アイパオの話(その25)

ルミカはケミホタルで釣具業界にチャレンジしました。丁度40年前のことです。

ライトバンに看板を積んで会場に乗り込みひとりで設営です。それも問屋のブースの片隅に小さなテーブル置かせて貰って「売れなきゃ潰れる」文字通りハングリーの中での見本市でした。

今では釣具の売上は全体の10%を割ってマイナーな部門になっていますがどうしてもフィッシングショーには力が入ります。毎年変な新製品を案内しておりますが今回は同業者とお客様の度肝を抜いたようです。「新製品も凄いが社員たちでブースを作り各自が自分の担当の新製品をプレゼンする姿は他所では見られない」と。

デザイナー・コムロ会心のビデオを是非ご覧願います。

世の中猫も杓子も「新製品開発こそ会社が生き残る道だ」と連呼しています。しかしやることと言えば他社が儲けていそうなのを真似するだけ。それも大抵は旬を過ぎた商品を。

一番の高給取りで一番仕事に明るいと自慢するトップの他に誰が新製品なんか開発出来るのでしょう。画期的新製品を社員の誰かが生み出したらそうそう日亜化学の中村修二さんみたいな社員が現れたら喜んでその人を社長に据えるべきだと思います。

そうすりゃその会社はきっとホンダみたいに次々と新しい社長が責任を全うする凄い会社になる筈です。矢張り創業者の心でしょうか。時が経ってなおさら本田宗一郎や江副浩成の値打ちがわかります。誰かさんも早く心を改めんといかんな。

アイパオの話(その24)

ここインテックス大阪で明日から始まるフィッシングショー大阪2019の会場に  3棟の新型アイパオが優雅な姿を現しました。

オーノ棟梁の指揮で中洲士郎以下10数名のルミカ社員が嬉々としてパイプを組み上げて行きました。午後3時サクラマスの稚魚2000匹が富山から喘ぎ喘ぎ到着。一か八かの勝負です。1度もテストしていないアイパオドーナツ水槽に富山から運ばれた1トンの清水に稚魚が放たれました。すると水槽を覗き込むアキコ以下仲間たちの心配顔の眼前を一糸乱れぬ群れを為して周回を始めたのです。行き止まりがないので魚たちはキッと富山の神通川でも遡上している気分なのでしょう。到底水が足りないので大阪の水道水をカルキ抜きして加えましたが大丈夫でした。これからも頻繁に専門家の忠告とは異なる事態を目にして参ります。言えるのは「何事もなんとかなるさ」ですね。

その組み立ての様子をヒメノ氏がBiRodで上方からインターバル撮影したものをコムロ氏が編集しました。ご覧ください。

アイパオの話(その23)

遂にこの日がやって来ました。アイパオのリニューアルです。異形PVCパイプの着想から2ヶ月、中洲士郎に散々苦心させられた老兵オーノとイワモトでした。昨日その2人のトラックを仲間15名で見送りました。

夜逃げと間違われそうです。

そして今朝10時トラックがインテックス大阪の見本市会場に到着。ここで2月1日から3日間大阪フィッシングショー2019が開催されます。木っ葉グロのルミカが尾長グロの釣具大手に負けじと20小間のブースを確保しました。それも昨年同様大掛かりなドームです。そのドームが組み立てられる横でアイパオの準備作業が始まりました。

アイパオの話(その22)

異形PVCのサンプルが大連金州で仕上がって約50日。1月29日大阪に向かうトラック積み込みまで5日を残して「革新アイパオ」3棟が姿を現わしたのです。

盟友オーノ、ヒメノ、イワモトは正月返上、遠賀工場の若手数名も土日を割いて応援。中洲は他の全ての開発案件を投げうって朝から晩までアイパオ漬けの毎日でした。この間、資材調達と加工に4回大連に飛び遅れの出た船便を飛行機便に変えて今日水槽と屋根のPC(ポリカーボ)板が到着。遂に3棟のアイパオが形を見せました。

フィッシングショー大阪2019の出展責任者で東京支店のアキコ(安藤サクラそっくりさん)に電話。「間に合ったよ」に電話の向こうで歓声が上がります。

由布院で調達した「魚植共生」の野菜と花

サクラマス稚魚2000匹の回遊水槽。果たして水は漏らないか。

11件の新製品新事業展示の開発館

アイパオラーメン館。イケアに買い出しに行ったが按配良くありません。

中洲の夜毎のいい加減な着想に翌朝耳を傾け一心に着想(妄想)を形に変えてくれる奴。それがオーノでした。(思えばヒメノ氏もドガワ氏もヒラタもイノウエも仲間たち皆んなそうでした)

