉大親分、八幡製鉄とその取引先を贔屓にさせて倒産寸前の「一方亭」を見るまに九州随一の料亭に変貌させたのです。2人は共に驚異的な働き蜂の生涯を送り、そして同じく悲しい結末を迎えました。

尽力したのはそれだけではありません。産業構造の近代化です。是清はネポチズムに浸りきった財閥にもメスを入れて殖産興業を図りました。大正12年東大法学部を卒業したばかりの23歳父辰野亥蔵を筆頭に30名の俊英を腐りかけた安田財閥の再生部隊に引き込むのです。

中洲若子の話(その12)

真似ごとに文を書き始めるとつくづく作家の凄さが判ります。特に司馬遼太郎なんか「どうしてあんなに見たことも聞いたこともない歴史上の場面を登場人物に語らせる事が出来るのだろう」と。皆様も中洲同様そう感じますよね。

これって中洲の商品開発と同じく妄想の産物でしょうか。とすると我々読者は時に司馬遼太郎のイカサマに嵌められているかも知れません。

だったら中洲も一昨日の春帆楼の記事を分解して更にWEB記事を元にexcel表の縦列の見出しに西暦、元号、そして人物ごとに年齢と事件を書き込み横軸をカーソルに照らして妄想しました。

すると・・・。伊藤博文と春帆楼更には一方亭との関係が奇妙に浮き上がります。高橋是清も伊藤親分に振り回されているようです。

事件の芯にあるのは「山口げん」です。春帆楼が開店した明治15年に15歳のげんが奉公に入ったようでその後才色兼備の仲居頭として春帆楼の看板になり25歳(?)の頃是清に身請けされ娘「ふさ」を授かります。更にその「山口ふさ」は博文の手引きで「一方亭」の後妻に嫁がされることに。

俊輔の時代茶店の 娘「小梅」に命を救われ後々その恩を忘れず置屋に売られ芸妓になった小梅を身請けして芸妓上がりの女性をファーストレディにしました。その 梅子も良妻賢母の鏡であったと習っております。そもそも「芸妓上がり」と形容するのは後の人間の偏見でしょう。博文の時代、芸妓は(よく躾けされ文学や諸芸能を身につけしかも夜の生活も極めて巧みな)女性陣だったのです。だが梅子の理解をいいことに方々で芸妓と浮気しては子供をもうけ男らしく入籍を繰り返しました。博文さんは置屋に売られた悲惨な境遇の女性に特別優しかったのかも知れません。だから「山口げん」は伊藤博文の唯一の隠し子じゃないかと珍奇な妄想をしてみたのです。
裏付けにWEBから伊藤博文の年譜を拾いました。

慶応二年 1866

  1月     伊藤俊輔 下関に入る
  2月21日 伊藤俊輔 木戸貫治に鹿児島行きについて手紙を書く
  2月27日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔を親書伝達の使者として鹿児島に派遣することを下命する
  3月     伊藤俊輔 妻すみ子と離婚
  3月21日 グラバー 横浜より下関入港、高杉晋作、伊藤俊輔その船に便乗長崎に向う
  4月 8日 伊藤俊輔 下関に入る
  4月14日 伊藤俊輔 梅子と婚姻
  4月22日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔に洋行の許可を出す
  6月 4日 パークス 英艦三隻と鹿児島に向う途中、下関に寄港し高杉晋作、伊藤俊輔と会見
  7月 3日 伊藤俊輔 下関より長崎に入りグラバーより汽船2隻購入の契約を結ぶ 五代才助にも交渉し薩摩名義で
    ?    伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と大村へ行く
  7月20日 伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と下関に入り高杉晋作に紹介
  7月28日 伊藤俊輔にグラバーより契約の汽船二隻が幕府の強制買入れになったと連絡が入る
    ?    伊藤俊輔 村田新八と長崎に行く
    ?    伊藤俊輔 村田新八と上海に行き汽船二隻購入の契約を結ぶ
  8月26日 伊藤俊輔 下関に帰り汽船購入を藩に報告
    ?    伊藤俊輔 病気で寝込む

明治まであと2年の慶応2年幕末の志士達が走り回っているのが伊藤俊輔(博文)の年譜に見て取れます。この年妻すみ子と離婚して身請けした小春と結婚。しかしこの年の後半俊輔(博文)はどこで何をしていたのか。小うるさい前妻と別れて小梅と結婚ししかも下関で別の女性と同棲中?翌1867年に「山口げん」が出生しております。未亡人の藤野みちと共に春帆楼を興したと来歴にあります。兎に角博文は女性に優しい男です。認知してやれなかった15歳の「山口げん」が不憫で将来を案じて春帆楼をこさえたのでは。「げん」は博文の愛情に包まれかのソフィア・ローレンでも三尺を避ける程の美人に育ちそれだけでなく素晴らしい経営の才を発揮して春帆楼を日本一の料亭に育てます。

