サイリュームの話(その5)

先日老婆(ラオポ)からメッセージがありました。

「ちょっと福岡に行ってきました。に出てから知人達数人からルミカの会社名分かって知らせてきました」と。意味不明、一目置く達筆で文章家の婆さん(福岡に何しに行ったんや?)少し耄碌したなと放っておきました。

ところが数日後「会社の社長ブログで中洲士郎のプロフィールどうにかなりませんか🥲」の本文に気がついて(そうか中洲ブログが婆さんの知人に読まれたのか)「ちょっと福岡に行ってきました」はテレQの突撃取材に中洲がお調子に乗って出演した番組だと分かり文脈が繋がったのです。彼女の知人がテレQの番組見てルミカのHP開き中洲ブログに辿り着いた訳ですね。

例のプロフィールですが、これにも深謀遠慮の策が込められている事、未だ老婆(ラオポ)にも明かすわけには参りません。ただこのプロフィール、少しチャラ過ぎるなとは思っておりました。それが先日のことです。(チャラくていいんだ)と自分を納得させる出来事があったのです。

9月5日の事です。かの著名人青山学院陸上部を世に出した希代の戦略家原晋監督と対談する事になったのでした。箱根駅伝で日本中を歓喜させるあの原監督です。

「ここから変える」と言うタイトル、打診いただいて未練もあって強く断われず原晋監督を当日会社にお迎えする事になってしまいました。

ご当人は爽やかなスポーツ紳士で惚れ惚れする男前。ああ生まれて世渡り出来たらねえ~。女性にモテるやろうな~。

話し出したら止まらない中洲士郎、まあ一日盛り上がりました。原晋氏は乱世の雄、戦術家としてスポーツ事業の表舞台に登場しスポーツ界の常識を打ち破りました。そうです、監督仰る通りいつの頃からか日本の至る所「覚悟」が失せております。特に政治と産業界に。その強烈な覚悟は隠しおいて自らは「チャラい人間」としてメディアで演じられるところ,これこそまさに中洲が憧れる処世術です。威張りたいだけで覚悟のない連中を笑っておられます。

対談の相手にゾッコン憧れられて原監督、楽しく「ちょっと来た福岡」を後にされました。 (我は木偶(デク)なり。ただ踊るだけなり。諦めずただ無心に。原監督に触発されて)

そんなわけで老婆(ラオポ)に悪いが当分ブログに中洲のプロフィール留めおきます。

そりゃあ「ケミホタルの話」から始まる中洲の起業物語は人ごとの様に面白いですよ。しかし今思いついたんですがねえ原監督、それにライターの池田さん(これがまた当節の女優さんも3尺下がる程の美貌で)、このサイリューム6インチの秘話の方がもっと面白い。化学史上20世紀最大の発明品、ベトナム戦争で米兵達の命を救うべく世に出たのですが。そこかしこの沼地に斃れた兵士の胸に美しく化学の花が光って咲いたのでしょう。兵士たちを憐れむべく。

ベトナム戦争で

「このサイリュームが1976年モントリオールオリンピックで世にデビューするや中洲を含む20名程の「びっこのアヒル達」がこれに目を付けました。繰り広げられた争奪戦で数奇な運命を辿った「サイリューム物語」をモノにしませんか?スピルバーグも映画化を狙ったがこの中洲士郎と言う語り部がいなかったので実現しませんでした。どうでしょう原監督」

と口が滑ったのですが若しも今オッファー受けたらえらい事、アイパオでどうにも身動き取れないのです。そんな事情で用心のために「サイリュームの話」そろりそろりと復活です。

ClO2ピュアソリューションですが毎日中洲を実験台にして使っております。何か困った時は試してください。次回はピカイチの発明品、ClO2多目的洗浄器の裏話です。

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何気ない一日(その87)カジワラ君の話(その1)

5月30日の平日の昼間に高校の仲間の集いがあり仕事をサボって参加しました。半数の10人位は医者で皆風格がありました。場所は久留米のK医師の自宅の広い庭でのBBQです。

