中洲若子の話(その13)

作家でもない中洲が人様の事を珍奇な妄想を加えて描こうと言うのですから危険です。

しかも相手は近代日本を作り上げ世界の歴史に名を残す2人の英傑伊藤博文と高橋是清ですからオオゴトです。この機会に記録や評伝を読むと改めて幕末から明治の時代の人々の未知への挑戦それも「国の為人の為」という湧き上がる使命感を強く感じます。その男の世界に料亭と花柳界の女の世界が色濃く絵模様を描いているのでとても情熱的、人間的ですね。

この2人の男、何時も命を狙われる公的活動から夜遊びの世界に入ると女性に大モテの可愛い男たちに変身します。

慶応2年1966年未だ駆け出しの25歳の青年伊藤俊輔、惚れて身請けした芸妓小春と一緒になるためカミさんと離婚、その騒動の中でも昼間辛うじて生きながらえた命を確信するかのような夜の遊びです。あの時代は避妊が上手くいかないので直ぐに子供が出来ます。翌年別の女性との間で「山口げん」をもうけました。(と中洲は想像します)

15歳になったピカイチの美貌の娘、今更入籍出来ず未亡人の藤野みちと図って「春帆楼」をこさえてそこの仲居とします。営業部長の博文総理は政界経済界の大物をどんどん連れ込んで明治16年には「春帆楼」に世界初の公認河豚料理の看板を上げさせるわけです。凄い政治力ですが尋常な熱の入れ方じゃありません。

そして仲居頭で天下の才媛「山口げん」の名声は高まるばかりの明治26年52歳の宰相博文一計を案じました。おのれの醜聞を腹心の39歳、是清大蔵大臣の女としてカモフラージュしたのです。政界一の好男子の是清は翌明治27年に生まれた娘の「ふさ」と山口げんを熱愛しました。

時は流れて明治40年博文66歳是清53歳げん40歳です。男女親子の愛情は兎も角2人の娘、愛人、娘の行く末を案じる博文と是清は奇想天外の手を編み出したのです。博多で老舗の料亭「一方亭」は妻に先立たれた商い下手の黒川清三郎の下で倒産寸前でした。ここに「げん」を清三郎の後妻として送り込み先々清三郎の長男清太郎と「ふさ」を夫婦にして「一方亭」2代目を継がせるのです。見事な親子丼です。これで戸籍上もスッキリし子孫繁栄の筋道が出来ました。

今度は2人の営業部長、政界だけでなく筑豊の炭鉱主や任侠の吉田磯吉大親分、八幡製鉄とその取引先を贔屓にさせて倒産寸前の「一方亭」を見るまに九州随一の料亭に変貌させたのです。2人は共に驚異的な働き蜂の生涯を送り、そして同じく悲しい結末を迎えました。

尽力したのはそれだけではありません。産業構造の近代化です。是清はネポチズムに浸りきった財閥にもメスを入れて殖産興業を図りました。大正12年東大法学部を卒業したばかりの23歳父辰野亥蔵を筆頭に30名の俊英を腐りかけた安田財閥の再生部隊に引き込むのです。

中洲若子の話(その12)

真似ごとに文を書き始めるとつくづく作家の凄さが判ります。特に司馬遼太郎なんか「どうしてあんなに見たことも聞いたこともない歴史上の場面を登場人物に語らせる事が出来るのだろう」と。皆様も中洲同様そう感じますよね。

これって中洲の商品開発と同じく妄想の産物でしょうか。とすると我々読者は時に司馬遼太郎のイカサマに嵌められているかも知れません。

だったら中洲も一昨日の春帆楼の記事を分解して更にWEB記事を元にexcel表の縦列の見出しに西暦、元号、そして人物ごとに年齢と事件を書き込み横軸をカーソルに照らして妄想しました。

すると・・・。伊藤博文と春帆楼更には一方亭との関係が奇妙に浮き上がります。高橋是清も伊藤親分に振り回されているようです。

事件の芯にあるのは「山口げん」です。春帆楼が開店した明治15年に15歳のげんが奉公に入ったようでその後才色兼備の仲居頭として春帆楼の看板になり25歳(?)の頃是清に身請けされ娘「ふさ」を授かります。更にその「山口ふさ」は博文の手引きで「一方亭」の後妻に嫁がされることに。