この20年間遠賀工場の生産現場から週末になるといつも会社不良資産の由布院塚原の荒地に引っ張り出しての開拓作業。どんな馬鹿げた着想にも絶対に異をとなえずに作業に従事。日毎の罵倒に耐えきれず姿をくらませて6年。舞い戻ってからも罵倒の日々。満身創痍で医者通いの定年過ぎて再雇用の嘱託老兵。ニッサンの超馬力の車で野山を疾駆させてラリーで名を馳せた男も金と体力それにカミさんにも見放されうらびれて。それでも時折軽四輪でレースに出て夢を追う典型的な末路人生。そして中洲親分の無茶に正気失せた顔で一応従うしか術がない男。その男オーノに。

「オーノお前しかいない。中洲最後の頼みを聞いてくれ」そしてオーノの分身の奇怪な男イワモトと3人で過ごし通したこの50日間でした。ごめんなさい皆様。時間に追われ必死の手作業の2人の動きを追っては資材の調達に走り回ったので長らくブログをサボっておりました。

驚きは2人の日増しに軽やかになる動きと血色を取り戻した顔。問題が解けた時の笑顔。濡れ落ち葉同然だったオーノが青春を取り戻しております。そのオーノ、若い頃から一番好きな仕事は人が喜ぶ住まい造りと名人芸のユンボ作業。彼を観ていると人間ってのは好きな仕事を死ぬまで続けたい生き物のようだ。そして一升飯飯喰らいの超老イワモト。アルバイトながら今にも潰れそうなオーノを律儀に支える男。生き返ったオーノと一刻者(イッコモン)イワモト有っての「革新アイパオ」誕生でした。

この間中洲は2人に吠え続けました。

「世の不正と堕落を正すべく立ち上がらねばならない」「親分。例えば何に対して立ち上がるのよ?」「例えばトランプだ。食と職を求める難民に手を差し出すのが金持ちの義務なのに。それも貧しいメキシコの負担で国境に壁を築かせるなんぞとんでもない罰当たり野郎だ。鉄槌を食らわせにゃ」「核のボタンを握った男にどうやって?」「メキシコに地上の楽園を作るのよ。そしたらトランプの壁をよじ登るのは米国人となり選挙民に見放されるワケだ」「どうやって極貧の民に楽園が訪れるのだ。オヤジみたいな素寒貧が巨億の寄付でもするのか?」「ホームレスに家と仕事をリースするのよ。それがアイパオだ。その崇高なアイパオをお前たちが世に出すのだ」「ヤレヤレ」少しばかり気印気味の親方に正直ゲンナリ顔の2人でした。それが自分たちの手で日毎にアイパオの清楚な姿が浮かび上がって来ると2人の顔つきまで威に満ち色気まで湛え出したのです。いやあ本当にホント。それは楽しい50日間でして中洲シミジミと幸せを噛み締めております。

アイパオの話(その21)

中洲若子の話に付き合って頂いて有り難う御座いました。お陰様で若子の話をこの世に残せました。しかし作家の真似事は本当に疲れるものです。

司馬遼太郎さんなんか締め切りに追われて大層命を削られたことと改めて尊敬の念を深めた次第です。しかし皆様、私も初めて故人の話を書いてみますとこれが結構面白いんです。少々嘘書いても、悪口言っても残念ながら相手は化けて出てはくれません。

さて商品開発は小説と違ってごまかしがききません。しかし小説と同じく売らんがためにもっともらしい嘘もつきます。我々の新製品なんて所詮は巷の情報の組み合わせですから中洲の話と商品開発は同根なのでしょう。

相変わらず毎日商品開発に明け暮れておりますがなかなかヒットしません。バンバンライトなんかやっとリリースしても全然注文が取れません。大閃光エイトも然り。そこそこ良いものではお客の食いは起きませんね。相変わらず大閃光オレンジの爆買いなどにすがって生計を立てております。

さてそんな釜暮れ人生もどきの毎日にPVCの押出しチューブがやって来たのです。これを見たオーノ以下の面々カーッと熱くなってこれに食らい付きました。これからフィッシングショー大阪2019までの50日間「革新アイパオ開発」に挑戦です。

