ケミホタルの話(その13)

    前回で士郎に「企みの芽」が出て、行く手に嵐の雲漂うことを話しました。

諸君、ブログというものは本当に不思議ですね。「もう過ぎた事よ」と封印していたものを物語に書き出すやその時見えなかった姿、顔、心が亡霊となって蘇り「正しく記録に残せ」と筆者に迫って来るのです。それは画家がキャンバスに向かうと事象が「自分を描き残せ」と画家に迫るのと同じかも知れません。

さて1979年2月形式上はルミナスプロジェクトが発展的に解消され福岡県遠賀町に「日本化学発光株式会社」が設立されました。

本来なら胸躍るはずなのに「赤ひょうたん」を飛び出しアパートの押入れで寝泊まりするうちに中洲士郎は何か疎外感を感じ始めたのです。

というのは遠賀町のアパート賃借の件が中洲士郎抜きで決定されたのを始め大島商会との取引や重要な案件が士郎蚊帳の外で進みます。そして「中洲には製品一個あたり1円の特許料を支払う」等と栗本が口にするようになったのです。

栗本には士郎の存在が目障りになって来たようです。士郎を排除して事前にトラブルの芽を摘もうとしたのでしょうか。

1月4日の事です。栗本の要請で土海、藤本と連れ立って有田のF社の深田社長宅を新年の挨拶に訪問することになりました。

なぜご挨拶に行くのか訳も分からず大邸宅の門をくぐると沢山の社員が黒光りする床や柱を更に磨き上げているのが目に入ります。深田社長は自慢のカラオケルーム等を案内して上機嫌でした。

今あの時の情景の一部始終と因襲の世界の空気が士郎に迫ってまいります。この因襲の世界で粟本と社長の深田正一が当時急成長中の京セラに倣って有田にファインセラミックス事業を立ち上げようとしていたわけです。

だがその栗本と深田正一の顔に翳りが映っています。深田正一には「東大に行ける頭のいい跡継ぎを作るのが貴方の使命ですよ。有田焼の伝統を壊すような言動は慎んで下さいね」と。栗本には「焼物を何も知らない社長をそそのかしてファインセラミックス等にうつつを抜かすな」とのチクリや忠告が社内に溢れているようです。

あの大邸宅の中で問題児二人と同じく士郎も何か居心地の悪さを感じたのはそんな背景があったのかも知れません。

栗本は九大に一時期開設された教員養成所を卒業して伊万里の高校教師となりましたが事業家への夢を膨らませてF社に転職したのです。恐らく彼のことです。社長の家の床を磨く世界など真っ平で、入り婿深田正一の懐に飛び込みファインセラミックスで共に世に出ようとしたのでしょう。メディアには九大卒と詐称してまで自己顕示欲の強いその男には中洲士郎同様生い立ちに秘密が有るのかも知れません。 

だが到底京セラなんかとは太刀打ちできません。そこで中洲士郎を排除してまでケミホタルを独占しようとしたのでしょうか。  

数日して深田正一氏に中洲川端で夕食に誘われご一緒しました。深田氏の日本を代表する名陶老舗の社長に相応しい風貌の前に中洲は小さくかしこまりました。その席でM百貨店のY外商部長を紹介されたのです。老舗に巣食う百貨店外商部の構図。そしてそこで商権を一手に握る部長。そのYは高卒ながら時の人M百貨店O社長に取り入り部長にまで昇進したやり手でまさに曲者中の曲者。深田社長との出会いはそれが最後でしたが世間知らずの中洲士郎その後数年間このY部長の謀略に振り回されることになりました。

結局有田にファインセラミックスの灯を輝かせずに深田正一氏の他界が2006年にひっそりと報じられたのです。この間の26年間F社の中で化学発光とファインセラミックスがどの様な物語を編んだのか知る機会がありませんでした。ただ深田社長の他界と同時に栗本がF社の研究所長を辞して独立したとの噂を耳にしました。風貌も言動も大らかな深田社長と瞳を煌めかせて挑戦する栗本にあの後一度も会う機会がありませんでした。何しろ次々と難題が降りかかり、来る日も来る日も問題処理に忙殺されたので栗本を思い出す余裕も無かったのです。