俊輔の時代茶店の 娘「小梅」に命を救われ後々その恩を忘れず置屋に売られ芸妓になった小梅を身請けして芸妓上がりの女性をファーストレディにしました。その 梅子も良妻賢母の鏡であったと習っております。そもそも「芸妓上がり」と形容するのは後の人間の偏見でしょう。博文の時代、芸妓は(よく躾けされ文学や諸芸能を身につけしかも夜の生活も極めて巧みな)女性陣だったのです。だが梅子の理解をいいことに方々で芸妓と浮気しては子供をもうけ男らしく入籍を繰り返しました。博文さんは置屋に売られた悲惨な境遇の女性に特別優しかったのかも知れません。だから「山口げん」は伊藤博文の唯一の隠し子じゃないかと珍奇な妄想をしてみたのです。
裏付けにWEBから伊藤博文の年譜を拾いました。

慶応二年 1866

  1月     伊藤俊輔 下関に入る
  2月21日 伊藤俊輔 木戸貫治に鹿児島行きについて手紙を書く
  2月27日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔を親書伝達の使者として鹿児島に派遣することを下命する
  3月     伊藤俊輔 妻すみ子と離婚
  3月21日 グラバー 横浜より下関入港、高杉晋作、伊藤俊輔その船に便乗長崎に向う
  4月 8日 伊藤俊輔 下関に入る
  4月14日 伊藤俊輔 梅子と婚姻
  4月22日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔に洋行の許可を出す
  6月 4日 パークス 英艦三隻と鹿児島に向う途中、下関に寄港し高杉晋作、伊藤俊輔と会見
  7月 3日 伊藤俊輔 下関より長崎に入りグラバーより汽船2隻購入の契約を結ぶ 五代才助にも交渉し薩摩名義で
    ?    伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と大村へ行く
  7月20日 伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と下関に入り高杉晋作に紹介
  7月28日 伊藤俊輔にグラバーより契約の汽船二隻が幕府の強制買入れになったと連絡が入る
    ?    伊藤俊輔 村田新八と長崎に行く
    ?    伊藤俊輔 村田新八と上海に行き汽船二隻購入の契約を結ぶ
  8月26日 伊藤俊輔 下関に帰り汽船購入を藩に報告
    ?    伊藤俊輔 病気で寝込む

明治まであと2年の慶応2年幕末の志士達が走り回っているのが伊藤俊輔(博文)の年譜に見て取れます。この年妻すみ子と離婚して身請けした小春と結婚。しかしこの年の後半俊輔(博文)はどこで何をしていたのか。小うるさい前妻と別れて小梅と結婚ししかも下関で別の女性と同棲中?翌1867年に「山口げん」が出生しております。未亡人の藤野みちと共に春帆楼を興したと来歴にあります。兎に角博文は女性に優しい男です。認知してやれなかった15歳の「山口げん」が不憫で将来を案じて春帆楼をこさえたのでは。「げん」は博文の愛情に包まれかのソフィア・ローレンでも三尺を避ける程の美人に育ちそれだけでなく素晴らしい経営の才を発揮して春帆楼を日本一の料亭に育てます。

昔の男達は自分の子孫の幸せにもしっかりと心配りをしたのでしょうか。それで一番信頼し最優秀の人物の高橋是清に山口げんの身請けを頼んだのです。高橋是清は「げん」との間に愛娘ふさを得ましたが日本国の存亡を背負っていた是清は矢張り「げんの認知」に踏み切れませんでした。しかし先輩博文がやったように「ふさ」を素晴らしい娘に育てその末裔の幸を願って当時沈みかけていた博多の大料亭「一方亭」に送り込んだのです。