 

来年1月中に完成しなきゃ

第一棟はドーム水槽でマスが泳ぎ回ってその上にレタスが茂る

第二棟は11名のお客が一蘭ラーメンのようなアイパオの椅子に座ってカップラーメンを食べる

第三棟は新製品展示館。11名の若者が自慢の新製品をお客様にプレゼンします。

中洲若子の話(余話その1)

商品開発の話ならちっとも疲れませんが母親の鎮魂の話となると中洲士郎正直疲れました。読まされる方も疲れるのでしょう。このところ中洲ブログを覗かれる方がめっきり減っておられるようです。

若子の話が完了したので仲間を誘って薬院の「しょうき家」に繰り出しました。

有りましたよ~。世界にただ一つ「一方亭」の名前が残っていました。それは「しょうき家」の看板に赤いシミかと見まごう小さな細工。確かに赤い瓢箪そして懐かしい「一方亭」が彫られていたのです。

相棒は店に入る前にその造りを観察すると明智小五郎が虫眼鏡を取り出して覗くように左手の看板を調べ始めたのです。そして犯人の証拠でも見つけたように小声で「有りましたよ」と。

板前が作る家庭料理が揃って、中洲「じゃあ、かんぱ~い」に相棒から「今日は若子さんへの献盃だ」と。今宵は探偵作家にやられ通しです。

7年前と同じく美人の女将さんと料理をあずかる超イケメンのご亭主でした。何となく嬉しくて「こんな時は無粋なご挨拶は無用」と感じ一限客を装い黙って退出しました。

是非皆様も居酒屋「しょうき家」に足を運ばれて「酒よし肴更によし女将も良けれ」ば常連となって下さい。そして引き戸を開けるとき看板の中の赤い瓢箪を「よ~く見てやって下さい」

あなたにはこの赤い瓢箪、誰に見えますか?

中洲若子の話(その17完)

昭和28年士郎9歳の時でした。若子が西日本新聞の名士録で士郎の父亥蔵が東京から来福したのを知ったのです。若子悩んだのかも知れません。「息子に自分の父親の存在を教えておこう」と意を決して士郎に一人で父親に会いに行かせました。

記憶の始めが途切れておりますが若子が命じるまま当時国鉄枝光駅でホームから跨線橋の渡り通路を通って改札口へ向かいました。多分父の会社が枝光に有ったので枝光の駅舎で「御目通り」させる手筈だったのでしょう。予期せぬことに人気の少ない渡り通路で前方から「おじさんの2人連れ」が話しながら近づいて来たのです。小柄な年配の男と少し若い大柄な男です。一瞬この小柄な人が自分の父親だと確信しました。ジッと顔を見て「おじさんですか?」と問いました。少年という生き物は恐ろしく神経が繊細で鋭敏なのです。この時の2人の男の表情が網膜に焼きつきました。「違いますよ」との返事の代わりに喜びじゃなく大きな戸惑いが優しそうな顔に少し歪んで現出したのです。傍の大柄な男は何か興味深そうに笑顔を向けました。士郎は咄嗟に間違いであったようにその場を通り過ごしました。

若子が後々になって士郎に言ったことがあります。「お父さんに会えたか?嬉しかったか。」の問いに「何一つあんたは答えなかったよ」と。その後数度父親に会いましたが「この人にとって俺は迷惑な存在かも知れない」との感じを抱き続けました。

昭和50年に若子のパトロン飯山が肝臓ガンで亡くなった時は若子と老婆(ラオポ)3人で中洲の住居から浜の町病院に向かって申し合わせたように無言で心底お悔みと感謝のエールを送りました。

ほとんど笑顔を見せない野武士のような飯山の残した唯一の無駄口は「俺なら絶対に母子を見捨てるようなことはしない」でした。中洲の土地と家は若子に残しました。若子が50年生きて悪戦苦闘して握りしめた唯一の財宝でした。飯山が亡くなった翌年昭和51年に若子が食事の店を始めます。