あの日中洲士郎が深田社長豪邸の舞台で戸惑っていた頃、中洲タエは団地の家の前で娘と羽子板やっていて両アキレス腱を切断し玄関口でうずくまっていたのです。1979年は激動の幕開けでした。

ケミホタルの話(その12)

このシステムは栗本が考案したもので究極のリスク回避ビジネスモデルでした。

藤本と二人遠賀町の2DKのアパートでケミホタルを組み立てながら縁先に拡がる田んぼを眺めていました。するといつもじゃれ合って遊んでいた2匹の茶色の犬が見当たりません。

「可哀想に毒まんじゅう喰ったのかな?なあ藤本よ、俺たちもそうかな?」

ケミホタルの構造をお話ししましょう。小さなチューブにA液がそこに浮かぶ極小アンプルにはB液(酸化液)が封入されております。先ずアンプルですが普通アンプルと云えば注射液の入った薄茶色の首のついたガラス容器が思い浮かびます。

サイリューム6インチではその程度の透明アンプルに酸化液が3cc程封入されています。ところがケミホタルのアンプルは僅か0.05cc、小豆よりも小さく薄いガラスの皮に包まれます。                              

世界にそんなガラスアンプルは存在しません。その製造はF社の3人の技術者が独占し栗本も現場が覗けない様子でした。日本化学発光では士郎がプラスティックチューブ開発を担当しました。

ケミホタルの組立は極めて簡単。そのチューブに光の素の蛍光液を0.14cc入れて有田から送られるガラスアンプルを浮かせて蓋を溶着するだけです。

朝から晩まで物をいじくっていると色んな発見があり工夫を思いつきます。本当に面白いものです。栗本にとっての悲劇はお金は自分のものになったが技術開発からは蚊帳の外に置かれたことでしょう。

ところがケミホタルはサンプル段階では成功しておりました。しかし量産化すると<他人の製品をバラして作り直していると!>光らないケースが多々起こるのです。原因は有田で作るアンプルの微細な穴、遠賀でのスティック組立中の不純物混入と水分の上昇、それだけで無く米国での製造ミスに起因する事が判明しました。遂には全く原因不明での失光も起こります。兎に角理由を仮説し製品を選別しながらノウハウが蓄積されて行ったのです。

「エッそんな事出来るの?技術的に?採算的に?特許の問題は?」

やっているうちに全て答えが見つかって来ました。これは可能なのです。         他所の製品をバラして作り直す事業が成り立つのです。

古今東西誰もやったことのないイカサマのプログラムが描き出てきます。それがリスクゼロを狙った栗本じゃなくてこのリスク渦中に身を置いた中洲士郎の手に落ちたのです。ゾクッとして参りました。

先の毒饅頭の続きです。

藤本「そうかも知れんな」

中洲「秘密にされたアンプルをここで作り始めんと栗田に毒饅頭食わされるな」

士郎の脳裏に自動機械でアンプルが作られている模様が描かれ始めました。     有田では細いガラス管から一個一個手作業で作って機械化出来ていないのです。ガラスアンプルの製造自動化は必須です。

「その機械は有田の技術者達と共同開発すべきか・・・。」                           「それをここ遠賀でやるのは栗本に対して悪い企みかも知れないが・・・・。」「アンプル自動機械を作って栗本に見せてからでないと問題は解決しないだろう・・・・。」

人は謀反を起こす時「これは裏切りではない。彼奴の眼を覚まさせる為に仕方がない事だ」と自分に言い聞かせるようです。中洲も都合よく思案しました。同時に嵐の予感です。

ケミホタルの話(その11)

12月久留米の大島商会の大島社長と称するものが「自分も小型化学発光体のアイデアを持っていた。釣り向けに独占販売したい」と申し出ましたが余りに小規模で(つまり社長一人の会社)断わりました。

ところが大島は栗本を口説いてまんまと独占販売の約束を取り付けていたのです。多分11月の栗本の新聞発表を誰かから知らされて栗本に接触していたのでしょう。500万円が栗本の手に渡りました。