今日は中洲士郎の悲しい高校入学の話をさせて貰います。中洲は貧乏の母子家庭で修猷館九大以外に私立などの選択肢は有りませんでした。それが人生最初の競争に敗れてのF高校進学。

高校巣立って60年の仲間たち

そもそも親友のシオカワ君が「F校というのが久留米にあって難関らしい。試しに受けないか」との誘いに乗ったのが狂いの始まりでした。共に何なく受かったけれど公立受験日が近づくにつれて不安が頭をもたげて来ました。実は中洲、急速充電みたいな受験勉強で本当の学力はついていないのです。結局滑り止めに母親若子にF高校入学金5000円納付を頼みました。そうしたら中学の同級生合格者のうち入学金納めた3名が修猷館落とされてしまったのです。これが挫折の人生の始まりとなりました。私立なんか行けやしない。だから入学金払うのは無意味だと悟るべきだったのです。

他の2人は実家が病院で結局医者になったので賢い選択だったのかも知れません。中学の友達は中洲を残して皆修猷館に合格して歓喜の日々の中、不合格の中洲を顧みるもの誰もいません。唯一、若子の旦那が高校にかけあって「士郎は入試の合格点は取っていた」と。士郎を慰めるための優しい心遣いだったのでしょう。

落胆の登校開始の中、授業料と通学費で若子の負担が重く出直し受験にも思いが走っていました。ここは心機一転3年後の九大挑戦に頭を切り替えるべきところでしたがそれを諭す親も先輩もいません。実を言いますとアッちゃんと同じ高校に通って九大狙うのが夢だったのです。その後の風の便りでは才色兼備の彼女、男子生徒達の憧れで全校トップの男子生徒と恋仲になったとの噂、そんなのを目の当たりにしなくてよかったとも。まあそんなんでいじけた高校3年間でした。

その暗い高校生活にあって友達は皆誠実で優しく学業も中洲士郎より優秀で尊敬しておりました。その後の人生で不本意と思っていたこの高校3年間が静かで尊い日々であったことと得心する事になります。そんな思いがよぎる中、高校出て60年、戦いの日々を勝ち抜いて功なり名を遂げた筈の友人達を嬉しく眺め回していました。

社会に出てまともな道を歩かず未だに泥沼で悪戦苦闘しているそんな中洲の姿を「羨ましいな。定年がないし。国立大学医学部の教授をしていても定年迎えりゃ只の浪人。私大にポジション得るのは有力者の引きが不可欠でそりゃ忖度の辛い人生だった」とも。そして「耳にする訃報の数々。3年後平均年齢まで生きりゃ同輩の半分はこの世にお別れしてるんだ。こんなもんで人生のゲーム終了か?」とも。死ぬまで忖度しての猟官運動とは。側から見る威厳のある人生と実態はかなり違いがある。同窓という仲間意識が素顔を見せて本音をさらけての束の間の楽しいひと時です。

「誰かカジワラ君ってF高入学してすぐに辞めた生徒覚えていないかい」これも医者のM君の声が耳に入った。一様に「そんな子いなかったよな」その時中洲の脳裏に鮮やかに蘇ってきたものがある。(あの時のあの生徒、確かカジワラと言ったな)そこで「中洲が知ってるよ」と。一座の好奇心に満ちた眼差しの中でカジワラ君の話をすることになりました。

アイパオの話(その64)

数少ない読者の皆様どうぞ今年も中洲の下手な作文にお付き合い願います。

先ずは「我ら穀潰し軍団」改め「年取っても青年タイ」の北国侵攻の様子が今年の第一報です。それはお屠蘇気分が抜けない正月5日に始まりました。

8、9、10の3連休に一年中で一番楽しみのスキーツアーを画策していたコムロチームに中洲士郎悪魔の呼びかけ。社内で誰もが認める一級アーティストのオノデラと企画のマオ、この2人はスキー諦めて中洲の札幌プランを手伝えと。コムロチーム内に激震が走ったようです。