山口ふさが是清の隠し子であるのは公知だが山口げんが博文の隠し子であった記述は未だ見つかっておりません。

もしもそうだったら我らの高橋ノリチカ氏は是清のみならず博文の血までも受け継いで麻生太郎や安倍晋三どころでない高貴なお方と相成りますね。

「珍奇な妄想と商品開発」の話で中洲士郎のブログに立ち寄られた読者に中洲母子の身の上話など退屈極まりないことです。しかし伊藤博文と高橋是清が起こした事件と同じことを父辰野亥蔵が起こすのです。

秋の夜長WEBをブラウジングして父辰野亥蔵(仮名)を追ってみます。出来れば後3回程で「中洲若子の話」を終えます。どうぞお付き合いのほどよろしくお願いします。

中洲若子の話(その11)

まずお断りします。高橋トクシン氏はあの明治の元勲高橋是清の本妻でない血筋を引かれる方でした。高橋是清に認知されていないひ孫に当たっておられます。
たまたま是清と姓が一致しますのは彼の父親は高橋敏雄、若松の任侠大親分吉田磯吉の書生から京大を出て検事になった人です。

一方亭のルーツを辿りますと人物では伊藤博文、舞台は下関の春帆楼に行き着きました。

[以下春帆楼本店のホームページから引用]

春帆楼はじまりの物語「玄洋とみち」

春帆楼の歴史は、古くは江戸時代まで遡ります。

江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、自由な研究をするために御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開きました。専門は眼科でしたが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供しました。

玄洋がこの地を選んだのは、隣接していた本陣・伊藤家の招きによるといわれます。当時の伊藤家の当主・伊藤九三は、坂本龍馬を物心両面で支援したことでも知られる豪商です。

明治10年(1877)、玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業します。春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まります。

伊藤博文が名づけた春帆楼の名

馬関と呼ばれていた下関は、北前航路の要衝として「西の浪速」と称されるほどの活況を呈していました。下関は、討幕をめざす長州藩の拠点でもあり、奇兵隊や諸隊の隊医(軍医)として長州戦争に参加した玄洋の人柄に惹かれて、伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋など、維新の志士たちも頻繁に出入りしたといわれます。

「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し…」と伊藤博文公が後に高杉晋作顕彰碑(吉田・東行庵)で讃えた晋作が組織した奇兵隊の本拠地が阿弥陀時(現・赤間神宮)であり、その跡地に建ったのが現在の春帆楼です。

春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。

ふぐ解禁、ふぐ料理公許第一号店に

明治20年(1887)の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。

豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。

若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛。翌明治21年(1888)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。

歴史に刻まれる夢舞台、日清講和会議

明治維新後、急速に近代化を進めた日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦しました。

日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診してきます。会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がりましたが、一週間前に伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表。

明治28年(1895)3月19日、総勢百人を超える清国の使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着しました。日本全権弁理大臣は伊藤博文と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結されました。

下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示するために最適だったからです。会議の終盤、増派された日本の軍艦が遼東半島をめざして関門海峡を次々と通過する光景は清国使節団に脅威を与え、交渉は日本のペースで展開したといわれます。

ご覧のように日本で一番忙しい伊藤博文公が異常な程「春帆楼」に私的な情熱を傾けます。実は彼は稀代の色事師だったのです。しかめっ面しい政界の表舞台とは違って裏では飲めや唄えの艶な男女の世界が隠されていました。これは大変面白い商品開発の題材です。誰かが傑作に仕上げてくれるのを期待して精々さわりを描いてみます。どうぞ間違いのところは中洲のイカサマに免じてご容赦下さい。

中洲若子の話(その10)

のれんの向こうの赤いニス塗りの素朴な木製扉を押すと薄暗い奥に長い居酒屋でした。中洲は本能的にいい空気を感じました。掘りごたつに入り6品ほど注文を出し生ビールと芋焼酎を頼みます。酒肴どれも小粋で気持ちが行き届いていました。