店の名前は士郎が「赤ひょうたん」と命名。

入り口の看板は赤いひょうたんです。当時神戸三ノ宮に同じ名前のサラダを食べさせる店があってこれから借用したのです。

不思議ですねえ。一方亭の名前は「一瓢亭」から来たもので看板も赤いひょうたんだったと高橋貞行氏の一方亭懐古録にありました。

若子のポツリと漏らした「いっぽうてい」を10年ほどかけて追いましたら以上のような物語が出て参ったのです。

これで中洲若子の話はおしまいです。お付き合い頂いて有難うございました。   若子があの世に旅たって5年、やっと若子の生涯のほんの一部を記録に遺してやりました。

昭和を駆け抜けた1人の女の話です。平凡な家庭で平凡な夫婦に収まる人生に憧れながら沢山の男を渡り歩いた女の話でしたが・・・。書き終わると現実の人生の方が若子にはずっと合っていたように思えました。

中洲士郎、折角起業してお金は何とかなったのですから、もう少し若子に贅沢させてやれば良かったのかな?  中洲は身内には少なからずケチでねえ。

それでも「今日は美味いもの食べさせるよ」そんな時に足が向くのは新天町の蕎麦屋「飛うめ」の上天丼でした。飛梅は天神地下街にも有って足の悪い若子には楽でしたが新天町の少しうらびれた狭い「飛うめ」の方が2人には落ち着きました。

甘ダレが少しだけ天ぷらの衣に染み込んだふんわり真っ白いクルマエビの天丼を食べている時はお互い大抵無言で・・・確かに幸せでした。

中洲若子の話(その16)

ネット(地図の資料館)に古い中洲の写真がありました。

那珂川の河畔に建つ白い建物が文士や学者が集った喫茶店のブラジレイロ、その隣の黒い大きな建物が博多一番の高級旅館玉川です。戦災後区画整理で旅館玉川は跡形もなくなり女将の中川フクは川沿いで小さな割烹なか川を営んでおりました。市電のずっと先が東公園でその入口に「一方亭」があり終戦で米軍に接収されて指令本部になった後火災で消失してしまいました。3代目女将の高橋朝子一家は大名町の新雁林町に移り住んでおります。

この老舗の旅館玉川の女将は中川フクという中洲切っての女傑です。一方亭の三代目女将の高橋朝子の亭主高橋敏雄は中川フクの従兄弟(養子)で両家は親戚付き合いの中です。料亭と共存する花柳界は義理と人情の世界、若子は亥蔵に身請けされ士郎をもうけた後も朝子女将とフク姐さんこと通称「お福しゃん」には何かと世話になっておりました。

そのお福しゃんの仲立ちで博多の実業家飯山稔の世話になったのでしょう。飯山の奔走で米軍将校からペニシリンが手に入り千代町病院で喉の切開の後ペニシリン注射で奇跡的に士郎は一命を取り止めました。残った半分のペニシリンで治療費も免じて貰えたと若子が言ってました。当時はペニシリンは治療効果が絶大だったので大変な貴重品、当然高額だったのです。そして士郎の喉には記念に大きな傷が残りました。

「一方亭懐古録」を読んで初めて知りました。昭和26年夏中洲母子が中洲から移り住んだ新雁林町の間借りの青木宅から高橋朝子女将のお屋敷は目と鼻の先だったのです。この事は取りも直さず高橋家の皆さんから中洲母子ずっと目を掛けて頂いていた証なのでしょう。

ペニシリンの薬効は強烈でした。瞬く間にジフテリア菌は駆逐され熱も引き大きな喉の切開口もふさがり四才になった幼児の五感が躍動を始めたのです。それは確かに記憶に有ります。暗い部屋で一人寝かされておりました。家には誰もいません。目が覚めると頭がスッキリして身体はふわふわと浮くような感じでした。薄暗く湿った部屋から表(おもて)の長屋の軒を連ねた路地に下駄を履いて出たのを覚えております。兎に角生き返った心地よさを感じました。コンクリートがすり減って玉じゃりが浮き上がった共同洗い場を左に折れて更に薄暗い細い路地に入ると左側には馴染みの板塀、見るとそれが緑の苔に覆われ湿気を十分に吸って鮮やかな黒緑色に光っています。そこから小便の匂いが冷たく伝わって来ました。光が漏れているその板塀の節穴に目をやると陽光が本当に燦々と中の畑に降り注いでいたのです。