昔の男達は自分の子孫の幸せにもしっかりと心配りをしたのでしょうか。それで一番信頼し最優秀の人物の高橋是清に山口げんの身請けを頼んだのです。高橋是清は「げん」との間に愛娘ふさを得ましたが日本国の存亡を背負っていた是清は矢張り「げんの認知」に踏み切れませんでした。しかし先輩博文がやったように「ふさ」を素晴らしい娘に育てその末裔の幸を願って当時沈みかけていた博多の大料亭「一方亭」に送り込んだのです。

山口ふさが是清の隠し子であるのは公知だが山口げんが博文の隠し子であった記述は未だ見つかっておりません。

もしもそうだったら我らの高橋ノリチカ氏は是清のみならず博文の血までも受け継いで麻生太郎や安倍晋三どころでない高貴なお方と相成りますね。

「珍奇な妄想と商品開発」の話で中洲士郎のブログに立ち寄られた読者に中洲母子の身の上話など退屈極まりないことです。しかし伊藤博文と高橋是清が起こした事件と同じことを父辰野亥蔵が起こすのです。

秋の夜長WEBをブラウジングして父辰野亥蔵(仮名)を追ってみます。出来れば後3回程で「中洲若子の話」を終えます。どうぞお付き合いのほどよろしくお願いします。

中洲若子の話(その11)

まずお断りします。高橋トクシン氏はあの明治の元勲高橋是清の本妻でない血筋を引かれる方でした。高橋是清に認知されていないひ孫に当たっておられます。
たまたま是清と姓が一致しますのは彼の父親は高橋敏雄、若松の任侠大親分吉田磯吉の書生から京大を出て検事になった人です。

一方亭のルーツを辿りますと人物では伊藤博文、舞台は下関の春帆楼に行き着きました。

[以下春帆楼本店のホームページから引用]

春帆楼はじまりの物語「玄洋とみち」

春帆楼の歴史は、古くは江戸時代まで遡ります。

江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、自由な研究をするために御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開きました。専門は眼科でしたが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供しました。

玄洋がこの地を選んだのは、隣接していた本陣・伊藤家の招きによるといわれます。当時の伊藤家の当主・伊藤九三は、坂本龍馬を物心両面で支援したことでも知られる豪商です。

明治10年(1877)、玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業します。春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まります。

伊藤博文が名づけた春帆楼の名

馬関と呼ばれていた下関は、北前航路の要衝として「西の浪速」と称されるほどの活況を呈していました。下関は、討幕をめざす長州藩の拠点でもあり、奇兵隊や諸隊の隊医(軍医)として長州戦争に参加した玄洋の人柄に惹かれて、伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋など、維新の志士たちも頻繁に出入りしたといわれます。

「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し…」と伊藤博文公が後に高杉晋作顕彰碑(吉田・東行庵)で讃えた晋作が組織した奇兵隊の本拠地が阿弥陀時(現・赤間神宮)であり、その跡地に建ったのが現在の春帆楼です。

春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。

ふぐ解禁、ふぐ料理公許第一号店に

明治20年(1887)の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。

豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。

若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛。翌明治21年(1888)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。

歴史に刻まれる夢舞台、日清講和会議

明治維新後、急速に近代化を進めた日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦しました。

日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診してきます。会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がりましたが、一週間前に伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表。

明治28年(1895)3月19日、総勢百人を超える清国の使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着しました。日本全権弁理大臣は伊藤博文と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結されました。

下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示するために最適だったからです。会議の終盤、増派された日本の軍艦が遼東半島をめざして関門海峡を次々と通過する光景は清国使節団に脅威を与え、交渉は日本のペースで展開したといわれます。

ご覧のように日本で一番忙しい伊藤博文公が異常な程「春帆楼」に私的な情熱を傾けます。実は彼は稀代の色事師だったのです。しかめっ面しい政界の表舞台とは違って裏では飲めや唄えの艶な男女の世界が隠されていました。これは大変面白い商品開発の題材です。誰かが傑作に仕上げてくれるのを期待して精々さわりを描いてみます。どうぞ間違いのところは中洲のイカサマに免じてご容赦下さい。