大島東市の話(その4)

大好きだった崔朝栄の話が長引いて大島危機が先へ進みません。

オフィスには少し垢抜けしない若い娘がいました。崔の身の回りの世話を焼いているという。崔の執務室は何の飾りも無く猟銃と刀が真っ白い壁に掛けられていました。その壁には5、6箇所穴が空いています。

「これか? ピストルの弾丸の跡だな」事もなげに答えます。そこにいる崔朝栄は修羅場で牙をむいて闘う別の獰猛な男なのでしょう。

「どんな仕事しているのか?」に答えます。

「なあ士郎、分かるか。この日本に俺たち三国人がまともに働ける場所などないのだ。パチンコ屋か金貸しかヤクザしかない。俺は金貸し業それもヤクザ相手の金貸しを選んだ」ヤクザも人の子、崔に凄まれておとなしく借金の返済に応じる姿が映る。

「事務所で迎え撃つのはいいとしても外での立ち回りは怖いだろう?」         「確かに怖いが車のトランクのゴルフバッグには何時も日本刀を隠し持っていて、これで相手を斬りつけると大抵の奴は参るよ。刀の不法所持で警察の取り調べを受けたが素早く刀は藪に投げ入れ (防戦したのはこの5番アイアンだ)と逃げたね。どうせ相手はチンピラヤクザだ。傷跡がゴルフクラブじゃないのは明白だがお咎め受けずだったよ」

ふと気が付くと我々市井の分別という鋳型の中に毎日押し込められている人間達にとってはこういう(有無を言わさない非常識な)世界に憧れが湧いて来ます。

崔の話に思わず引き込まれる自分の馬鹿さ加減に呆れていました。                「他にどんな商売やっているのか?」「取り立て屋だ。借金しながらつべこべ言ってドロンを決め込もうとする連中を見ると全く虫唾が走る。手形を不渡りにする常習者達も相手だ。本気で腹が立ってぶっ叩くこともある。借りた金は返す。それが当たり前だろう。なあ士郎」                                                                      この辺りになると小学校時代の正義漢崔朝栄そのままです。

「結婚はどうしたんだ?」「士郎。それよ。俺は悪いことをしたね。やっぱり嫁は朝鮮から貰えと諭されてソウルに行った。韓国語は全く話せないが日本で会社の社長をやっている朝鮮人2世という触れ込みでね。そうしたら韓国で大層由緒ある家柄の娘が紹介されてね。ついつい唯の金貸し業だとは打ち明けれずに日本に連れて来てしまった。全く悪いことをしたもんだ」こうなると崔朝栄は本当に無邪気です。小学校時代もそうでした。だから皆に好かれたのです。騙されて朝栄について来たその嫁さんもきっと崔に惚れてしまっただろう。

そうそう。朝栄と士郎、あの怖かった花田先生とも一番の仲良しになりました。

ところで肝心の大島東市からの脅し対策ですが「ヤクザは頭悪いからこんな問題は引き受けない。先ず金にならん話に出てくるわけがない。大島とやらは格好つけているだけだ。万一ヤクザが絡むなら警察への通報が一番。スネに傷持つ連中のこと直ぐに退散するよ」

別れ際崔朝栄「士郎も会社経営で大変だろうな。お前は夢を追えよ。何かあったら俺は士郎に命をかけるからな」と少し暗く呟いたように記憶しております。

確かに崔の見立ては確かでした。だが大島今度は別の角度から攻めてまいります。

その崔朝栄は10年ほど後命を落としました。崔朝栄を人違いしてチンピラが匕首で刺したのです。退院後彼と会った時は元気でした。肝臓に傷を負いましたが胴にサラシを巻いて動き回っているのです。士郎にシャツを開いて見せた白いサラシには血の滲みがあります。士郎が心配しますと事もなげに「時々少し出血するだけだ。そのチンピラの奴、人違いで刺した相手がワシだと知ってビルから飛び降り自殺しやがった」と。

その後暫くして同級生から崔朝栄の訃報が届きました。傷を負った肝臓が悪化して急逝したとの事です。全くなんという奴だ。

大島東市の話(その3)

その崔朝栄とは中学で別れて20年経っています。士郎がUターンで故郷に戻り赤ひょうたんの止まり木に羽を休めていた時舞鶴中学校の学年同窓会がありました。

顔ぶれの中に懐かしい崔朝栄の顏があり明らかに堅気と違う空気の崔が女性陣の注目を引いております。一緒について行った二次会の席でも酒が入り賑わいの中心に崔の姿がありました。この20年間朝鮮人2世としてどうやって生きてきたのか興味が尽きませんでした。