どうぞ次のYouTube でオノデラの作品見てください。

ついでに昨年のナカスジ君の動画も

この一年でワカサギアイパオはここまで進化しました。そしていよいよ中洲イカサマ節の出番です。

見よ日本の若者たちを。

世界のスポーツ界、芸術芸能界、文学アニメ界に堂々冠する勇姿を。それに引き換え政治と行政と企業はバブル弾けての30年、コロナパンデミックの2年間、手も足も出せないでいる。この間に世界市場はGAFAとテスラに蹂躙されて日本企業群はもはや諦めの体をなしているではないか。

原因は簡単、腑抜けの社長族が悪い。社員の尻を叩いて他社の真似してでも直ぐに成果を上げろと喚き、役人と組んでは規制を利して既得権に胡座をかく。もう少し日本の若者たちの真摯な努力に見習うべきではないか。

時価総額1兆ドルのテスラを見よ。

ついこの前まで中洲同様のスカンピンだった。小銭を作りリチウム電池の電気自動車を手作りした。当時車載用リチウム電池が無かったから東芝ダイナブックの廃品電池を大量に組み込んで動くことを示した。それで市場から金を集めて瞬く間に世界一になった。しかし電気自動車もパソコンの軌跡を辿って10年後テスラの姿はないかもしれない。とにかく世界は激しく変化を続ける。

世の成功者の軌跡を自らに取り入れればこれから20年で日本は産業界にもスポーツ界のような輝きを取り戻す筈だ。

だから「明日のテスラ・アイパオに乞うご期待」淡雪のように直ぐ消え去る夢であっても。

花塩

博多の中洲と言えば歓楽街の代名詞。その那珂川の川べりに人形小路と呼ぶ路地があって十数軒の主に居酒屋が静かに軒を連ねております。中洲若子の店赤ひょうたんはその人形小路の入り口にありました。

中洲士郎は独立起業の夢に燃えてよりもサラリーマン人生の先が見えて尾羽打ち枯らしての帰郷でありました。母若子の店の軒先1坪を借りてケミホタル起業迄、握り飯を売って何とか雨露をしのぐことに。立ち飲みコーヒーも置きました。

隣のロクさんや川田の女将さん達が店の客が入れ替わる8時頃になると路地の暗がりから姿を出し「元気ね」と声を掛けてくれます。店は格好のコーヒーとタバコの休憩場所になりました。その一杯のコーヒーに50円を浪費して士郎を援助する常連客に割烹「一富」の大将がいました。小さな店で丁場では女将と二人、「もう息が詰まったあ~。たまらんばい」とその表情から読み取れます。人形小路で大将って言えばだいたいこの親父です。小柄で口数少ないが何時も優しい笑顔を真っ白の割烹着で包んでおりました。

ケミホタルを旗上げして赤ひょうたんを飛び出した後、時折「かげやま」と「一富」に顔を出しました。数年して一富では青年が一人板前の見習いとして加わります。板前には少し心許ない紅顔のその青年を大将が「倅だが・・・」と。「この厳しい板前の世界で大丈夫かな」大将と同じく心配したのを覚えています。

あれから三十年。このコロナで看板下ろす店が多い。それでふとその一富が気になり覗いてみることに。ついでに同僚を誘い出しました。

ネットで6時開店8時閉店とあるので6時少し前人形小路に足を踏み入れプラプラ歩くと一富の店の玄関口に紺色の作務衣をまとった初老の男が屈んでおります。見ると玄関口に塩を盛っておりました。花塩とか言って客商売では開店前のしきたりです。その親父振り向いて「やあ士郎ちゃん」それで「入るよ」って一番奥のカウンターに掛けて同僚を待ちました。

「大将、久しぶりだけど女将さんもう店に出ていないの」暫くして大将が「士郎ちゃん、俺は息子よ。親父も母ももう死んでいないよ・・・」だけど店内もメニューさえも全く昔のあの大将の時代のまんまじゃないか。聞きました。「一富うどん!〆には必ずそうだったよね」「あるよ。二杯か?」小振のどんぶり椀に卵の黄身をまぶしただけの素うどん。何時もの味。丁場の親父は何度見ても大将そのものだが。大将生きているじゃん。