路地の先はヨーカンと称して板付基地を出入りする進駐軍の大型トラックがうなりをあげて突っ走る怖い大通りです。急いで右に折れてその先の更に小さなドブ川の手前土手道を用心して進むと直ぐに轟音が耳に入ります。鍛冶場です。裸の上半身が炎を受けて真っ赤に染った屈強な数人の男が大きな鉄の塊をヨイトマキで引き上げては真っ赤に焼けた鉄片に落としています。今考えれば鍛造作業です。おばさん達も働いています。皆んなそりゃ汚い格好でした。傍に座って眺めていましたが急に空腹を覚え再び家の前の道を通り過ぎて6丁目のドブ川を左に折れてコンクリートの橋を渡ったところにパン工場が有るのです。ここに行って窓越しに覗くと壁を伝ってバンが面白く走っています。パンの列が士郎の目の前にやって来ました。いい匂いです。コッペパンです。よく見ると割れ目にキザラの砂糖が美味しそうに光っていました。

若子は芸妓から足を洗いパトロンの飯山の出資で中洲人形小路に小さなバー「メーゾンお染め」を開店します。そりゃ置屋に売られてから客扱いの訓練を受け水商売の世界を穴が空くほど見つめて来た若子ですからバーは大層繁盛しました。「中洲の士郎」も皆んなに可愛がられて人気者です。しかし学業は酷いもので冷泉小学校の担任の中原先生は恨みでもあったのか一学期の通信簿は全て右端一列に⚫️印でした。

その楽しい一年生の夏災禍が起こりました。若子がパトロンの飯山とタクシーで一緒の時事故で顎に大怪我をしたのです。世間体もあって事故は表に出ず店は畳まれ若子は今度はしっかりと学問の街大名町に士郎を連れて引っ越ししました。顎に傷跡のある妙齢の色街娘と喉に傷跡のある中洲育ちのガキが静かな新雁林町にやって来て騒動を起こすのです。

高橋貞行氏が懐古録に懐かしい雁林町の地図を描いてくれております。

地図の中の新雁林町で青木宅を出て大名小学校に登校するところ。

左から中洲士郎、一級下の水の江君、青木君代、君代の親戚です。

中洲若子の話(その15)

2月に士郎が生まれて11月に亥蔵の妻が6人目を出産しました。何とまあ男の子でした。跡取りが生まれたのです。そりゃあ家族、親族、会社を上げてのお祝いですね。そして士郎は要らなくなったのです。士郎が辰野家に入籍される可能性は無くなり代わりに当時としては破格の離縁金が支払われました。若子と士郎が家を買って後々充分生活できる金額だったと若子は言ってました。

ある時中洲は自分が精子の1匹となって受精行為に及んだ様子を妄想しました。先ず母親の卵子というもんは自分で好みの精子を選べないのでしょうか?  いや選べる筈だって。じゃあどうやって?

こんな具合でした。若子は貧しく生まれ修学旅行にも行かせて貰えない惨めな小学校時代を過ごしました。吉塚小学校では成績一番だったのに女子校にも行けず直ぐに置屋に売られてしまったのです。

「生まれてくる子供は必ず自分を大切に守ってほしい。何も秀才じゃなくていい。できればイカサマしてでも生命力が強い方がいいなあ」と。

一回の射精で放出される4~5億匹の精子の中で士郎精子は泳ぐのも卵子に穴を開ける力も強くない。それに不運なことに射精で卵管にくっついた時は若子の卵子は未だ排卵されておらず卵管にへばりついておりました。生命力だけが他より強かったのでしょう。翌日排卵があって今度も元気な4億もの精子が先を争って卵子に向かい一番強い精子が卵子に穴を開けて滑り込もうとしたその瞬間です。若子が膣を締め付けてその精子を卵子から飛び出させてしまい代わりに昨日から命絶え絶えの士郎精子を既に穴が開いた卵子に招き入れたのです。士郎にしっかりと貸しを作って。

本当は東大にでも入れる亥蔵DNAじゃなく中洲血統の学力の低い、しかしイカサマに強い子供が生まれました。亥蔵に離縁された母子には過酷な運命が待っておりましたがイカサマで人生を乗り切ることが出来たのです。坊ちゃん育ちの亥蔵には到底想像がつかなかったことでしょう。