この再会からしばらくして「赤ひょうたん」に大きな身体を現しました。律儀な男です。派手な外車で運転手が「へいこら」して送って来ました。

中洲若子も崔朝栄を良く覚えており、崔が「お母さんの作ってくれたカボチャと小豆のいとこ煮は実に美味かった」というと崔をウットリ見つめながら「崔君の食べっぷりは小さい時から今も色気がある」などと訳のわからんことを言っています。

店の板前も崔の雰囲気に惚れ惚れして「崔さんは本当に士郎さんの幼馴染ですか」と侮辱的な言葉を吐く始末。崔、カウンターの中で小さくなっている士郎に目をやり「士郎、何かあったら何時でも俺を訪ねろ」と囁きました。

そんな事があって大島の呼び出しを受けた時、まず崔朝栄に相談することにしたのです。

赤ひょうたんに彼が姿を出して1年経っておりました。

天神の岩田屋で待ち合わせしました。親不孝通り近くの彼のオフィスマンションに向かって肩を並べて歩きます。小学校の時は士郎にとって兄貴みたいな存在でしたので一緒に歩を進めるとその懐かしい気分が舞い戻ってまいります。

がっしりした躯体から発する明るいオーラには野生的な匂いがあります。

世にイケメンで女性にモテる男は沢山いるが逞しい野獣の牡が雌を引き付けるモテ方は士郎の世界では余り目にしません。途中パチンコ屋から出て来た可愛い店員らしい娘も崔に嬉しそうに挨拶をします。朝栄の奴「この娘とも寝たな」笑って士郎に教えます。

大島東市の話(その2)

 崔朝栄と言う男がいました。士郎の幼友達で独りぼっちの士郎にとっての憧れでした。

母親は日本人、父親は韓国人です。博多港の縁、須崎という街のいわゆる朝鮮人部落に住んでいました。家は廃品回収業だったようです。お互い行き来して彼の母親には何度か会いました。優しい人で粗末な身なりに真っ黒に日焼けしたお母さんだったと記憶しています。

あの時代玄界灘を自ら渡って、或は日本の憲兵に拉致されて来た朝鮮人の若者に日本人の娘が嫁いで暗く重い物語を紡いでいます。大部分の在日は差別と貧困に打ちひしがれ、宿命を背負った2世の子供達もやはり苦難を強いられて差別の世を渡って行きました。孫正義さんもそんな絶望的な環境で不屈の精神を養ったのでしょう。

あの当時着物姿の艶やかな若子は際立っております。大名小学校では男の教師達、父兄たちの若子を追う目、そして同窓生から「綺麗なお母さん」との羨望の声を耳にする度に士郎気恥ずかしい思いをしました。

そして崔朝栄の母親を見ると何故か「いいなあ。自分のおっ母んもこうあって欲しい」と思うのでした。何しろ若子はその時28歳の年頃、おまけに花街で男を手玉に取る修練を積んでおりましたので男の気を引くのが女の勤めと心得ております。逆に士郎は若子に近寄る男たち、若子に取り入ろうと士郎に目をかける先生が堪らなく嫌でした。

子供というのはとても敏感なのです。

そんな境遇にあって崔朝栄は素晴らしい作品でした。良い男を測る物差しが学歴や経済力だけじゃ面白くないじゃありませんか。(それは同じ境遇から彫り出された傑作孫正義と対極を成すものであるような気がするのです) 

混血の具合が良かったのか崔はとに角逞しい身体で、小学生の時でもすでに士郎より顔一つ背が高く士郎がぶつかってもビクともしません。大きな頭、広い額、張り出した頬に二重の大きな目が優しく見開き厚い赤い唇で口は裂けるように大きかった記憶があります。鼻も高くはないが広く十分に釣り合いが取れていました。逞しい身体それでいて何時も笑顔絶やしません。

同級生には誰一人手を出しませんでしたが上級生であっても他所の学校の生徒にやられたと聞くと必ず仕返しに走り込み、それもひどい仕返しをして相手校に恐れられました。

頭は確かに良かった。小学校3年の時でしたか全校で知能テストがあってIQが異常に高かったのでしょう。教育庁から3、4人の試験官が寄越されて崔朝栄にだけ2度ほどIQの再確認テストが行われました。学校のテストでは目立つような成績ではありません。周りの生徒は余り気付いていないが士郎は崔朝栄はテストで手を抜いていると確信していました。士郎は崔朝栄をいつも観察していたのです。

