中洲若子の話(余話その2)

ネットの検索エンジンってどんな仕組みなんでしょう。何でも調べ出せるが消されて行く情報も有るのですね。

母親の中洲若子の命の炎が細くなってしまってから彼女の奉公先が「いっぽうてい」であることを知りこれを手掛かりに中洲士郎のルーツ探しが始まりました。これを「中洲若子の話」として兎に角書き終えて中洲若子を弔ったのです。

最近は「一方亭」も検索にも掛からなくなってきました。一方亭のドラマが書に残らず歴史から消え去るのは寂しい限りです。

6月6日夜の事です。翌日からのチェリービールに添加するチェリーソース開発で大連にやって来たイケダ君と旅順の藍湾の賃貸マンションで飲んでおりました。夜も更けて取り留めない話がブログの「一方亭」に及んだのです。

8年前入社したばかりのフジイ君とイイダ君を連れて居酒屋「一方亭しょうき屋」の暖簾をくぐったのが探索の始まりでした。そのフジイ君が検索を続けたら遼東半島で日本建築の史跡を訪ね歩く粋人の写真ブログに「大連の一方亭」が収まっていたそうです。説明によると旅順の老虎灘の切り立った断崖の上に本家の一方亭を模して高級料亭が建てられたのは1932年、遼東半島が日本の租借時代だった頃です。本家の一方亭は戦後進駐軍に徴収された後焼失したのでその姿が僅かの写真に伝わるだけでした。なのにその雄姿が此処大連に残っているというのです。

イケダ君とバンちゃんが折角大連まで応援に来てくれたので張先生農園で仕事を終えて今日は2人に何かご馳走しなきゃと街に繰り出しました。最近大連空港前の通りにも万達集団が洒落たレストラン街を作りました。一画に大きな「龍虾館」が目に留まります。ロブスターを漢字表記したらそうなるのでしょうか。豪華な店内に客の姿は有りませんでした。メニューを開くとロブスター一皿270元(4000円)。まあいいかとオーダーしました。甘辛い味付けで傍の若いバンちゃん辛さに悲鳴あげながら元気にパクつきました。さてお勘定。なんと1050元(18000円)です。3斤半(サンチンバン)だと言ってます。そうかメニューの価格は1斤(500g)当たりだったのですね。金持ちに見えない客の懐を心配して、それで大きな生きエビをテーブルに見せに来たわけか。

中洲は気に掛けないフリをして銀レイカードで支払いましたがエラく高い食事、20年間の中国出張で一番高い食事に「ガクッ」です。

これが一皿15000円の料理です。

懐は厳しくなりましたが美味い食事にすこぶる気分良く、オリンピック広場のウオールマートで買い物を済ませて、ふと・・タクシーの運転手に老虎灘の一方亭跡に連れて行って貰う気になったのです。

80年以上の風雪に耐えた未だに勇壮な姿に当時の栄華が偲ばれます。一体日本の誰が此処に一方亭を建てたのでしょう。当時の一方亭の女将の高橋朝子はこの建築に関わったのでしょうか。もう少し一方亭探索は続くようです。

 

 

中洲若子の話(余話その1)

商品開発の話ならちっとも疲れませんが母親の鎮魂の話となると中洲士郎正直疲れました。読まされる方も疲れるのでしょう。このところ中洲ブログを覗かれる方がめっきり減っておられるようです。

若子の話が完了したので仲間を誘って薬院の「しょうき家」に繰り出しました。

有りましたよ~。世界にただ一つ「一方亭」の名前が残っていました。それは「しょうき家」の看板に赤いシミかと見まごう小さな細工。確かに赤い瓢箪そして懐かしい「一方亭」が彫られていたのです。

相棒は店に入る前にその造りを観察すると明智小五郎が虫眼鏡を取り出して覗くように左手の看板を調べ始めたのです。そして犯人の証拠でも見つけたように小声で「有りましたよ」と。

板前が作る家庭料理が揃って、中洲「じゃあ、かんぱ~い」に相棒から「今日は若子さんへの献盃だ」と。今宵は探偵作家にやられ通しです。

7年前と同じく美人の女将さんと料理をあずかる超イケメンのご亭主でした。何となく嬉しくて「こんな時は無粋なご挨拶は無用」と感じ一限客を装い黙って退出しました。

是非皆様も居酒屋「しょうき家」に足を運ばれて「酒よし肴更によし女将も良けれ」ば常連となって下さい。そして引き戸を開けるとき看板の中の赤い瓢箪を「よ~く見てやって下さい」

あなたにはこの赤い瓢箪、誰に見えますか?