最後に熱いお茶が出された時老兵中洲が改まって店の若い女将に問いかけます。

「つかぬ事をお伺いするが・・この店のはじめに着く一方亭、珍しい名前だが何かいわれでもおありか?」

時空に歴史的な接点が付く時に生じる微妙な一瞬の間合いがあって。

「この店のオーナーの高橋さんのお婆さんがやってた店(一方亭)の名前を残すために、しょうき屋の頭に付けたそうです」と。

あとで考えるとそうやって中洲が一方亭にたどり着くとあたかもその役割を終えたようにこの店から一方亭が外され遂に一方亭の名前が世の中から消失してしまったのです。もしかしたらこの中洲が皆さんに「一方亭の話」をするように何かが仕向けたのかも知れません。折々に触れて一方亭の数奇な運命を「中洲若子の話」の中でお伝えしましょう。

様子ではこの店は、若いが趣味のいい高橋オーナーの下で30代の腕利きの料理人が店を取り仕切っている様です。

相手をしてくれている歯切れのいい女性はその料理人と夫婦かもしれません。

「一方亭と言えば博多の老舗の料亭だった筈ですが」                                     「そう、何か千代町あたりにあったそうです。今もオーナーの両親は70を過ぎてご健在でそのお母さんのお店だったそうです。それでお客さんはその一方亭とどんなご関係で?」

「いや実は私の母親がその店で奉公してましてな。それで・・」

次に暖簾をくぐった時、オーナーの父上高橋徳親氏と連絡が取れました。

電話に「それで貴方の母上の店での芸名は何と仰ったか?」

「いや只の下女中です」と答える。暫く会話が続く。

敢えて一方亭の名前をご子息が出資する店「しょうき家」に冠して何かを待っていたら・・・一方亭を尋ね聞く見知らぬ男が出現したわけです。前世の因縁に導かれたようにとても懐かしそうな徳親氏の声がレシーバーから伝わりました。

2013年の暮れに高橋徳親氏と初めて「しょうき屋」で酒を酌み交わしました。  氏は80を過ぎて実に品のいい風貌で物言いも静かで味わいがあり茶人とはこんな人種のことだろうと得心しました。そして長いこと時代を超えて互いが今存在する不思議さを語り合ったのです。

アイパオの話(その20)

中国語で鶏肋(チーレイ)とは鶏のあばら骨、スープの出汁にすれば美味しいが食べてもお腹が太らない。捨てるには、諦めるには惜しいモノを指す言葉らしい。中洲はただ今そんな鶏肋の山のような20数件の開発案件に埋もれております。その上に見本市なんかを覗くと又しゃぶりたくなる案件に出くわしてしまうのです。

ブログをサボっていた10月20日香港のモバイルショーを歩き回るうちに3件の面白い案件にぶち当たりましたね。そりゃもうメチャメチャ興奮です。

その一つが台湾の会社で手の中に収まる小さなUSB真空ポンプを開発。旅行時携帯品を容積半分に縮めるアイデアグッズです。

即座にこの商品の多用途展開を考え帰って老人のアイデアをメールしたら「すごくINOVATIVE一緒にやりたい」と。同期性がいい相手に上手くいく予感。

掃除機の口じゃなく針の穴から空気を抜くと袋の中の真空度は凄いんですね。目からウロコです。回路を切り替えれば複雑な空ビに使える。魚や野菜の真空パックに。中洲得意の真空調理器に。船長のヒラタ君に話したら「ウワー。魚の血抜きに使える」ルミカにピッタリの商品になりそうです。

一方で本命中の本命「新アイパオ開発」がスタートしました。これはヒメノ、オーノ、イワモトチーム。キモチはいい仲間だが中洲の珍奇なユメを追うにはチト頼りない。棟梁オーノをサトシさとし、大飯喰らいのイワモトにカツ丼2杯食べさせて昨日から新アイパオの組み立てが始まりました。すると彼ら途端に目の色変わって中洲そっちのけで造作にハマっております。

来年1月迄には「ホームレスや難民に家と仕事を売り付ける」奇跡のビジネスモデルが産まれるでしょう。

だが鶏肋も捨て難い。一昨日は由布農園の椎茸パオから頬ズリしたくなるような大きな椎茸を収穫しその真空袋に入れて密封。それを我が家の冷蔵庫に入れて1ヶ月後の鮮度を楽しみにしていたら早速老婆(ラオポ)が見つけて開封、昨日の食卓に焼き椎茸に変じておりました。アイパオと一緒に50本のホダ木もリースします。5年間値打ちものの大型椎茸が都会の中で収穫出来るのです。真空パックで出荷です。椎茸アイパオの2階はヨメはんから逃れてのひとり書斎。世の男性諸君に夢と希望を与えましょう。