小学校4年で担任がそれまでの優しい女性の永島先生から花田先生に代わります。授業初日「昼休みは45分だ」の声にこれまでの調子でついつい「チェッ」と漏らした士郎の声を聞きつけると直ぐに士郎を教壇に呼び出しいきなり平手打ちの洗礼です。

生まれて始めて大人の赤い大きな手が顔に迫りくるという恐怖におののいていたら崔の奴、今度は昼休みに入って軽く「セシボン・・」と流行りの洋画の唄を口ずさんでこれも呼びつけられ吹っ飛ぶほど強くぶたれました。

教室の隅で士郎と崔朝栄の二人、この恐ろしい花田先生との出会いを嘆き赤く腫れた頬を押さえて震えました。

崔は舞鶴中学から高校は修猷館に苦もなく合格しましたが色んな暴力沙汰があり中退してしまったようです。その後地元の新聞を賑わし何度か刑務所にも入りました。何時も相手は、ヤクザだったので刑務官から「お帰り」と仲間内にされる受刑者だったと聞きます。

   

大島東市の話(その1)

さて1979年の終わりに中洲士郎は粟本の突然の退任で第2番危機(再失業の危機)が無くなりました。

だが日本化学発光は半分死んでいたのです。9月から工場は閉じたままの状態。まさに今度は倒産の危機です。何しろ大島の注文少なく液漏れクレーム多く製造停止やむなしです。近所のパートさんにも辞めて貰っております。

大島は日本化学発光を破綻させて会社を乗っ取ろうとし、士郎側は「ケミホタル」を「ぎょぎょライト」に切り替えて大島からの決別を企みます。

当然大島は危機感を募らせます。大島もエリートじゃありません。工業高校卒で久留米の電気部品会社に勤めました。大手電気メーカーの下請けで会社も惨めならそこの高卒工員は更に希望のない毎日です。

美人のかみさんが美容師で街外れで美容院を経営、いわゆる髪結い亭主で頭が上がりません。だが大島何としてでもこのままで終わりたくない。世に出たいとの思いが人一倍です。

脱サラして小さな小屋に独立の夢を託します。選んだのはゴム製品の集積地久留米でクッションゴムという釣具の製造販売です。安全確実な起業だが稼ぎは微々たるもの。始末に始末の毎日です。その男が海の物とも山の物とも知れぬケミホタルに爪に火を灯して貯めた全財産を注ぎ込んだのです。

では当時何故ケミホタルが大島にとってそれほど有望な商材だったのでしょう。

前回もお話ししましたが釣り具は小さな元手で開業出来ます。道楽の釣りをやりながら釣れる道具を開発して起業する人も沢山います。中洲同様釣り師じゃない大島は陸で獲物を嗅ぎ回っていました。そして超敏感な光るウキ獲得にターゲットを絞り込んでいたのです。それに人一倍負けん気の小男、クッションゴムの集金の度に釣り具問屋に値切られて「強力な製品でいつか彼等に頭を下げさせたい」と歯ぎしりしておりました。

針や糸や竿やリールはその道の専門家に任せるとして少しだけ夜釣りの電気ウキの話をさせて下さい。

1976年に中洲士郎が初めて夜釣りした時の電気ウキは松下電池の「サンライズ号」となります。単三マンガン電池の豆球が光源で夜釣りウキの定番でしたがこのウキでは人気沸騰中のチヌ釣りには使えません。そこで敏感な電気ウキの開発競争が巻き起こったのです。中洲が市場に参入した時はユアサ電池の海水電池を使った「銀ピカ」が松下電池を逆転していました。さすが松下、今度はリチウムピン電池を開発し発光ダイオードとの組み合わせで(軽くて明るくて球切れしない)「パナフロート」で勝負を決した時だったのです。松下幸之助はこの勝利に異例の社長賞を伝授した程です。

このリチウム電池だってアポロ計画の産物というじゃありませんか。これを直径2mmという米国の発明元も信じられない細さにして何と夜釣りウキに使うなんて日本人しかできない事業です。1979年7月発売のソニーウオークマンでも基本技術は全て外国でした。1979年のケミホタルの発売も負けずによく似ております。そしてこれ等3社は何と象徴的な存在でしょう。技術の視野がド広いソニーとド狭い松下そして父なし子で空に飛び出せない「びっこのアヒル」の日本化学発光です。