息子が歳を取って親父と生写しになるのを目にする。それって親父が息子の身体に里帰りするからじゃなかろうか。だから一富の息子もそうとは気付かないうちに大将に生まれ変わっとるのだろう。

そしてふと「この俺もあの父親亥蔵の魂を呼び寄せてみようか」と。

光るボールの話(その3)

8月8日午後7時、4日間続いた中国中央テレビの人気番組「ブランドファイル」の取材最終章です。場所は大連市旅順口藍湾の海水浴場に取材班とルミカ職員100名が集合。全員疲労困ぱいの中「中洲士郎一世一代の猿芝居」が開演しました。

ジンユイ総経理と中洲士郎董事長互いに密かに期するモノを抱えてのテレビ出演でしたのでそりゃもう神経をすり減らしております。「最後はウルトラCで決めよう」ここだけはバッチリ呼吸が合ったジンユイ総経理との間でシナリオが決まったのは昨日の午後のことでした。

工場の広場ではなく藍湾海水浴場にアイパオで舞台を作りルミカ社員達がシャンパンタワーをバックに新開発の光るボール(仮名メガホタル)を夜空に投げ上げて「お祭り好き」を演出するのです。しかもその様子を新開発のBi見逃サーズで上空から収録します。写真をご覧ください。

テレビの向こうの視聴者はルミカを凄い会社だって思うでしょうね。

実は

ジンユイの「使い捨てシャンペンタワー」も

オーノの「アイパオ」も

ヤマテの「光るボール」も

ヒメノの「Bi見逃サーズオズモ」も

全て今日形にしたばかりで未だ生産ラインは出来てないのです。

「注文が殺到したら」って?

新製品なんて直ぐには売れません。金を掛けずにメディアで騒ぎ立てるのです。価格は大量生産の低価格で案内します。注文有ったら暫く手作りしてから製造装置を組み立てましょう。これが中洲流イカサマ商品開発。有ると見せかけて実は何もない舞台の裏側で皆様とビジネスをスタートアップさせましょう。

空騒ぎが終わって陽がすっかり落ちて砂浜の光の残骸を見ているとふと思います。

「さて次はどうすればいいのかな~」って。

チェリービールの話(その12)

市場調査のお話です。

長い大連出張からやっと日本に戻りました。会社というのは業績悪くて必死の時に気付かないのが「社内の厭世ムード」です。それが業績好調になると若い者は目的失調にでもなるのか鬱に囚われるようですね。

開発小屋でくつろぐ暇もなく管理本部長から「大変です!」と泣きつかれたのです。やれやれですね。しかし(これはいい口実になる)と思い直し「よ~しこんな時は飲みに行かなくっちゃ」とばかり問題のA君を連れて古賀からバスに乗って中洲に繰り出す事にしました。

中洲村も久しぶりです。バスを降りて日銀の裏手にある喫茶兼スタンドバーをふと思い出し、ちょっと顔を出す事に。そこのママは中洲若子の仲良しだったのでそのお礼で若子の死後時々飲みに行くようになりました。ほんの暫くのご無沙汰だと思っていました。今日の相棒のA君と静かに止まり木で冷えた生ビールで喉を潤して退散する心算が・・。「士郎さん、6年も来とらんよ。この子知らんやろう。もう5歳だ」ぽっちゃり丸顔のママが違う相手に本気で怒ってるようでした。抱いているのは可愛い娘でね。「あのう。僕の子じゃないよねえ」それで大爆笑。見知りの偉い先生(多分ママの追っかけ)も入ってきて店は大賑わいになりました。思えばズ~っと開発暮らしだったのです。

時間がないので傍の(管理部で頼りとする)A君を引っ張って隠れ居酒屋の「地球屋」と中洲村で一軒しか知らない「飲み屋N」を回って家にたどり着いたのは真夜中。長い出張でした。