中洲若子の話(その9)

1997年の暮れに実父辰野亥蔵の死を偶然知ったいきさつはお話ししました。そのあと亥蔵との何度かの邂逅を思い浮かべるうちに母親若子と亥蔵の出会いと別れを知りたくなったのです。

それで若子に尋ねました。「置屋の吉良に奉公に出てからどうしたと?」「いっぽうていで働いた。何か小説でも書くとね」若子がそれだけポツリと答えました。今思い返せば若子には一度も奉公先のことや仕えた旦那の事を尋ねた事が有りませんでした。ただ時折若子は書き綴った日記を読み返しては昔の想いに耽っております。誰かに打ち明けたかったのかも知れません。

長い間「いっぽうてい」と記したメモが残りました。2010年5月若子は両膝の手術後歩行が困難となって車椅子生活に、更には脳梗塞が進行して認知症がひどくなってきました。

天気が良ければホンダCRZで大濠公園に行き車椅子を押します。和白のサニーで弁当を選んでは湖畔で一緒に食事をすることもありました。若子はこのところいつも優しい顔をして殆ど喋りません。

大濠公園で車椅子の若子

一緒に弁当食べて

そんな若子を見ていると「もうそんなに永くはない。若子の人生を振り返らなくてはならない」と。しかしもはや若子の昔の記憶を手繰り寄せるのは難しい状態です。

それで若子の親弟妹達が映った昔の写真を拡大し繰り返し指先で追いながら記憶の回復を図りました。

だが「この僕誰かわかるやろう?」その問いに笑って「うん精一」「違うあんたの息子の士郎や」何度言っても彼女の頭には弟精一しかないのです。

今思えば精一に深い思いがあったのでしょう。精一がアル中で生活が破綻した時お金の面倒を見てやらなかったのを悔いているのでしょうか。士郎の辛い幼児期精一は本当に優しい叔父でした。いつか叔父精一の物語をして彼ら姉弟の魂を慰めようと思います。

若子の弟精一と中洲士郎

そんな訳で若子に昔のことを聞き出すには時既に遅かったのです。

仕方なく手始めにネットでメモの「いっぽうてい」を探してみました。

それは「一方亭」と綴り昔博多で栄えた料亭であることがやっと分かりました。終戦後米軍に撤収されて焼失したとの説明だけが絵葉書記念館に残されておりました。

その後も時折ネットを探っておりましたら「しょうき家一方亭」という変わった名前の居酒屋がヒットしたのです。

1年程経った2011年5月のこと中洲士郎は会社の若造の池山治行と新入女子社員を連れてやっとの事でこの店の暖簾をくぐりました。

  

 

アイロッドの話(その5)

11月14日とうとう幕張でインタービー2018開幕しました。若い連中に責任感が育ってくると命令系統に不協和音が起こります。「責任者は俺だ。俺の言うことを聞け」と暴君中洲に事態は悪化。それもこれも原因は皆んな開発の遅れです。

カメラの防水さえ確実に出来ればモニター受注は受けられます。その中で商品の完成度を高めて行けば「開発費を抑えて巨大なBi見逃サーズの市場をゲット」出来るのです。

高精度の360°防水カメラを離れた場所からの簡単操作で録画出来るキットを安価に提供するなら各種現場の問題解決に大きく貢献します。「お客様は本当に役に立つならあまり見てくれには拘りません」と中洲が自説を繰り替えしても若い連中は納得しません。かと言って彼らは技術問題解決には腰が引けるのです。

防水で頭を抱えるヒメノさんと2人京浜幕張駅そばの安くて不味い居酒屋で飲んでグチりました。直ぐにでも深圳の例のポリウレタン加工の会社に行って泣きつかんといけません。開発の胸突き八丁でずね。