翌1979年1月士郎の一方の素寒貧仲間藤本の自宅がある遠賀川に作業用アパートを借りることになります。月額20000円の家賃は栗本から出ます。

ブルーシートを敷き詰めた畳の上には中洲等の手製の装置を、押入れの2階は土海が会社から持ってくる分析装置を並べます。

押入れの一階は士郎の寝室です。中洲士郎、赤ひょうたんは喧嘩して飛び出しているのでここしか行く所がありません。

共同事業と言っても栗本、土海、福井にはそれぞれ職場があって報酬を得ていますが士郎と藤本は無給です。藤本は自宅がそばで独身、弁理士事務所のアルバイトでもせいぜい5万円しか稼いでいませんでした。

しっかり稼いで5人家族を養っていた士郎、無給でこの工場に独り寝泊まりすると共同事業が割に合わないし行く手に不安が募ってまいります。(こりゃヤバイという思いで)とにかく試作品作りに精を出しました。

原料がないから仕方なくサイリューム6インチをバラして原液を取り出します。植木鋏で切り出したチューブから発光液のA液(蛍光液)そして中のアンプルからはB液(酸化液)を取り出し液を検査してB液は有田に送りアンプルに加工してもらいます。

次に届いた酸化液入りのアンプルを使ってケミホタルを作り検査して包装するのです。

ここで金を握った栗本の謀略が見えて来ます。アンプルは有田で会社の研究者グループ3人に作らせスティックは士郎が命名した日本化学発光に作らせて製品は大島商会に独占販売をさせる。

自分たちは安全に元の会社に居ずわるという算段です。日本化学発光の経理は自分が奉職するF社の経理課長に給料出して任せています。まあ何という奇妙な構図でしょう。遊興三昧の栗本によって会社の出金伝票がドンドン切られます。栗本の懐にある会社の金は減って行くばかり。この会社は一体誰が責任取るのでしょう。

ケミホタルの話(その9)

一体サイリューム小型化の思い付きは何処から来たのか記録を残しておきましょう。

中洲士郎実は釣りは得意ではありませんでした。

幼少の頃は1人でよく室見川でハヤを釣って遊んだものですが社会に出ては中洲タエの兄、正清に連れられて富士五湖でワカサギ釣りを楽しむ程度でした。この義兄は凄く男らしい男で中洲の憧れ、老婆(ラオポ)以上に別れられん親類です。この師匠に自慢したくてマブチモーターを仕込んだ世界初の電動ワカサギ竿で. 凍てつく相模湖で勝負しました。新開発の道具に痛く感心すると思いきや氷の穴を前に只笑っていたのを思い出します。

諸君もきっと士郎と同じような経験がお有りでしょう。

「一体全体何故あの時あの場所に行ってあんな経験をしたのだろう?」            後になってそう振り返る事があります。

1976年の夏、突然今までやったことがない夜釣りを試そうと釣具店で電気浮きを買い求め独り車を走らせ和歌山に入る手前の磯場に立ちました。

暗がりの中、磯の先端で安物の5mの継竿を振ります。ところがその第1投目が沖合の岩に当たったのかカチッと音がして浮子の光が消えてしまったのです。     実にバカな遊びでその後は釣りが出来ずにすごすご引き上げました。

電気浮子は高価で壊れやすいとの認識がトンマな士郎の頭に焼き付いてしまいました。これが1年後にサイリュームを知った時即座に夜釣りの浮子のアイデアに結びついたのです。

「中洲士郎の思い込み論」では世界中に同じ時期に200人が同じアイデアに閃くのです。だが次に進んで図面に描きサンプルを作るとなると10人位に絞られるというものです。

中洲は現状では誰もこの超小型化学発光体開発の第二段階に踏み込めていないと予想しました。

ケミホタルの話(その4)

中洲士郎が創業者から特別待遇を受けていたセラミックス商社を離職することになりました。その経緯はこうです。

中洲士郎は独立計画バインダーの中の超小型化学発光体というB6インデックスカードを栗本に切ってからは、独立という淡く甘い夢が急速に現実味を帯び始めました。

1977年夏大阪中之島図書館で閲覧したACCの基本特許の資料やサイリューム製品1箱640本をACCの日本子会社から取り寄せて栗本に送りました。開発が順調との粟本の知らせが入ります。心が騒ぎ出します。「ヤッパリもの作りの仕事に入りたい。栗本のように光ってみたい」と。