翌朝「帰ってすぐに何処を飲み歩いとるんや」の老婆(ラオポ)に「開発や開発!」

実際綺麗な女性たちを前に中洲節で大騒ぎしてしまいました。年に一度も行かんのにそこも常連の振る舞いでねえ。(嫌ですねえ。静かに飲めばいいものを)しかし飲み屋で女性を喜ばせる極意はですねえ。大抵「実は今・・極秘のミッション中でね」と、懐から開発品を取り出して披露するのです。な~んだ思い出しました。いつも「ドラえもん」やってるわけです。

今回テーブルで披露するのは大連で誕生したばかりのルビー色に輝く「ルミコチェリーソース」(左手)とこれを使った極限のカクテル。この色をご覧あれ。「信じられない美味しさだわ!!」綺麗なホステスさんに気を良くしたが心配した通り帰りの勘定は高くてねえ。当分遊べません。

チェリービールの話(その1)

 

皆さますっかりご無沙汰致しております。と申しましてもこのブログにお付き合い頂いております方の数が少ないのが幸いです。

駄文でも書いてみて少しわかるのですが日本語って本当に奥が深い。まさに明治から世に出んとする無名の作家達が飢えの中で生み出した言葉の宝石の数々。どれひとつ拾い上げても中洲の遊びの文章では到底太刀打ち出来ません。それでついつい文章が書けなくなってしまったのです。それでも「文を読んでもらう為じゃない。書いておきたいから書くのだ」と思い直して大連のホテルの一室で机に向かっております。

中洲士郎の自宅の4畳半の書斎と言えば聞こえがいいが部屋の壁中は家族の溜めた本で埋め尽くされた本の捨て場所であります。それでも時々チェックしてみるとこの60年中洲が読んだのはその内の1割にも満たず、老い先考えると気が重くもなります。先日の夜中意を決して一冊を取り出すとそれが瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」でした。読み始めるとこれがまた面白い。そこには近代文学史を担った作家たちが素顔で息づいております。それに寂聴さんって本当に言葉選びが秀逸で表現にウイットがあって筋立ての随所に仕込まれた「落ち」が実に美味しいのです。

生きるってのは人との出会い。死ぬってのは好きだった人達との再会。そんなことを言って序文から読者を引き込んでおります。

出会いと言えば中洲士郎今回の5月15日からの大連出張の出鼻からショックの連続です。福岡空港でエアチャイナの出発間際、ラウンジで卑しくタダ酒一杯引っ掛けてトイレで用を足してそそくさ出てきたら若い男が中洲に向かってにっこりしています。多分知り合いなのだろう。彼に笑顔で応じながら急いで似顔の符号を開始しました。「何だ。俺の息子じゃないか!尾道から何でこんな所に」ドギマギして挨拶もそこそこに彼は同時刻発香港行きに中洲は大連に向かったのです。やっぱり老婆(ラオポ)言うように認知症が心配になります。

機中でアイパッドを開くと偶然にも息子が「読んだら?」とKINDLEに残しておいた「任天堂ノスタルジー横井軍平とその時代」が目に止まったのです。この本を読み通すうちに思いに浸らされました。確かに生きるってのは寂聴さんが仰るように全て人との奇縁ですが軍平さんを読むと同じく大きいのがモノとの出会いなのですね。ふとした縁でそのモノに出会わなければ違ってしまった筈の人生の面白さと怖さ。そんなお話でした。

人って誰もが「自分って何だろう。何故存在するのだろう。自分の存在意義って何だろう」って思いが川面の泡のように湧いては消えて行くようです。そんな時に偶然ある人の生き様を識って人は自分の存在理由に確信が持てるのじゃないかと思います。

今回中洲士郎もその一人になりました。横井軍平その人の商品開発人生に「やっぱりそうだ」って確信を深めたのです。そして本当に下らないかも知れませんが中洲士郎の滑稽な開発物語でもどなたかお一人の読者の共感が得られていればそれもブログの存在意義かも知れないと・・・。