史上最強の「パナフロート」には店も釣り師も松下に頭を下げるだけでした。そんな時に恐るべき競合「ケミホタル」の登場に松下電池はビックリしました。パナフロートの唯一そして最大の欠点は釣り人がこだわる独自のウキの頭を光らせることが出来ないことです。釣り人はケミホタルの出現に喝采を上げました。ケミホタルを握った男大島は夢が叶い溜飲を下げます。

早速大手メーカー数社が動きました。米国のACC社にもオッファーを入れます。しかし「化学的にも発光できない」「物理的にもアンプルの製造は不可」「世界中誰にも技術譲渡はしない」との返答を得ます。従って大手メーカーのエリート社員は日本化学発光は特許違反しているからもうじき消えてしまうとの報告を上げたのです。しかし国内外の更に多くの男達が早速市販の「ケミホタル」を分解します。「人に出来ることは自分にも出来る」筈。だが皆原液の謎に頓挫してしまうのです。しかしその秘密の鍵は社外で大島も握っていました。「憎っくき中洲を倒すために他の相手との共同開発もありだ」と蠢(うごめ)きます。

「誰よりも早くACC社と契約に持ち込まなきゃ」と中洲は狙いを定めました。

当のACCは民間で売れないサイリュームが兵隊のいない日本で何故売れているのか不思議に思っていました。

勿論ケミホタルが出現する前から大会社で調査得意のエリート達は化学発光に着目していたかもしれません。だが誰一人栗本の様に自分で手を動かしませんでした。更にはACC側への姑息なオッファーの回答を鵜呑みにするのです。矢張り特許と法律の壁でしょうか。ここに大会社とエリートに共通の弱みがあるようで素寒貧起業家の狙い目は今後もこの辺りにありそうです。

身体を震わせて美味い餌に食いついた矢先、中洲士郎の奴が口から獲物を抜き出そうとします。

「この野郎。許しおかん。ケミホタルは俺の命だ」と叫ぶ大島東市です。1月のある日、遠賀工場の電話に大島の凄んだ声がありました。

「今自分の机の前に男が座っている。直ぐに顔を出せ」と。                              やって来た、やって来た。さあどうするか。

余話(その1)

2006年若子の「赤ひょうたん」が閉じられて3年経っております。

前の年に福岡県西方沖地震があって士郎は「赤ひょうたん」改修と若子が残した銀行借り入れ返済に追われておりました。

そんなある日のこと白馬のママと出会ったのです。その男がいい男かどうかは連れの女を見れば解るものです。

逆にいい女かどうかも連れの男で解ります。

近頃の水商売の女性にあっては「白馬のママ」は際立っていい女でした。物静かで結った髷から推し量ると見事な黒髪が腰まで届いていたでしょう。

色白で小振りで何時も品のいい着物を着こなしていました

そのママが別人のように憔悴しております。中洲士郎に「正一さんが死にんしゃった」と一言。目に涙を溜めております。

その後ママは中洲から姿を消したようです。

あの白馬のママを引きつけた深田正一はきっと心優しい、いい男だったに違いありません。

有田のF社で研究所長に栄達していた栗本も深田の他界に合わせて会社を辞めたとの噂がありました。13代深田正一も気鋭の研究員栗本も伝統の焼物稼業にあっては異才は不要とばかりに忘れ去られているようです。

深田正一は別会社でファインセラミックスを立ち上げるとか栗本はF社を辞めて日本化学発光に馳せるとか共に温室を飛び出す勇気があれば苦しいが面白い人生が開けたでしょうに。

悔いを残さないために勇気が必要だし妖精の声に従ってイバラの方の道を選べば奇跡が起こるのです。

(なーに中洲士郎には捨てるものが何もなかっただけじゃないか)とは妖精の声。確かに。

ケミホタルの話(その21)