中洲若子の話(その17完)

昭和28年士郎9歳の時でした。若子が西日本新聞の名士録で士郎の父亥蔵が東京から来福したのを知ったのです。若子悩んだのかも知れません。「息子に自分の父親の存在を教えておこう」と意を決して士郎に一人で父親に会いに行かせました。

記憶の始めが途切れておりますが若子が命じるまま当時国鉄枝光駅でホームから跨線橋の渡り通路を通って改札口へ向かいました。多分父の会社が枝光に有ったので枝光の駅舎で「御目通り」させる手筈だったのでしょう。予期せぬことに人気の少ない渡り通路で前方から「おじさんの2人連れ」が話しながら近づいて来たのです。小柄な年配の男と少し若い大柄な男です。一瞬この小柄な人が自分の父親だと確信しました。ジッと顔を見て「おじさんですか?」と問いました。少年という生き物は恐ろしく神経が繊細で鋭敏なのです。この時の2人の男の表情が網膜に焼きつきました。「違いますよ」との返事の代わりに喜びじゃなく大きな戸惑いが優しそうな顔に少し歪んで現出したのです。傍の大柄な男は何か興味深そうに笑顔を向けました。士郎は咄嗟に間違いであったようにその場を通り過ごしました。

若子が後々になって士郎に言ったことがあります。「お父さんに会えたか?嬉しかったか。」の問いに「何一つあんたは答えなかったよ」と。その後数度父親に会いましたが「この人にとって俺は迷惑な存在かも知れない」との感じを抱き続けました。

昭和50年に若子のパトロン飯山が肝臓ガンで亡くなった時は若子と老婆(ラオポ)3人で中洲の住居から浜の町病院に向かって申し合わせたように無言で心底お悔みと感謝のエールを送りました。

ほとんど笑顔を見せない野武士のような飯山の残した唯一の無駄口は「俺なら絶対に母子を見捨てるようなことはしない」でした。中洲の土地と家は若子に残しました。若子が50年生きて悪戦苦闘して握りしめた唯一の財宝でした。飯山が亡くなった翌年昭和51年に若子が食事の店を始めます。

店の名前は士郎が「赤ひょうたん」と命名。

入り口の看板は赤いひょうたんです。当時神戸三ノ宮に同じ名前のサラダを食べさせる店があってこれから借用したのです。

不思議ですねえ。一方亭の名前は「一瓢亭」から来たもので看板も赤いひょうたんだったと高橋貞行氏の一方亭懐古録にありました。

若子のポツリと漏らした「いっぽうてい」を10年ほどかけて追いましたら以上のような物語が出て参ったのです。

これで中洲若子の話はおしまいです。お付き合い頂いて有難うございました。   若子があの世に旅たって5年、やっと若子の生涯のほんの一部を記録に遺してやりました。

昭和を駆け抜けた1人の女の話です。平凡な家庭で平凡な夫婦に収まる人生に憧れながら沢山の男を渡り歩いた女の話でしたが・・・。書き終わると現実の人生の方が若子にはずっと合っていたように思えました。

中洲士郎、折角起業してお金は何とかなったのですから、もう少し若子に贅沢させてやれば良かったのかな?  中洲は身内には少なからずケチでねえ。

それでも「今日は美味いもの食べさせるよ」そんな時に足が向くのは新天町の蕎麦屋「飛うめ」の上天丼でした。飛梅は天神地下街にも有って足の悪い若子には楽でしたが新天町の少しうらびれた狭い「飛うめ」の方が2人には落ち着きました。

甘ダレが少しだけ天ぷらの衣に染み込んだふんわり真っ白いクルマエビの天丼を食べている時はお互い大抵無言で・・・確かに幸せでした。

中洲若子の話(その16)

ネット(地図の資料館)に古い中洲の写真がありました。

那珂川の河畔に建つ白い建物が文士や学者が集った喫茶店のブラジレイロ、その隣の黒い大きな建物が博多一番の高級旅館玉川です。戦災後区画整理で旅館玉川は跡形もなくなり女将の中川フクは川沿いで小さな割烹なか川を営んでおりました。市電のずっと先が東公園でその入口に「一方亭」があり終戦で米軍に接収されて指令本部になった後火災で消失してしまいました。3代目女将の高橋朝子一家は大名町の新雁林町に移り住んでおります。