老人の小便のように随分と長たらしい前置きになりましたが今回は「チェリービール」というきっと美味この上ない開発の話を仕込んでみます。ご期待ください。

(参考までに)

横井軍平さんのヒット商品をご紹介したいのですが転載が禁じられていますので。是非電子ブックでもダウンロードして読んで下さい。

横井軍平社会に出て最初に出したのがウルトラハンド、120万台以上の売り上げでした。蛇腹が伸び縮みして遠隔地のモノを掴みます。な~んだ中洲のBiRodも同じじゃないか。未だ1万台も売れてませんが価格が100倍だから案外いい勝負かも知れないのですよ。

中洲若子の話(その9)

1997年の暮れに実父辰野亥蔵の死を偶然知ったいきさつはお話ししました。そのあと亥蔵との何度かの邂逅を思い浮かべるうちに母親若子と亥蔵の出会いと別れを知りたくなったのです。

それで若子に尋ねました。「置屋の吉良に奉公に出てからどうしたと?」「いっぽうていで働いた。何か小説でも書くとね」若子がそれだけポツリと答えました。今思い返せば若子には一度も奉公先のことや仕えた旦那の事を尋ねた事が有りませんでした。ただ時折若子は書き綴った日記を読み返しては昔の想いに耽っております。誰かに打ち明けたかったのかも知れません。

長い間「いっぽうてい」と記したメモが残りました。2010年5月若子は両膝の手術後歩行が困難となって車椅子生活に、更には脳梗塞が進行して認知症がひどくなってきました。

天気が良ければホンダCRZで大濠公園に行き車椅子を押します。和白のサニーで弁当を選んでは湖畔で一緒に食事をすることもありました。若子はこのところいつも優しい顔をして殆ど喋りません。

大濠公園で車椅子の若子

一緒に弁当食べて

そんな若子を見ていると「もうそんなに永くはない。若子の人生を振り返らなくてはならない」と。しかしもはや若子の昔の記憶を手繰り寄せるのは難しい状態です。

それで若子の親弟妹達が映った昔の写真を拡大し繰り返し指先で追いながら記憶の回復を図りました。

だが「この僕誰かわかるやろう?」その問いに笑って「うん精一」「違うあんたの息子の士郎や」何度言っても彼女の頭には弟精一しかないのです。

今思えば精一に深い思いがあったのでしょう。精一がアル中で生活が破綻した時お金の面倒を見てやらなかったのを悔いているのでしょうか。士郎の辛い幼児期精一は本当に優しい叔父でした。いつか叔父精一の物語をして彼ら姉弟の魂を慰めようと思います。

若子の弟精一と中洲士郎

そんな訳で若子に昔のことを聞き出すには時既に遅かったのです。

仕方なく手始めにネットでメモの「いっぽうてい」を探してみました。

それは「一方亭」と綴り昔博多で栄えた料亭であることがやっと分かりました。終戦後米軍に撤収されて焼失したとの説明だけが絵葉書記念館に残されておりました。

その後も時折ネットを探っておりましたら「しょうき家一方亭」という変わった名前の居酒屋がヒットしたのです。

1年程経った2011年5月のこと中洲士郎は会社の若造の池山治行と新入女子社員を連れてやっとの事でこの店の暖簾をくぐりました。

  

 

中洲若子の話(その7)

「Bi見逃サーズ」未完成のまま幕張メッセでの見本市インタービー出展で東京に来ております。

今日は若子の命日11月14日です。2013年に死んでしまってもう5年も経ったのです。それで今日は少し若子のことを思い出して弔ってやることにします。

中洲若子は大正 15 年 4 月 10 日に北九州若松の貧乏寺の三男坊と豊前の私生児の間で第一子として生まれました。その若子には 3 人の弟と 5 人の妹から「大きいネーチャン」と呼ばれて彼らの飢えた黄色いくちばしに食を探し運ぶ苦労鳥の運命が待っていたのです。その役割を死ぬまで担い昭和の時代を駆け抜けて行きました。