そろそろ長いケミホタルの話もお終いです。

中洲士郎の離脱表明から3ヶ月経って突然の栗本の呼び出しが有りました。博多駅前のサンプラザホテルのロビーで役員会を開くというのです。

そこで栗本が直ぐに口を開きました。「本日、自分は日本化学発光役員を退任する。自分達の持株の名義は全て中洲士郎に無償で移す。その代わりこの書面にサインしろ」

書面は今後何事が起こっても一切栗本には関わりがないとの承諾書らしい。株式代金の振込は大島からの裏金だから中洲士郎に全責任をなすりつけたことになる。栗本は何か笑いを秘めている。(日本化学発光は中洲士郎の手で倒産する筈)との読みがあるのだろう。大島の邪魔が入らない新会社を有田に作るのか?土海と藤本を見る栗本の目に何かが感じられる。士郎が信頼した二人と栗本が思い込む二人は違っているかもしれない。

別にどうでもいい。何とかなるさと判断して「分かった」と答えました。         互いに署名捺印を終えて栗本は喜色満面です。

元気良く去る栗本の後ろ姿を見て何か気の毒な気がしました。残った三人は会議を続けます。

いつもの通り喋るのは中洲士郎一人です。

「創業者土海、藤本、福井、中洲士郎4名の持株は平等。一人20%以上は株を持たない。20%は金庫株。中洲士郎、土海、藤本三人が代表権を持ち社長職は当面中洲士郎が取る。土海がS製作所を退職して日本化学発光に就職したら社長を土海に譲る」

この提案に三人は同意して会議は終わりました。

この3ヶ月の間土海と藤本に栗本からどんな働きかけがあったか、大島が栗本に何か脅しをかけたかも遂に聞いていません。泡喰ったのは栗本でしょう。自分が辞めた後誰も自分に付いて来ない。暖簾も捨ててしまった。それだけじゃない世界初のケミホタル開発者の栄誉も暖簾と一緒に捨ててしまったのです。

その後関東や台湾や韓国でコピー品が出現しいずれも栗本の関与が疑われましたが結局老舗を超えることは出来なかったのです。

士郎は実のところ栗本が好敵手であり恩人だから戻るなら何時でも門戸が開いていると口づてに伝えているがあのキラキラ光る目の野心家は40年経った今でも一向に姿を現しません。まだ猫の避妊パンツなど考えているのでしょうか。

以上が中洲士郎を襲った13番危機の第2幕です。

中洲士郎は人生70年有余自ら人を陥れた記憶はありません。が若しかして「人が士郎を裏切るように仕向けたのでないか?」とエンマ様に聞かれたらこう答えよう。

「ごめんなさい。士郎はイカサマ師なのです」

栗本が士郎を騙して逃げた後士郎が体験した11の危機をこれから栗本に話して聞かせます。登場するのは皆栗本や中洲と同じ「びっこのアヒル」です。沈むまいともがく群像劇でした。

ただ一度の人生、何としてでも世に出ようと焦った栗本。夜、家で独りガラス管を焼いて細く引き伸ばしサイリュームのアンプルの液体を口で吸い込んで両端を溶封し今度はパラフィン紙を箸に巻いて溶着してチューブを作りそこにサイリュームの蛍光液と先程のアンプルを入れ蓋をします。出来ました。小学生の様に小躍りして暗い表に出てチューブを光らせ50メートル離れても輝くホタルに見惚れていたのです。同時にその光がフツフツと野心をたぎらせ判断を狂わせました。

だからケミホタルに発明者がいるとしたらその栄誉は栗本に与えましょう。いいですね閻魔大王様

そして「栗本!未だゲームは終わっちゃいないぞ」

この年の12月ソ連がアフガニスタン侵攻を開始しました。

ケミホタルの話(その20)

ケミホタルの話を長々続けております。化学発光という言葉が何度も登場しました。ローハット博士もです。そこで化学発光とは一体何ぞや?について読者に分かりやすく説明させて頂きます。

学校の先生だったら無理やり小難しく話して士郎のような生徒に劣等感を植え付けます。

だがこの物語の作者はそうはいかない。偶然このブログを開いた読者に逃げられたらお終いです。

早川書房に偉大なアイザック・アシモフのノンフィクションシリーズがあります。博覧強記のアシモフは物理や化学や天文学それに生物学や医学など色んな科学のテーマを必ず時系列で説明します。人類の発明発見をそれこそ玉ねぎの皮をむくように解き明かすので落第生の老兵にも理解できるのです。そこでアシモフ先生に倣って化学発光を説明してみます。