この老舗の旅館玉川の女将は中川フクという中洲切っての女傑です。一方亭の三代目女将の高橋朝子の亭主高橋敏雄は中川フクの従兄弟(養子)で両家は親戚付き合いの中です。料亭と共存する花柳界は義理と人情の世界、若子は亥蔵に身請けされ士郎をもうけた後も朝子女将とフク姐さんこと通称「お福しゃん」には何かと世話になっておりました。

そのお福しゃんの仲立ちで博多の実業家飯山稔の世話になったのでしょう。飯山の奔走で米軍将校からペニシリンが手に入り千代町病院で喉の切開の後ペニシリン注射で奇跡的に士郎は一命を取り止めました。残った半分のペニシリンで治療費も免じて貰えたと若子が言ってました。当時はペニシリンは治療効果が絶大だったので大変な貴重品、当然高額だったのです。そして士郎の喉には記念に大きな傷が残りました。

「一方亭懐古録」を読んで初めて知りました。昭和26年夏中洲母子が中洲から移り住んだ新雁林町の間借りの青木宅から高橋朝子女将のお屋敷は目と鼻の先だったのです。この事は取りも直さず高橋家の皆さんから中洲母子ずっと目を掛けて頂いていた証なのでしょう。

ペニシリンの薬効は強烈でした。瞬く間にジフテリア菌は駆逐され熱も引き大きな喉の切開口もふさがり四才になった幼児の五感が躍動を始めたのです。それは確かに記憶に有ります。暗い部屋で一人寝かされておりました。家には誰もいません。目が覚めると頭がスッキリして身体はふわふわと浮くような感じでした。薄暗く湿った部屋から表(おもて)の長屋の軒を連ねた路地に下駄を履いて出たのを覚えております。兎に角生き返った心地よさを感じました。コンクリートがすり減って玉じゃりが浮き上がった共同洗い場を左に折れて更に薄暗い細い路地に入ると左側には馴染みの板塀、見るとそれが緑の苔に覆われ湿気を十分に吸って鮮やかな黒緑色に光っています。そこから小便の匂いが冷たく伝わって来ました。光が漏れているその板塀の節穴に目をやると陽光が本当に燦々と中の畑に降り注いでいたのです。

路地の先はヨーカンと称して板付基地を出入りする進駐軍の大型トラックがうなりをあげて突っ走る怖い大通りです。急いで右に折れてその先の更に小さなドブ川の手前土手道を用心して進むと直ぐに轟音が耳に入ります。鍛冶場です。裸の上半身が炎を受けて真っ赤に染った屈強な数人の男が大きな鉄の塊をヨイトマキで引き上げては真っ赤に焼けた鉄片に落としています。今考えれば鍛造作業です。おばさん達も働いています。皆んなそりゃ汚い格好でした。傍に座って眺めていましたが急に空腹を覚え再び家の前の道を通り過ぎて6丁目のドブ川を左に折れてコンクリートの橋を渡ったところにパン工場が有るのです。ここに行って窓越しに覗くと壁を伝ってバンが面白く走っています。パンの列が士郎の目の前にやって来ました。いい匂いです。コッペパンです。よく見ると割れ目にキザラの砂糖が美味しそうに光っていました。

若子は芸妓から足を洗いパトロンの飯山の出資で中洲人形小路に小さなバー「メーゾンお染め」を開店します。そりゃ置屋に売られてから客扱いの訓練を受け水商売の世界を穴が空くほど見つめて来た若子ですからバーは大層繁盛しました。「中洲の士郎」も皆んなに可愛がられて人気者です。しかし学業は酷いもので冷泉小学校の担任の中原先生は恨みでもあったのか一学期の通信簿は全て右端一列に⚫️印でした。

その楽しい一年生の夏災禍が起こりました。若子がパトロンの飯山とタクシーで一緒の時事故で顎に大怪我をしたのです。世間体もあって事故は表に出ず店は畳まれ若子は今度はしっかりと学問の街大名町に士郎を連れて引っ越ししました。顎に傷跡のある妙齢の色街娘と喉に傷跡のある中洲育ちのガキが静かな新雁林町にやって来て騒動を起こすのです。

