中洲若子の話そ(その14)

例の東大に安田講堂を寄贈した安田財閥の話です。創始者安田善次郎は中洲と同じく素寒貧からコトを起こして中洲と違って大きな財を成します。主に金融業が主業で製造業では洋式釘の製造以外殆ど成功しませんでした。人材が育たない同族経営に起因したと述べられています。

以下の論文を参考にしております。
小早川洋一著:「安田善次郎死後の安田財閥の再編成」です。

読みますと今日の会社経営でも普遍的な問題です。同族経営が問題というよりも低学歴故に同族に取り入って自己保身に走りがちな役員の存在が会社を潰してしまうようです。

明治30年東大卒の優秀な入り婿二代目安田善三郎が明治38年エリート社員を集めて安田の産業進出を図りますが非エリートの古株たちの執拗な抵抗にあって敗れ虚しく安田を捨てて出て行ってしまいました。そして陰徳の人善次郎が大正10年に右翼の朝日平吾に刺殺され安田は危機に陥ったのです。

明治大正を死に物狂いで駆けた経済人が昭和に入ると国士気取りの暴漢に相次いで命を奪われました。社会が奈落の底へ落ち込んで行くのです。

その時代を父辰野亥蔵は耐えて生き抜きました。「死ねば人にそしられるだけだ。長生きするしかない」そう言って98歳まで頑張って生きたのです。

安田本家から救済の要請を受けて時の大蔵大臣の高橋是清はこれも東大法学部卒のエリートで日銀大阪支店長で金融危機の混乱を鎮めた辣腕家結城豊太郎を安田に送り込みました。

あの当時東大法学部卒と言えばエリート中のエリートで国家社会に嘱望されて使命感に燃えて奉職したのでしょう。しかしそれら賞賛と尊敬の中で非エリートの恨めしい抵抗勢力に泣かされる様子も論文にありました。

彼ら抵抗勢力は直ぐに「お家第一だ」ともっともらしい大義ををかざすのです。それも暗愚の跡取りの顔を伺いながら。今日でもその図式に大きな変化は無いようです。中洲にはそんなお勤めが耐えられません。だから起業して同族経営をやらない事を心に決めました。でないと楽しい人生が送れないと思うのです。

大正11年安田銀行の専務理事に就いた結城豊太郎はどんどん改革を進めます。これは凄いですね。先ず人材育成でした。早速母校東大の法学部から父辰野亥蔵をスカウトしたのを手始めに合計30名翌年は50名翌々年は180名のエリートを採用します。後に彼らが安田銀行を日本一のメガバンクへ引っ張り戦後は芙蓉グループの中核に成長します。次に金融業では将来の成長産業と貸付先の企業調査が肝要だとしてこれに優秀な人材を惜しげもなく注ぎ込みます。そうなると例の抵抗勢力はいよいよ御曹司を担ぎ上げて自己保身を露わにするのです。

会社ってのは大抵がそうやって内部崩壊するのですね。昭和4年結城豊太郎は無念のうちに安田を去り日本興業銀行の総裁に着きました。その後結城に引っ張られた父を始め沢山のエリートたちは後ろ盾を失い苦心を重ねある者は傷心のうちに会社を去ります。父辰野亥蔵は銀行を去り安田の数少ない産業である安田製釘の経営に携わり八幡と仙台の安田工業を発展させます。生涯鉄鋼業との深い関係を持ち東北鉄鋼協会の理事長に収まりました。

小学5年の頃、不思議なことに一方亭の跡地に建った県立図書館で分厚い紳士録を開いて父辰野亥蔵の来歴を知るわけです。

亥蔵は結城退社後も実力が認められて38歳で安田貯蓄の支店長に41歳の昭和15年福岡支店長に就任して九州最大の資金元となります。

亥蔵は昭和5年に妻を娶りますが男児に恵まれず10年間で5女を得ました。

一方亭にとって辰野は最重要の顧客、そして結城豊太郎ー高橋是清の繋がりから店の女将とは大変親密な間柄になりました

昭和11年2.26事件で高橋是清暗殺。世情は更に暗くなって行きます。愛する父親を亡くしたふさと朝子母娘は青年将校達を呪いました。父亥蔵が一方亭に出入りするようなったのはそんな時期です。