先ず離縁金は全て祖母が取ってしまいました。その金は新円切り替えで紙屑同然になったそうですが信じられません。多分若子よりも更に悲惨な娘時代を経て金に飢えた祖母が生まれて初めて放蕩三昧をやらかしてお金を全部スッテしまったのじゃないかと思っております。一家は又直ぐに極貧生活に戻り若子の妹達に士郎を背負わせて亥蔵の会社にお金をねだりに行かせたそうです。その時八幡の大勢の社員を前に亥蔵がどれ程困惑したか想像に難くありません。「あ~あ。あんな小娘に手を出さなきゃよかった」と。

つい最近まで日本の優しい男性陣が韓国や中国で娘に惚れて一緒になったらその一族郎党20名が一緒についてきたなんて話を聞きます。飢えるという事はそういう事で日本も嘗てはそうだった訳です。

そしてあの優雅な妾宅を出て祖母の子供達の鼻をつまむ小便臭い布団に投げ込まれ、節句の写真で着用していたあの柔らかい肌触りの絹の綿入れは叔父達に取られてしまいました。

沢山のオデキで背中が痒くて何時も柱の角で擦っておりました。劣悪な環境で栄養失調、免疫力の無い士郎にジフテリア菌が喉に侵入して来たのです。

昭和22年の中洲。20年6月の大空襲で中洲は廃墟になりました。その焼け跡には低俗なバラックのカフェが並び女給と酔いどれ客の下品な嬌声と流行歌がこだましております。戦前の中洲の住人達はこれを嘆いて中洲を去ったと一方亭回顧録にもありました。

那珂川の川向うは西中洲、ここは空襲を免れて料亭それに置屋や妾宅が軒を連ねています。

その一軒に置屋「縄田」がありました。

若子 15 歳の春には親に置屋に売り飛ばされましたが21歳の今回は自分の意思でこの縄田に身を置いたのです。

春吉橋から路地をくるりと入ると今でもそれらしき風情があります。

対岸の東中洲の喧騒と対照的にここ西中洲は仕舞屋風の置屋が続く路地の向こうは三味の音色が漏れる小粋な花街でした。

置屋の二階でしょうか。物想いの若子。

中洲検番登録の縄田では 4、5 名の芸妓を置いて西中洲の高級料亭を商いの相手としておりました。

若子は見習いの半玉ではなく始めから 10 歳年上の清子姐さんについて芸妓です。

士郎は 4 歳の頃確かな記憶として(多分十日恵比須さんの祭りで)着飾って宝恵駕籠に揺られる母親を目撃しています。

その清子姐さんは士郎が中学の頃までよく家に遊びに来ました。

彼女には士郎養鶏の卵を使った特製のミルクセーキを何時も振舞ったものです。頬には少しそばかすがあったが口数少なくハスキーな声が特徴で気っぷのいい確かに美人でした。

さてその置屋での芸事修業は厳しかったようです。若子は唄、琴、太鼓、鼓、舞踊などは何とかこなしましたが三味線は下手だったようです。しかし色白できゃしゃな立ち姿を買われて若子は直ぐに沢山の座敷を持ちました。

若子 21 歳売れっ子芸妓に

 だが稼ぐ間もありません。最愛の息子士郎が病を患ったのです。怖いジフテリアです。

その末期には喉から犬が唸るような異様な声を発して周りの者は唯も耳を塞ぎやがて音が掠れて止むのを待ちました。あと数日の命です。

中洲若子の話そ(その14)

例の東大に安田講堂を寄贈した安田財閥の話です。創始者安田善次郎は中洲と同じく素寒貧からコトを起こして中洲と違って大きな財を成します。主に金融業が主業で製造業では洋式釘の製造以外殆ど成功しませんでした。人材が育たない同族経営に起因したと述べられています。

以下の論文を参考にしております。
小早川洋一著:「安田善次郎死後の安田財閥の再編成」です。

読みますと今日の会社経営でも普遍的な問題です。同族経営が問題というよりも低学歴故に同族に取り入って自己保身に走りがちな役員の存在が会社を潰してしまうようです。

明治30年東大卒の優秀な入り婿二代目安田善三郎が明治38年エリート社員を集めて安田の産業進出を図りますが非エリートの古株たちの執拗な抵抗にあって敗れ虚しく安田を捨てて出て行ってしまいました。そして陰徳の人善次郎が大正10年に右翼の朝日平吾に刺殺され安田は危機に陥ったのです。