高橋貞行氏が懐古録に懐かしい雁林町の地図を描いてくれております。

地図の中の新雁林町で青木宅を出て大名小学校に登校するところ。

左から中洲士郎、一級下の水の江君、青木君代、君代の親戚です。

中洲若子の話(その12)

真似ごとに文を書き始めるとつくづく作家の凄さが判ります。特に司馬遼太郎なんか「どうしてあんなに見たことも聞いたこともない歴史上の場面を登場人物に語らせる事が出来るのだろう」と。皆様も中洲同様そう感じますよね。

これって中洲の商品開発と同じく妄想の産物でしょうか。とすると我々読者は時に司馬遼太郎のイカサマに嵌められているかも知れません。

だったら中洲も一昨日の春帆楼の記事を分解して更にWEB記事を元にexcel表の縦列の見出しに西暦、元号、そして人物ごとに年齢と事件を書き込み横軸をカーソルに照らして妄想しました。

すると・・・。伊藤博文と春帆楼更には一方亭との関係が奇妙に浮き上がります。高橋是清も伊藤親分に振り回されているようです。

事件の芯にあるのは「山口げん」です。春帆楼が開店した明治15年に15歳のげんが奉公に入ったようでその後才色兼備の仲居頭として春帆楼の看板になり25歳(?)の頃是清に身請けされ娘「ふさ」を授かります。更にその「山口ふさ」は博文の手引きで「一方亭」の後妻に嫁がされることに。

俊輔の時代茶店の 娘「小梅」に命を救われ後々その恩を忘れず置屋に売られ芸妓になった小梅を身請けして芸妓上がりの女性をファーストレディにしました。その 梅子も良妻賢母の鏡であったと習っております。そもそも「芸妓上がり」と形容するのは後の人間の偏見でしょう。博文の時代、芸妓は(よく躾けされ文学や諸芸能を身につけしかも夜の生活も極めて巧みな)女性陣だったのです。だが梅子の理解をいいことに方々で芸妓と浮気しては子供をもうけ男らしく入籍を繰り返しました。博文さんは置屋に売られた悲惨な境遇の女性に特別優しかったのかも知れません。だから「山口げん」は伊藤博文の唯一の隠し子じゃないかと珍奇な妄想をしてみたのです。
裏付けにWEBから伊藤博文の年譜を拾いました。

慶応二年 1866

  1月     伊藤俊輔 下関に入る
  2月21日 伊藤俊輔 木戸貫治に鹿児島行きについて手紙を書く
  2月27日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔を親書伝達の使者として鹿児島に派遣することを下命する
  3月     伊藤俊輔 妻すみ子と離婚
  3月21日 グラバー 横浜より下関入港、高杉晋作、伊藤俊輔その船に便乗長崎に向う
  4月 8日 伊藤俊輔 下関に入る
  4月14日 伊藤俊輔 梅子と婚姻
  4月22日 長州藩 高杉晋作、伊藤俊輔に洋行の許可を出す
  6月 4日 パークス 英艦三隻と鹿児島に向う途中、下関に寄港し高杉晋作、伊藤俊輔と会見
  7月 3日 伊藤俊輔 下関より長崎に入りグラバーより汽船2隻購入の契約を結ぶ 五代才助にも交渉し薩摩名義で
    ?    伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と大村へ行く
  7月20日 伊藤俊輔 大村藩士、渡辺昇と下関に入り高杉晋作に紹介
  7月28日 伊藤俊輔にグラバーより契約の汽船二隻が幕府の強制買入れになったと連絡が入る
    ?    伊藤俊輔 村田新八と長崎に行く
    ?    伊藤俊輔 村田新八と上海に行き汽船二隻購入の契約を結ぶ
  8月26日 伊藤俊輔 下関に帰り汽船購入を藩に報告
    ?    伊藤俊輔 病気で寝込む

明治まであと2年の慶応2年幕末の志士達が走り回っているのが伊藤俊輔(博文)の年譜に見て取れます。この年妻すみ子と離婚して身請けした小春と結婚。しかしこの年の後半俊輔(博文)はどこで何をしていたのか。小うるさい前妻と別れて小梅と結婚ししかも下関で別の女性と同棲中?翌1867年に「山口げん」が出生しております。未亡人の藤野みちと共に春帆楼を興したと来歴にあります。兎に角博文は女性に優しい男です。認知してやれなかった15歳の「山口げん」が不憫で将来を案じて春帆楼をこさえたのでは。「げん」は博文の愛情に包まれかのソフィア・ローレンでも三尺を避ける程の美人に育ちそれだけでなく素晴らしい経営の才を発揮して春帆楼を日本一の料亭に育てます。