昭和17年当時一方亭は 高橋敏雄の後妻となっていた40歳の朝子が三代目女将として店を仕切っております。43歳の亥蔵は一方亭で博文と是清の生き方の影響を受けて参ります。家貧しく身売りされた娘達の境遇を憐れみ一方亭では彼女たちに目をかけました。出来れば元気な男児を残しておきたいと思うのも当然の世情でした。

女将の朝子の目に留まったのが16歳の中洲若子だったのです。当時の売れっ子芸妓といえば ふく子、奴、りつ子の三羽ガラス。いずれもどの旦那が身請けするか関心の中で亥蔵は芸妓でも仲居でもない未だ下女中の若子を身請けしました。とても異例のことだった様です。この時一方亭では朝子の取り計らいで大層な宴が張られて若子の門出を祝ったそうです。「私のためにそりゃ信じられんような祝宴やった」若子がポツリと言ったのを思い出します。そして昭和19年2月亥蔵は若子に待望の元気な男児を得て狂喜しました。亥蔵は千代町に妾宅を構え乳母まで雇って母子を大切にしました。

戦時中、物資がない時に5月節句の祝いに写真が残されています。中洲母子の前途は洋々としておりました。

これまでの話は以下の資料を読ませて頂いて参考にしました。高橋貞行著一方亭回顧録

中洲若子の話(その11)

まずお断りします。高橋トクシン氏はあの明治の元勲高橋是清の本妻でない血筋を引かれる方でした。高橋是清に認知されていないひ孫に当たっておられます。
たまたま是清と姓が一致しますのは彼の父親は高橋敏雄、若松の任侠大親分吉田磯吉の書生から京大を出て検事になった人です。

一方亭のルーツを辿りますと人物では伊藤博文、舞台は下関の春帆楼に行き着きました。

[以下春帆楼本店のホームページから引用]

春帆楼はじまりの物語「玄洋とみち」

春帆楼の歴史は、古くは江戸時代まで遡ります。

江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は、自由な研究をするために御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開きました。専門は眼科でしたが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供しました。

玄洋がこの地を選んだのは、隣接していた本陣・伊藤家の招きによるといわれます。当時の伊藤家の当主・伊藤九三は、坂本龍馬を物心両面で支援したことでも知られる豪商です。

明治10年(1877)、玄洋は「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業します。春帆楼は玄洋没後の明治14~15年頃、伊藤博文の勧めによってみちがこの医院を改装し、割烹旅館を開いたことに始まります。

伊藤博文が名づけた春帆楼の名

馬関と呼ばれていた下関は、北前航路の要衝として「西の浪速」と称されるほどの活況を呈していました。下関は、討幕をめざす長州藩の拠点でもあり、奇兵隊や諸隊の隊医(軍医)として長州戦争に参加した玄洋の人柄に惹かれて、伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋など、維新の志士たちも頻繁に出入りしたといわれます。

「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し…」と伊藤博文公が後に高杉晋作顕彰碑(吉田・東行庵)で讃えた晋作が組織した奇兵隊の本拠地が阿弥陀時(現・赤間神宮)であり、その跡地に建ったのが現在の春帆楼です。

春帆楼という屋号は、春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から、伊藤博文が名付けました。

ふぐ解禁、ふぐ料理公許第一号店に

明治20年(1887)の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が春帆楼に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てたみちは打ち首覚悟で禁制だったふぐを御膳に出しました。

豊臣秀吉以来の河豚禁食令は当時まで引き継がれ、ふぐ中毒が増加するなか、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。しかし禁令は表向きで、下関の庶民は昔からふぐを食していました。

