釣り具での販売は契約書は改正されたものの大島に任せているので市場の様子が伝わりません。それで中洲は独り小売店や専漁問屋を訪問します。どこもケミホタルの社長が来たと言うので歓迎してくれました。大島は威張るのが好きでセールスは不得意のようでした。
寒さが厳しい時節でも北海道向けの出荷が落ちません。5°C以下になれば「ぎょぎょライト」は光らず使い物にならん筈だがと訝しんで札幌に飛びました。1980年の暮れです。
「お客さん何処から?」「九州福岡から」「どんなお仕事?」「まあ釣り具ですね」「私も釣ファンだけど。竿かリールですか?」「いや。ぎょぎょライトってつまらんものこさえているの」「何い。ぎょぎょライト!それが手に入らないから困ってるのよ」「娘さんいるならぎょぎょライトのイヤリング上げよう」喜んだ運転手さんタクシー代サービスしてくれました。タクシーに只で乗ったのは生まれて初めての経験です。それも何故なのか訳わからずです。
着いたのは札幌駅前の大型釣具店のアメリカ屋さんです。そりゃ当時は日本一と言っても過言でない規模と売り上げのお店でした。
驚いたのは「ぎょぎょライト」がお店に並んでいないのです。聞くと「品が足りないのでお得意さんにしか売らない。売るときは新聞紙にくるんでこっそりと手渡す。店頭に置くと直ぐに全部買い占められてしまうから」と。
話を聞いてその足で小樽の大島が卸している佐野商店さんを訪問しました。「大島からすんなりと品物が入らず困っている」と。
親父が小樽港の堤防を見学に連れて行ってくれました。
「あの左の暗い半分はぎょぎょライトが手に入らない札幌の釣り人。右の竿先が光っている連中は小樽組。皆3~5本の置き竿。ぎょぎょライトが付いた竿では大物釣れているが光が無い連中は車の中で寝ているの。可哀想に夜が明けなきゃ釣りが出来ません」釣り具小売店はぎょぎょライト確保が死活問題だったのです。大島の奴めと歯ぎしりしました。
こんな状態でしたから水面下で「ぎょぎょライト」コピー作戦が進行し翌1981年2月に「ちびピカ」の出現です。恐らくアンプルで栗本が原液のカラクリで大島が暗躍したようでした。但しチューブの溶封技術が分からず商品としてぎょぎょライトのレベルには達しておりません。
1982年4月には日本化学発光直販を大島商会に通告し大きな補償金を支払います。その大島東市はその補償金で喫茶店を開いたようでしたが矢張り化学発光から離れ難く結婚式の光る液体の演出を始めました。神事「水合わせの儀」を化学発光で幻想的に演出させたのは大島東市です。日本化学発光を退職した数名も一緒にこの事業に携わり競合相手と成りました。しかし結果は日本化学発光を利するだけでした。彼も(びっこのアヒルの群像のひとりとして)40年間懸命に水を掻いて化学発光に歴史を刻んだのです。
これで「大島東市の話」は終わります。
再失業の危機を偶然乗り切った「第2の危機」なら会社出生の弱点が「第3の危機」で克服し解消されました。だがその代償で「第4の危機」を迎えるわけです。これを1981年からの物語として「青山紀夫の話」に述べます。これは米国ACC社と独占契約を勝ち取って危機を乗り切った面白い話です。
会社創立2年目の1980年も初年度同様大変でした。社会では5月にはモスクワ五輪のボイコット9月にはイラン・イラク戦争が勃発し日本化学発光同様揺れ動きました。