「ねえヒメノさん。これさえ解決できれば次は360°IPカメラで水深100m。そうしたらアイパオやろうよ」結局1年間同じこと言ってます。

若い連中のデザインの感性は抜群。だが技術開発には逃げ腰です。

陽射しの中でタブレットを操作したい。要求にシャープに応えたタケウチ君の作品。

大連のジンユイ社長のプッシュで3日で試作させた収納ケース兼暗視箱

中洲若子の話(その8)

母親若子の命日に少し人の出生について思いました。人がこの世に不幸をまとって生まれて来ることについてです。4歳の頃母親が芸妓に働きに出て預けられた祖母の家での生活を思い出します。家の裏手からはいつもアイゴー!アイゴー!という悲痛な泣き声が絶えることがありませんでした。そしてそこは「朝鮮人部落だ」との大人達の説明。更に祖母は「朝鮮人部落」よりももっと酷い世界がある。この吉塚のドブ川の向こうの果てに部落があってエタヒニンが住んでいると。それに比べれば今の自分達の世界は天国みたいな物だと教えるのです。

 娘を置屋に売り飛ばすのって不幸のうちじゃないと祖母は自分に言い聞かせていたのでしょうか。娘の稼ぎに10人の生活を依存してもその娘の息子士郎にはダゴ汁が笑顔で届くことはありません。そんな時でも自分の家の先に部落があって「恐ろしい人たち」が住んでいるとの怯えが空腹に勝るのです。

博多の那珂川のほとりに清川町というところがあって昔花街として栄えました。専ら女郎として売られた貧しい子女達を相手の売春宿が軒を並べ今でもその名残があります。どなたの意図かロータリーの真ん中に丸い石組みが残されております。人呼んで女郎井戸。これは身ごもったり病に侵されたり世をはかなんだ少女達が身投げをした井戸だと。

ジェンダーが本当に悲惨なのは自分達よりもっと酷い世界があることでいくばくか安堵し、少しでも上級の性差別の社会に入りたいと願うことかも知れません。中洲若子も自分は女郎じゃない芸妓なんだと自分を慰めそれでも己の身分を蔑みながらせめて京都の舞妓に憧れたのでしょう。

こんな若子の写真を誰が撮ったのでしょう。

人の世の幸せも不幸も相対的なものであるようです。しかし絶対的な不幸にも出会います。

東北大震災救援でいくつか悲しい話に出くわしました。その一つが2011年5月福島県の大槌町でアイパオを組み立てていた時の事です。中洲の側に若いご婦人が寄ってきて呟くように

「この前の津波で5歳の息子を亡くしました。津波が迫っているというので皆んなで商店街を走って逃げておりました。ところが息子がねえ・・。カブト虫の幼虫を家に取りに戻ってそのまま津波にさらわれてしまったのですよ」と。

その坊やの年頃、中洲もヤゴ(トンボの幼虫)を飼っていてそりゃ大切にしておりました。やはりその子と同じく家にヤゴを救いに取りに帰えるだろうなと思います。瓶の中で汚い草にしがみ付いて生きているゴミのようなヤゴでした。

非常時の中で大人は決してあの小さな暖かい子供の手を握りしめて離してはいけませんね。老いた若子の手をもっとしっかり握りしめてやりたかったと命日に思います。

中洲若子の話(その7)

「Bi見逃サーズ」未完成のまま幕張メッセでの見本市インタービー出展で東京に来ております。

今日は若子の命日11月14日です。2013年に死んでしまってもう5年も経ったのです。それで今日は少し若子のことを思い出して弔ってやることにします。

中洲若子は大正 15 年 4 月 10 日に北九州若松の貧乏寺の三男坊と豊前の私生児の間で第一子として生まれました。その若子には 3 人の弟と 5 人の妹から「大きいネーチャン」と呼ばれて彼らの飢えた黄色いくちばしに食を探し運ぶ苦労鳥の運命が待っていたのです。その役割を死ぬまで担い昭和の時代を駆け抜けて行きました。