明治大正を死に物狂いで駆けた経済人が昭和に入ると国士気取りの暴漢に相次いで命を奪われました。社会が奈落の底へ落ち込んで行くのです。

その時代を父辰野亥蔵は耐えて生き抜きました。「死ねば人にそしられるだけだ。長生きするしかない」そう言って98歳まで頑張って生きたのです。

安田本家から救済の要請を受けて時の大蔵大臣の高橋是清はこれも東大法学部卒のエリートで日銀大阪支店長で金融危機の混乱を鎮めた辣腕家結城豊太郎を安田に送り込みました。

あの当時東大法学部卒と言えばエリート中のエリートで国家社会に嘱望されて使命感に燃えて奉職したのでしょう。しかしそれら賞賛と尊敬の中で非エリートの恨めしい抵抗勢力に泣かされる様子も論文にありました。

彼ら抵抗勢力は直ぐに「お家第一だ」ともっともらしい大義ををかざすのです。それも暗愚の跡取りの顔を伺いながら。今日でもその図式に大きな変化は無いようです。中洲にはそんなお勤めが耐えられません。だから起業して同族経営をやらない事を心に決めました。でないと楽しい人生が送れないと思うのです。

大正11年安田銀行の専務理事に就いた結城豊太郎はどんどん改革を進めます。これは凄いですね。先ず人材育成でした。早速母校東大の法学部から父辰野亥蔵をスカウトしたのを手始めに合計30名翌年は50名翌々年は180名のエリートを採用します。後に彼らが安田銀行を日本一のメガバンクへ引っ張り戦後は芙蓉グループの中核に成長します。次に金融業では将来の成長産業と貸付先の企業調査が肝要だとしてこれに優秀な人材を惜しげもなく注ぎ込みます。そうなると例の抵抗勢力はいよいよ御曹司を担ぎ上げて自己保身を露わにするのです。

会社ってのは大抵がそうやって内部崩壊するのですね。昭和4年結城豊太郎は無念のうちに安田を去り日本興業銀行の総裁に着きました。その後結城に引っ張られた父を始め沢山のエリートたちは後ろ盾を失い苦心を重ねある者は傷心のうちに会社を去ります。父辰野亥蔵は銀行を去り安田の数少ない産業である安田製釘の経営に携わり八幡と仙台の安田工業を発展させます。生涯鉄鋼業との深い関係を持ち東北鉄鋼協会の理事長に収まりました。

小学5年の頃、不思議なことに一方亭の跡地に建った県立図書館で分厚い紳士録を開いて父辰野亥蔵の来歴を知るわけです。

亥蔵は結城退社後も実力が認められて38歳で安田貯蓄の支店長に41歳の昭和15年福岡支店長に就任して九州最大の資金元となります。

亥蔵は昭和5年に妻を娶りますが男児に恵まれず10年間で5女を得ました。

一方亭にとって辰野は最重要の顧客、そして結城豊太郎ー高橋是清の繋がりから店の女将とは大変親密な間柄になりました

昭和11年2.26事件で高橋是清暗殺。世情は更に暗くなって行きます。愛する父親を亡くしたふさと朝子母娘は青年将校達を呪いました。父亥蔵が一方亭に出入りするようなったのはそんな時期です。

昭和17年当時一方亭は 高橋敏雄の後妻となっていた40歳の朝子が三代目女将として店を仕切っております。43歳の亥蔵は一方亭で博文と是清の生き方の影響を受けて参ります。家貧しく身売りされた娘達の境遇を憐れみ一方亭では彼女たちに目をかけました。出来れば元気な男児を残しておきたいと思うのも当然の世情でした。

女将の朝子の目に留まったのが16歳の中洲若子だったのです。当時の売れっ子芸妓といえば ふく子、奴、りつ子の三羽ガラス。いずれもどの旦那が身請けするか関心の中で亥蔵は芸妓でも仲居でもない未だ下女中の若子を身請けしました。とても異例のことだった様です。この時一方亭では朝子の取り計らいで大層な宴が張られて若子の門出を祝ったそうです。「私のためにそりゃ信じられんような祝宴やった」若子がポツリと言ったのを思い出します。そして昭和19年2月亥蔵は若子に待望の元気な男児を得て狂喜しました。亥蔵は千代町に妾宅を構え乳母まで雇って母子を大切にしました。

戦時中、物資がない時に5月節句の祝いに写真が残されています。中洲母子の前途は洋々としておりました。

これまでの話は以下の資料を読ませて頂いて参考にしました。高橋貞行著一方亭回顧録