昔の男達は自分の子孫の幸せにもしっかりと心配りをしたのでしょうか。それで一番信頼し最優秀の人物の高橋是清に山口げんの身請けを頼んだのです。高橋是清は「げん」との間に愛娘ふさを得ましたが日本国の存亡を背負っていた是清は矢張り「げんの認知」に踏み切れませんでした。しかし先輩博文がやったように「ふさ」を素晴らしい娘に育てその末裔の幸を願って当時沈みかけていた博多の大料亭「一方亭」に送り込んだのです。

山口ふさが是清の隠し子であるのは公知だが山口げんが博文の隠し子であった記述は未だ見つかっておりません。

もしもそうだったら我らの高橋ノリチカ氏は是清のみならず博文の血までも受け継いで麻生太郎や安倍晋三どころでない高貴なお方と相成りますね。

「珍奇な妄想と商品開発」の話で中洲士郎のブログに立ち寄られた読者に中洲母子の身の上話など退屈極まりないことです。しかし伊藤博文と高橋是清が起こした事件と同じことを父辰野亥蔵が起こすのです。

秋の夜長WEBをブラウジングして父辰野亥蔵(仮名)を追ってみます。出来れば後3回程で「中洲若子の話」を終えます。どうぞお付き合いのほどよろしくお願いします。

中洲若子の話(その9)

1997年の暮れに実父辰野亥蔵の死を偶然知ったいきさつはお話ししました。そのあと亥蔵との何度かの邂逅を思い浮かべるうちに母親若子と亥蔵の出会いと別れを知りたくなったのです。

それで若子に尋ねました。「置屋の吉良に奉公に出てからどうしたと?」「いっぽうていで働いた。何か小説でも書くとね」若子がそれだけポツリと答えました。今思い返せば若子には一度も奉公先のことや仕えた旦那の事を尋ねた事が有りませんでした。ただ時折若子は書き綴った日記を読み返しては昔の想いに耽っております。誰かに打ち明けたかったのかも知れません。

長い間「いっぽうてい」と記したメモが残りました。2010年5月若子は両膝の手術後歩行が困難となって車椅子生活に、更には脳梗塞が進行して認知症がひどくなってきました。

天気が良ければホンダCRZで大濠公園に行き車椅子を押します。和白のサニーで弁当を選んでは湖畔で一緒に食事をすることもありました。若子はこのところいつも優しい顔をして殆ど喋りません。

大濠公園で車椅子の若子

一緒に弁当食べて

そんな若子を見ていると「もうそんなに永くはない。若子の人生を振り返らなくてはならない」と。しかしもはや若子の昔の記憶を手繰り寄せるのは難しい状態です。

それで若子の親弟妹達が映った昔の写真を拡大し繰り返し指先で追いながら記憶の回復を図りました。

だが「この僕誰かわかるやろう?」その問いに笑って「うん精一」「違うあんたの息子の士郎や」何度言っても彼女の頭には弟精一しかないのです。

今思えば精一に深い思いがあったのでしょう。精一がアル中で生活が破綻した時お金の面倒を見てやらなかったのを悔いているのでしょうか。士郎の辛い幼児期精一は本当に優しい叔父でした。いつか叔父精一の物語をして彼ら姉弟の魂を慰めようと思います。

若子の弟精一と中洲士郎

そんな訳で若子に昔のことを聞き出すには時既に遅かったのです。

仕方なく手始めにネットでメモの「いっぽうてい」を探してみました。

それは「一方亭」と綴り昔博多で栄えた料亭であることがやっと分かりました。終戦後米軍に撤収されて焼失したとの説明だけが絵葉書記念館に残されておりました。

その後も時折ネットを探っておりましたら「しょうき家一方亭」という変わった名前の居酒屋がヒットしたのです。

1年程経った2011年5月のこと中洲士郎は会社の若造の池山治行と新入女子社員を連れてやっとの事でこの店の暖簾をくぐりました。