 「若子には尋常小学校出してやったから、そろそろ奉公にでも出てくれればいいが。女学校なんかにゃやれやしない」深夜父母の会話が襖越しに聞こえました。

第2次世界大戦が始まった年だったのでしょう。軍靴の音が密かに漏れ響き職業軍人と言うよりも口減らし二等兵の祖父も演習に駆り出されておりました。

祖父の写真らしい

狭い部屋に寝乱れている4人の妹と弟達に目をやり若子は決意します。翌朝若子は両親に「奉公に出ます」と告げました。女学校進学など夢に過ぎなかったのです。

15歳になると直ぐに母に連れられて福岡市の東の歓楽街千代町の置屋「吉良」に奉公に上がりました。置屋は貧しい家の特に器量の良い娘を事実上買取り将来売れっ子芸妓になるように躾けもするが掃除洗濯炊事それに主人の背中洗いなど女中代わりに使います。

芸妓に出し売れっ子ともなれば大きな移籍料が手に入る大切な商品ですから現代のようなセクハラの類いは案外少なかったのかもしれません。

若子が奉公に出た頃の写真でしょう。

置屋では娘を養女として親元から譲り受けることも多く若子も吉良から要請されましたが若子の父親は断わりました。若子の母親は家計の遣り繰りが下手で夫婦に諍いが絶えなかったが料理の腕は確か、食事は質素でも美味でした。

しかし吉良の家でありついた残り飯は糸を引くことが多く若子はそれが耐えられず一度は家に泣いて帰りました。「何でもするから家に置いてくれ」と。勿論そんな願いが受け入れられる筈はありません。

若子と士郎が生涯美味いものにこだわり続けるのはこの吉良の食事の恨みからでしょうか。以上のような話を若子から時々聞かされておりました。

そしてあの若子の店「赤ひょうたん」を再開して弔い客から意外な話を聞くことになりました。

赤ひょうたんの数件先の小料理店で仲居さんをやってる年を召した着物姿の婦人の話です。

「若子さんは本当に綺麗で品のいい人でした。小さい時から苦労されてね。私も少しだけこのお店で働かせて貰いました。優しい女将さんでしたよ」

「あんな時代ですから、まあ相応の苦労はしたでしょうね」

「若子さんは若い時京都で舞妓さんやってたそうですね」

「そんなこと言ってましたか。舞妓じゃないが訳あって一時中洲の芸妓、そう馬賊芸者をやってた筈ですよ」

なるほど中洲若子、生家貧しくその容貌を買われて京都は先斗町の舞妓だったと詐称していた訳か。いや若しかしたらどうせ奉公に出されるならば噂に聞く京都の舞妓に憧れていたのかも知れません。それに短い間でも中洲で芸妓をやってたとなるとやはり世間には冷たいものがあって辛い思いをしたのでしょう。

だがおっ母んに芸妓やってもらわねば中州士郎この世に 3 年しか生き永らえておらんのです。

なにぶんにも若子と確かな話をしていないので誤っているかもしれませんが中洲士郎がかすかな記憶を辿ると話はこうなります。お聞きください。

アイパオの話(その19)

昨日10日は爽やかな日本の秋晴れの中一路由布農園へ。幸せを噛み締めました。

農園では新沢さんが育てた里芋、生姜、そして菌を打ち込んで1年半遂に立派な椎茸が薄暗いアイパオの中で大きな傘を付けていました。

老婆(ラオポ)の渋柿。去年は収穫が早すぎたと老婆(ラオポ)に散々文句言われたので今年はまだしっかり熟らしております。

後ろがアイパオの椎茸小屋です。

大きな立派な椎茸にもうビックリ。家に持ち帰り一個だけ老婆(ラオポ)とバタ焼きして食べました。もう悦楽でした。アイパオ様様です。

12日大阪のお客様に届けます。

桑野さん宅の見事な紅葉。これを見て牛小屋を断念。人間の住む家に変更しました。

リックの家の紅葉。一昨年のように青が入った七色にはなりませんでした。

モグニゲル

モグラが退散したのは5m四方位の狭い範囲です。次回更に詳しく効果を調べます。

今日は足早に由布農園とアイパオの報告でした。