1964年米国で新しい化学発光現象の発見がありました。それはベル研究所でチャンベルさん(現存)がシュー酸クロライドという暴れん坊の化学物質をいじくっているうちに発光することを偶然発見したそうです。チャンベルさんは面倒だったのか特許を申請しなかったので金儲け出来ませんでした。しかし後になってチャンベルの発見が化学に新しい領域を開いた事がわかったのです。それは興奮状態にある化学物質が安定状態に戻る時エネルギーを放出するという従来の化学反応と違う励起化学という新しい化学領域でした。近年になって蛍やおわんクラゲの生物発光の研究で人類は貴重な財産を手に入れましたが出発はチャンベルさんの発見でした。

さて米国の1960年代は英国の産業革命に匹敵するアポロ宇宙開発の真っ只中、発明発見が相次ぐ米国は科学技術開発の絶頂期でした。

一方でベトナムに足を突っ込んだ米国国防省は新兵器開発に余念がありません。こんな発光体がどうして口蓋に乗るアポロ計画と関係がありましょうか。宇宙船で使うもんじゃない。当然ベトナム戦争での対ゲリラ戦小道具です。国防省はキャンベルの発見を受けて実用的なホタルの光の開発を予算化します。名目はアポロ計画だが実際はゲリラ戦の過酷な条件下で使用できる照明器の開発でした。ジャングルに潜む敵には見えないが味方にだけ見える光(IR発光)も必要です。

それですごい額の国家予算がおり米国大手化学メーカーがこぞって開発競争に参加しました。多分真面目に取り組んだのはACC(アメリカンサイアナミッド社、老兵の青春の憧れ)のローハット博士チームだけでしょう。

暴れん坊のシュー酸クロライドを手なずけるのに6年の歳月を要しまた。そして生まれたのが最高傑作の反応物質CPPOです。それだけではありません。必要な時に簡単に発光させられる照明器具「サイリューム6インチ」を作り上げました。こういう基本形を作り得たのはローハットが研究者にしてアーティストだったからに違いありません。そのローハット博士も晩年はケプラン事件*で不遇だったようです。(*化学発光の話で展開しましょう)

CPPOとはビストリクロロペンチルオキシカルボニルフェニルオキサレートの略称です。これは暴れもののシュウ酸クロライドに重い化合物を両側にガチャンと繋いで安定化させた物です。1970年についに合成が成功しました。CPPOをオキシフルより少し濃いめの過酸化水素で分解しこの時発生するエネルギーを溶けた蛍光物質が目に見える光に変えるのです。蛍光灯の機能を化学的に起こす様なものです。ここに人類は初めて人工的な蛍の光を手にしたのです。世界特許の一部は米国政府との共有となりましたが製造技術と必要な原料は全てACCが抑えたので世界中誰も真似できない代物となりました。米軍兵士には皆支給されて使用期限が過ぎたライトスティックで遊ぶ兵士のことが巷に漏れ聞かれたようです。

そして1976年モントリオールオリンピックの開会式で世界に衝撃のデビューを果たします。

折り曲げて光る緑の光に誰もウットリし化学に関係する人は今まで知らなかった新しい励起化学に引き込まれました。

サイリューム6インチが出現した。1970年

同時にこの光を盗んで一儲けしようと企む山師が世界中にその数10名程出現したのです。その中で小分けを企んだのは中洲士郎只ひとりでした。ローハットの偉大な発明を前にして新しい化学発光を発明するなどあり得ないことだったのです。たかがケミホタルに発明などの冠はおこがましくって40年間封印していたのはそう言うわけでした。

ケミホタルの話(その19)

その数日後9月のある日、山部興産という栗本が懇意にする博多駅南の会社から中洲士郎呼び出しを受けます。少しいかがわしい筋の会社でしょう。会議室に通されました。こちらは士郎一人相手は7、8名と大島です。

慇懃な挨拶から一転「お前何か謀反を企んでいるらしいな」「一体何のことだ」「シラばくれるな。新しい発光体を開発したそうじゃないか」

大島に目をやると済まなさそうな顔をしている。

「大島が見たと言ってるぞ」「あれか。あれは冗談冗談。大島をからかっただけだ。なあ大島」「お前は粟本が言うように山師だな。覚えておけよ」

長居は無用とばかり山部興産のビルを出ます。大島も一緒に出ました。

「他言するなと言っただろう。これで計画はおじゃんだ。栗本を救うのが難しくなった」と大島に告げると大島はうなだれています。

(ヤッパリ秘密を漏らしたな。小商人の大島の奴、自分の商権が危うくなりそうだからこう動いてしまった)本来の作戦では打倒栗本ではなかった筈だが事態は決別に向かおうとしています。