土台どこから今のような商いの道に迷い込んでしまったのだろうか。そもそも冶金工学を選んだのは若子の旦那の山田稔が勧めたからでした。彼はボイラー屋で父親の亥蔵は釘屋。どちらも金属系だったわけです。

然し全く面白くない学問でして毎日退学しようと考えているうちに若子と同年の植田教授に出会い教えを受けて実験装置作りと理論を検証する作業を通して生まれて初めて学業の面白さを経験させてもらいました。

就活では山田稔のコネで北九州のS金属の線もありましたが気乗りしないしおまけに手にした「トーマスJワトソン」の伝記にミシンのセールスマンが60歳で起業したIBMを世界3位の大企業にする下りを読み「先ずセールスを覚えてみよう。製鉄所勤めでは世に出れんだろう」となんとも気安く進路を変更したのです。

そして植田教授に探して貰ったのが大阪にある小さなセラミック商社でした。

「この会社を辞めようか。辞めさせてくれるかな」遂に覚悟を決めました。大阪駅前旭屋書店の喫茶店でしたためた「不退転の決意で会社を辞す」との大仰な書き出しの辞表を総務部に提出して数日、全く予想外に辞表がアッサリ受理されて愕然とする中洲士郎でした。

1977年暮れ10年世話になった会社を遂に強く引き止められることなく退職してしまったのです。12月27日、日産のオンボロ車に同乗したのは柳川タエと幼い3人の子供それに手乗り文鳥の文太と幼鳥8羽。メスは逃げてしまっていません。

西宮からフェリーは福岡の行橋に向かいます。真夜中、デッキで独り漆黒の海が東へ流れて行くのを黙って眺めていると背後から「アンタ大丈夫ね?」柳川タエの声がします。            

「そうか。ただ面白いから真っ黒に泡立つ白い航路を見ていただけなのに身投げでもしないかと心配される境遇になったのだ」

国に戻り母親の店に身を寄せての一時、士郎の里帰りで(一緒に赤ひょうたんがやれる)と歓喜した中洲若子でしたが士郎の別の独立開業の企みを知って失望します。そして調理場をサボっては夜な夜な仲間を集めての二階での密談。若子と大げんかになるのが1978年大晦日近くでした。士郎から脱いだ割烹着を投げつけられた若子「何を!裏切り者め」とばかり激して店の円筒石油ストーブを蹴倒しました。

士郎は仲間たちが待つ人形小路の「かげやま」へ一目散。この「かげやま」という店は 中洲士郎それに妻の柳川タエが一番懇意にしておりここの女将は正しく「粋のかたまり」でした。中洲若子の店とは対極の雰囲気で森繁久彌が終生愛し続けた、止まり木5脚の居酒屋です。

壁一面には久彌直筆で「酒よし肴さらによし。女もよければ来てみんしゃい」と大書きされております。

中洲若子それが癪の種で「かげやま」には終生強いライバル意識を持っていたようです。死んでしまった今では、おっ母に悔しい思いをさせたことが悔やまれます。

その「かげやま」で「日本化学発光株式会社」の旗揚げ式を行いました。だがその事業は粟本主導で進みます。有田焼のK社を巻きこみ更にM百貨店外商部も加わり粟本は暗黙のうちに仲間の首班に収まります。粟本はキラキラした目の野心家で世の成功者の一人に列せられる素質は充分にありました。

但し彼の欠点は吹聴したがる事、それも事をなす前に誰彼となく自慢することでした。そして自縛にハマります。

ケミホタルの発案者が自分でなければ辻褄が合わなくなりました。「じゃあ中洲士郎は何者だ?」「あいつは山師だから首にする」との話が士郎の耳に入るようになるのです。

中洲士郎起業13番危機の最初の1番がそこに待ち受けていたのです。

思えば「あの若子の卵管での精子事件」以来世に出ても飽きもせず危機が続きます。死ぬまでトンマの中洲士郎なのでしょう。しかし皆さん。一つ一つの危機が実は面白く思い出されついつい喋りたくなってしまいます。これから時間をみては危機13番の顛末をここに綴って参ります。