若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして「こりゃあ美味い」と賞賛。翌明治21年(1888)には、当時の山口県令(知事)原保太郎に命じて禁を解かせ、春帆楼はふぐ料理公許第一号として広く知られるようになりました。

歴史に刻まれる夢舞台、日清講和会議

明治維新後、急速に近代化を進めた日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦しました。

日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診してきます。会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がりましたが、一週間前に伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表。

明治28年(1895)3月19日、総勢百人を超える清国の使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着しました。日本全権弁理大臣は伊藤博文と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名が臨みました。講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に繰り返し開かれ、4月17日、日清講和条約(下関条約)が締結されました。

下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示するために最適だったからです。会議の終盤、増派された日本の軍艦が遼東半島をめざして関門海峡を次々と通過する光景は清国使節団に脅威を与え、交渉は日本のペースで展開したといわれます。

ご覧のように日本で一番忙しい伊藤博文公が異常な程「春帆楼」に私的な情熱を傾けます。実は彼は稀代の色事師だったのです。しかめっ面しい政界の表舞台とは違って裏では飲めや唄えの艶な男女の世界が隠されていました。これは大変面白い商品開発の題材です。誰かが傑作に仕上げてくれるのを期待して精々さわりを描いてみます。どうぞ間違いのところは中洲のイカサマに免じてご容赦下さい。

中洲若子の話(その10)

のれんの向こうの赤いニス塗りの素朴な木製扉を押すと薄暗い奥に長い居酒屋でした。中洲は本能的にいい空気を感じました。掘りごたつに入り6品ほど注文を出し生ビールと芋焼酎を頼みます。酒肴どれも小粋で気持ちが行き届いていました。

最後に熱いお茶が出された時老兵中洲が改まって店の若い女将に問いかけます。

「つかぬ事をお伺いするが・・この店のはじめに着く一方亭、珍しい名前だが何かいわれでもおありか?」

時空に歴史的な接点が付く時に生じる微妙な一瞬の間合いがあって。

「この店のオーナーの高橋さんのお婆さんがやってた店(一方亭)の名前を残すために、しょうき屋の頭に付けたそうです」と。

あとで考えるとそうやって中洲が一方亭にたどり着くとあたかもその役割を終えたようにこの店から一方亭が外され遂に一方亭の名前が世の中から消失してしまったのです。もしかしたらこの中洲が皆さんに「一方亭の話」をするように何かが仕向けたのかも知れません。折々に触れて一方亭の数奇な運命を「中洲若子の話」の中でお伝えしましょう。

様子ではこの店は、若いが趣味のいい高橋オーナーの下で30代の腕利きの料理人が店を取り仕切っている様です。

相手をしてくれている歯切れのいい女性はその料理人と夫婦かもしれません。

「一方亭と言えば博多の老舗の料亭だった筈ですが」                                     「そう、何か千代町あたりにあったそうです。今もオーナーの両親は70を過ぎてご健在でそのお母さんのお店だったそうです。それでお客さんはその一方亭とどんなご関係で?」

「いや実は私の母親がその店で奉公してましてな。それで・・」

次に暖簾をくぐった時、オーナーの父上高橋徳親氏と連絡が取れました。

電話に「それで貴方の母上の店での芸名は何と仰ったか?」

「いや只の下女中です」と答える。暫く会話が続く。

敢えて一方亭の名前をご子息が出資する店「しょうき家」に冠して何かを待っていたら・・・一方亭を尋ね聞く見知らぬ男が出現したわけです。前世の因縁に導かれたようにとても懐かしそうな徳親氏の声がレシーバーから伝わりました。

2013年の暮れに高橋徳親氏と初めて「しょうき屋」で酒を酌み交わしました。  氏は80を過ぎて実に品のいい風貌で物言いも静かで味わいがあり茶人とはこんな人種のことだろうと得心しました。そして長いこと時代を超えて互いが今存在する不思議さを語り合ったのです。