由布農園便り(その37)

農園の相棒のニイザワさんが逝ってしまった。92歳殆ど老衰だった。今日ご自宅にお悔やみに行った後、独り由布農園にやってきた。もうブログやめていましたが。この寂しさ如何ともし難くぽつりぽつりとキーを叩いて故人を偲ぶことに。

別府市の謙虚な小さなおうち、「俺にはこれでも十分すぎる」と更に縮んだお部屋にニイザワさんの遺影がありました。我が家を守り抜いて優しい家族を残しての旅立ち。残された家族、寂しくて寂しくて毎日涙するのでしょう。

人は誰もが藪から棒にこの世に生を受け、その後は半分諦めて覚悟して自分の人生を送ります。その群衆の中で仕事を天職と心得その人生を大切に燃焼させる姿を見ると本当に感動します。しかし相棒はその生の炎を燃え尽くし今はどこにもいません。仕方なくトボトボ歩きしてありし日の面影を追いました。

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その彼もいっときの人の噂の後忘れ去られてしまうのかな。あのスティーブ・ジョブスがそうであるように。いつしか彼を覚えていて慈しむのは小春日和の木洩れ陽に温まった一枚の枯葉と越冬支度のテントウ虫だけになるかも知れない。農園を歩く。

この由布農園は殆どニイザワさんの手作りだ。彼の愛情深い草刈りがいつしか一面に「翁草」を生い茂らせました。農園にはカヤの枯れ草を畝に敷いて島ラッキョウが育まれ、大切にされた農機具や大工道具たちが小屋に誇らしげに並べられ、彼の手で修復された草刈機や耕作機の中で土砂運搬機が異彩を放っております、これらは皆彼が廃物に命を吹き込んだものです。「ニイザワサ~ンって呼ぶと」「いゃ~」って照れて野良着姿が出てきそうです。

これがその農機具置き場だ。

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鹿児島を出て小松製作所に奉職して農業機械一筋で遠くイラク、ベトナム、中国に派遣された。「ジョニ黒でしたね。最高でした。そりゃ現地人に自慢しましたよ」異国で望郷の折チビリやったのでしょう。何度か免税店で手にして隠し持って手渡すとどうせもう酒は飲めないのに大の酒好きの表情を作ったものでした。

小松を定年退職後、隣の伊藤農園の手伝いをしていました。道路公団のエライさんだった伊藤さん、耕作はニイザワさんに任せっきりだったがその農園が手放なされてそのニイザワさん今度はルミカに有給で奉職することに。それがいつしか20年。ほんの僅かのアルバイト料なのに種や肥料を直ぐに自前で買い、自分はルミカの社員だと大変自負していました。道具には全てルミカと銘打ってそりゃ大切に手入れしていました。

これは2人して天下に自慢の運搬機。いつかニイザワさん運転を誤り川に転落した。あの時は危なかった。

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いつも黒板に達筆でToDoListの書き込みとチェックを怠りません。若き日の習慣でしょう。彼の整理整頓見るたびに感心し己の行儀の悪さに恥いっております。

白い杭は翁草の在処です。

農場入り口に聳えるのは彼が20年前拾って植えたクヌギ。背景は由布岳冠雪を戴いて静かです。

人が死んでも自然の風景に生きていますが、やがてその自然も消えてしまうのですね。

いや待てよ生きとし生けるものは全てDNAの中に生き続けるのじゃないかな。何百年か経ってニイザワさんの子孫が風に誘われてふらりこの農場の跡地にやってくるかも知れない。その人はニイザワさんと同じ様に人懐っこい笑顔でね。

これまで中洲士郎の人生の節目節目に登場し危機を救ってくれたあの偶然は一体何なのだ。後にして身体の血が騒いだような気がする。この由布岳の塚原の地にやって来て鍬を振るいニイザワさんに出会ったのは単なる偶然だろうか。そうじゃないかも知れない。それは塚原の枯野の一隅に残された野仏のように人知れず父親亥蔵が己のDNAにポツンと転写して僕に残した書置だったのかもしれんと思うのです。

今日の塚原の枯野一帯が冠雪を戴いた由布岳と一緒になってニイザワさんを送っております。さようなら。

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