その足で遠賀のアパート工場に戻ると土海と藤本も居ました。

経緯を話したが二人からは何も反応が有りません。それからもずっとそうでした。経営上に問題が起こると二人はどんな局面でもまるで反応しないのです。暗黙の了解と解すしかありません。

その日は念のために新たに開発した機械類は藤本の家に移しておきました。     程なくして栗本が血相変えてやって来ます。

「どうしたのだ?」

「今、折尾警察署に行ってきた。会社役員が装置類を盗んだので被害届を出したいと相談した」「それでどうだった?」「もう少し冷静に対処せよと諭された」

2軒目のアパート(通称第2工場)のブルーシートを敷いていない部屋の畳に座って栗本と士郎二人で話し合います。

「じゃあ俺は会社を去ろう。税理士もあんたに言ったようにルミナスプロジェクトの経費30万円は設立準備金として経費処理する。そのうちの15万円は株式購入代金としてあんたに払わせて貰いたい」

栗本は士郎の提案を拒絶します。

(会社は初年度僅かの売り上げで大幅赤字が確実。それに大島商会とは面倒な問題を抱えている。中洲士郎がいなければどうにもならないと考えたのでしょう) 

改めて役員会を持つことで話し合いは終わりました。

話の途中で、身を引くと言ったものの、俺には土海の技術がないのだ。あんな電気回路なんか組めやしない。土海と藤本がいなけりゃどうなるだろう。そんな心配が頭をかすめました。

 

ケミホタルの話(その18)

装置の置き場にも窮し隣のアパートも借りました。ガラスアンプルの製造が始まってケミホタルは一貫生産体制となったのです。

アンプルの首が数ミクロンと極細になっているのは酸化液には過酸化水素が含まれるので発火し易く溶封が難しくそれでガスで一瞬に溶封する為に首を細くしているのです。じゃあどうやって酸化液をアンプルに詰めるのか?真空置換です。常識といえば常識ですが注入後の遠心分離やピンホールの選別も含め課題と方法模索の繰り返しでした。

どんな発明も現物を見れば必ずコピー出来ます。この可燃性液体を封入する超小型アンプルの世界最初の発案者は有田の3人の技術チームでしたが結局彼等には栄誉と報酬が付与されませんでした。いつか機会あれば彼ら3人を讃えたいものです。

極小アンプル製造に携わり先ほどのピンホールフクシン検査も含め会社には沢山のノウハウが蓄えられこれが競合の参入を防いだのです。先発者は先に失敗して問題を修正できますがコピー者は秘密の罠で市場からシャットアウトされるのです。「やっぱりケミホタルや」となりました。

次は大島型のケミホタルから新しい形状への挑戦です。ここは専ら士郎の役割でした。化学液と反応して使えない筈のナイロンチューブを特殊な前処理を施すと使える事を発見し、そのチューブの両端を丸く溶封してワンピース成型にするという誰も思いつかなかった成型方法を開発しました。

サイリュームの発明者のローハット博士もこの成型方法をいたく褒めてくれました。これが現在の世界中の細物発光体の定型となっております。

ぎょぎょライトが完成しました。

相場の格言に「人の行く裏に道あり花の山」とあります。技術開発もそうです。定説であっても疑うか検証するかが必要ですね。

ぎょぎょライト開発は小さなチャレンジでしたが、その頃中村修二さんが日亜化学で青色LED開発でまさに裏道を悪戦苦闘し登っています。その行く手にはノーベル賞が待っていたのです。

さあこの新型ぎょぎょライトを武器に勝利を収めるのです。

ここで当時の会社経営状況を分析してみます。日本化学発光は士郎同様出生に問題がありました。嫡出子じゃないのです。起業とはまず投資家即ちステークホルダーが存在するが日本化学発光ではそこが不明でした。一応資本金300万円ですが原資は大島から粟本に裏で渡された500万円から出ています。その株の大半は栗本とその親族が所有。となるとそれは株主個人の借入金です。

だから士郎は栗本に自分の株の代金15万円を返済しました。(実際はルミナスプロジェクト経費30万円との相殺です)

営業面では大島が仕組んだケミフロート抱き合わせ販売でケミホタルの売上が伸びずパートの給料支払いにも窮しております。保証協会を通してもメインのS銀行は僅か300万円の融資も引き受けてくれません。