 「若子には尋常小学校出してやったから、そろそろ奉公にでも出てくれればいいが。女学校なんかにゃやれやしない」深夜父母の会話が襖越しに聞こえました。

第2次世界大戦が始まった年だったのでしょう。軍靴の音が密かに漏れ響き職業軍人と言うよりも口減らし二等兵の祖父も演習に駆り出されておりました。

祖父の写真らしい

狭い部屋に寝乱れている4人の妹と弟達に目をやり若子は決意します。翌朝若子は両親に「奉公に出ます」と告げました。女学校進学など夢に過ぎなかったのです。

15歳になると直ぐに母に連れられて福岡市の東の歓楽街千代町の置屋「吉良」に奉公に上がりました。置屋は貧しい家の特に器量の良い娘を事実上買取り将来売れっ子芸妓になるように躾けもするが掃除洗濯炊事それに主人の背中洗いなど女中代わりに使います。

芸妓に出し売れっ子ともなれば大きな移籍料が手に入る大切な商品ですから現代のようなセクハラの類いは案外少なかったのかもしれません。

若子が奉公に出た頃の写真でしょう。

置屋では娘を養女として親元から譲り受けることも多く若子も吉良から要請されましたが若子の父親は断わりました。若子の母親は家計の遣り繰りが下手で夫婦に諍いが絶えなかったが料理の腕は確か、食事は質素でも美味でした。

しかし吉良の家でありついた残り飯は糸を引くことが多く若子はそれが耐えられず一度は家に泣いて帰りました。「何でもするから家に置いてくれ」と。勿論そんな願いが受け入れられる筈はありません。

若子と士郎が生涯美味いものにこだわり続けるのはこの吉良の食事の恨みからでしょうか。以上のような話を若子から時々聞かされておりました。

そしてあの若子の店「赤ひょうたん」を再開して弔い客から意外な話を聞くことになりました。

赤ひょうたんの数件先の小料理店で仲居さんをやってる年を召した着物姿の婦人の話です。

「若子さんは本当に綺麗で品のいい人でした。小さい時から苦労されてね。私も少しだけこのお店で働かせて貰いました。優しい女将さんでしたよ」

「あんな時代ですから、まあ相応の苦労はしたでしょうね」

「若子さんは若い時京都で舞妓さんやってたそうですね」

「そんなこと言ってましたか。舞妓じゃないが訳あって一時中洲の芸妓、そう馬賊芸者をやってた筈ですよ」

なるほど中洲若子、生家貧しくその容貌を買われて京都は先斗町の舞妓だったと詐称していた訳か。いや若しかしたらどうせ奉公に出されるならば噂に聞く京都の舞妓に憧れていたのかも知れません。それに短い間でも中洲で芸妓をやってたとなるとやはり世間には冷たいものがあって辛い思いをしたのでしょう。

だがおっ母んに芸妓やってもらわねば中州士郎この世に 3 年しか生き永らえておらんのです。

なにぶんにも若子と確かな話をしていないので誤っているかもしれませんが中洲士郎がかすかな記憶を辿ると話はこうなります。お聞きください。

軽快であること

「ウ~ン」チトまずい事になりました。中洲にナカされる社員達のブログが今日から公開に。中洲の読者は確実にこの若者ブログに流れてしまいますね。「ナント!?」出社した新入社員が先輩達に朝のコーヒーサービス。それも嬉しくてタマランってな顔でね。中洲だってあの軽快なブログにハマりそう。

負けられません中洲老公「ラオコン」。ここは新境地商品開発ブログに磨きをかけて勝負しましょう。


「BI見逃サーズ30M」を手に。ヒメノさんの首掛けをこんな具合に使いました。石巻の沖合でヒラタ船長操縦の船から30m底の海底をヒメノLEDで照らしてモニターに映し出します。360°カメラですから指でスクロールすれば遺品を見逃しません。