滅多に出社しない栗本を捕まえて大島から受け取った金の返済を問うと「返す筋合いはない」独占販売の理不尽を問うと「大島には少しだけ売らせとけばいい」これでは近いうちに問題になるだろう。大島のことだ。栗本を脅すことが起こるかもしれない。ここはどうする。

新しい会社を立ち上げるのはどうだろう。

このような状況ではそう考えて当然だが士郎には不思議とそのような選択肢が起こりません。本能的に「錦の御旗」を担ぐ方を選択します。打算的な選択とも言えます。

ここでは日本化学発光を守るのが正義となると思いました。

そこで事はこう言う具合に進んだのです。

大島に対して現状では会社が存続出来ない。大島の販売能力、販売方針ではケミホタルの普及は難しい。改めるべきだ。それに対して大島は栗本との間で交わした証文をちらつかせます。そこには500万円でケミホタルの販売権を買ったとあるのです。

「実は大島、今度新しい発光体ぎょぎょライトが完成した。それは全ての浮子に取り付けられるし漏れの心配が無い構造だ」大島顔色を変えます。

次に卑屈な笑いで「ちょっとそれを見せてくれないか」

細長い澄んだ飴色の美しい外観から緑の光を発し大島それに見惚れました。

「近いうちにその生産ラインを栗本に開示して彼の反省を促す。それまで他に漏らせば争いが起こる。だから他言は無用だ」と

中洲士郎が大島に釘を刺すが・・・

ケミホタルの話(その17)

さて土海は棟方志功が「ねぷた絵」を彫っているような格好でずっと回路図らしきものを書き続けてはリレーをいじくっております。

士郎は又もや蚊帳の外、やることないので仕方なく断熱煉瓦を削って電熱炉をこさえ細いガラス管加熱し延伸する窯をこさえました。何しろ士郎は窯業専門家の筈ですから2人に負けじと技を披露します。ガラスを溶かすには熱量が低いこの方法は飛んだマヌケで全く役に立たず2人の「笑いもん」になりました。ひどくいじけました。

作業に入る前土海の要望を聞いてエアー作動の部材を購入しております。

エアーシリンダー、ソレノイド、タイマー、リレー等です。生まれて初めて接する「魔法の部品」に何だか気持ちが高揚しました。

卒業後本当はやりたかった技術屋の道です。さてそれらの部品が「変な奴」藤本の組み上げるアングルの架台に組み込まれて装置らしきものが姿を現します。  リレーボックスから夥しい電線が装置の各部に接続されました。

「大丈夫動くのだろうか?」固唾を呑んで土海の「よし!」と発する言葉を待ちます。

土海がスイッチを入れます。

ガチャガチャ騒音を発しながら直に装置の動きが停まりました。それから待つこと1時間。再開するが結果は同じです。「寡黙の男」は又もやブルーシートの上で回路図を見直しては考え込みます。それも去年のカレンダーの裏面に鉛筆で書かれたものです。

今ならシーケンサーというマイコンが普及しているから回路の組み込みも楽だが当時はタイマーとリレーでシリンダーを動かすので装置を上手く作動させるのが難しい。

結局そ日は諦めて翌日の日曜日再開することになりました。

土海独り悪戦苦闘、午後になって「よし」と一言寡黙の男。                              スイッチが入りました。

2mの細いガラス管の端をチャックがつまみ2cm引き出す。ガスバーナーの火口がガラス管の下に来て2秒ガラス管を加熱、火口が戻ると左側のチャックはガラス管を固定し右側のチャックが2cm右に進む。すると赤熱したガラス管が伸びて細い首になる。今度は左チャックが開き右チャックが3cm右に進んで火口は5秒留まりガラス管を焼き切る。すると右チャックが開いて首が繋がった2個のアンプルが下に落ちる。

この動作の繰り返えしでみるみるアンプルが出来上がって行くではありませんか。

人生で滅多に味わえない感動がそこにありました。

畳に敷かれた皺くちゃのブルーシートの部屋、それは士郎にとっての桃源郷に映ります。

「変な奴」が両手を左右に伸ばしながら部屋をうろついていたのはパートの手作業を装置にイメージしていたのでした。藤本は士郎が切り出すアングルを実に器用に組み上げて部材を組込み装置に仕上げております。

「参った参った」土海と藤本この二人、凄いやつだった。

これで会社は何とかなるだろう。一生二人を大切にしなければとその光景で思ったものです。それからは士郎も面白くなって装置の開発を手掛けます。