ケミホタルの話(その12)

このシステムは栗本が考案したもので究極のリスク回避ビジネスモデルでした。

藤本と二人遠賀町の2DKのアパートでケミホタルを組み立てながら縁先に拡がる田んぼを眺めていました。するといつもじゃれ合って遊んでいた2匹の茶色の犬が見当たりません。

「可哀想に毒まんじゅう喰ったのかな?なあ藤本よ、俺たちもそうかな?」

ケミホタルの構造をお話ししましょう。小さなチューブにA液がそこに浮かぶ極小アンプルにはB液(酸化液)が封入されております。先ずアンプルですが普通アンプルと云えば注射液の入った薄茶色の首のついたガラス容器が思い浮かびます。

サイリューム6インチではその程度の透明アンプルに酸化液が3cc程封入されています。ところがケミホタルのアンプルは僅か0.05cc、小豆よりも小さく薄いガラスの皮に包まれます。                              

世界にそんなガラスアンプルは存在しません。その製造はF社の3人の技術者が独占し栗本も現場が覗けない様子でした。日本化学発光では士郎がプラスティックチューブ開発を担当しました。

ケミホタルの組立は極めて簡単。そのチューブに光の素の蛍光液を0.14cc入れて有田から送られるガラスアンプルを浮かせて蓋を溶着するだけです。

朝から晩まで物をいじくっていると色んな発見があり工夫を思いつきます。本当に面白いものです。栗本にとっての悲劇はお金は自分のものになったが技術開発からは蚊帳の外に置かれたことでしょう。

ところがケミホタルはサンプル段階では成功しておりました。しかし量産化すると<他人の製品をバラして作り直していると!>光らないケースが多々起こるのです。原因は有田で作るアンプルの微細な穴、遠賀でのスティック組立中の不純物混入と水分の上昇、それだけで無く米国での製造ミスに起因する事が判明しました。遂には全く原因不明での失光も起こります。兎に角理由を仮説し製品を選別しながらノウハウが蓄積されて行ったのです。

「エッそんな事出来るの?技術的に?採算的に?特許の問題は?」

やっているうちに全て答えが見つかって来ました。これは可能なのです。         他所の製品をバラして作り直す事業が成り立つのです。

古今東西誰もやったことのないイカサマのプログラムが描き出てきます。それがリスクゼロを狙った栗本じゃなくてこのリスク渦中に身を置いた中洲士郎の手に落ちたのです。ゾクッとして参りました。

先の毒饅頭の続きです。

藤本「そうかも知れんな」

中洲「秘密にされたアンプルをここで作り始めんと栗田に毒饅頭食わされるな」

士郎の脳裏に自動機械でアンプルが作られている模様が描かれ始めました。     有田では細いガラス管から一個一個手作業で作って機械化出来ていないのです。ガラスアンプルの製造自動化は必須です。

「その機械は有田の技術者達と共同開発すべきか・・・。」                           「それをここ遠賀でやるのは栗本に対して悪い企みかも知れないが・・・・。」「アンプル自動機械を作って栗本に見せてからでないと問題は解決しないだろう・・・・。」

人は謀反を起こす時「これは裏切りではない。彼奴の眼を覚まさせる為に仕方がない事だ」と自分に言い聞かせるようです。中洲も都合よく思案しました。同時に嵐の予感です。

ケミホタルの話(その11)

12月久留米の大島商会の大島社長と称するものが「自分も小型化学発光体のアイデアを持っていた。釣り向けに独占販売したい」と申し出ましたが余りに小規模で(つまり社長一人の会社)断わりました。

ところが大島は栗本を口説いてまんまと独占販売の約束を取り付けていたのです。多分11月の栗本の新聞発表を誰かから知らされて栗本に接触していたのでしょう。500万円が栗本の手に渡りました。

翌1979年1月士郎の一方の素寒貧仲間藤本の自宅がある遠賀川に作業用アパートを借りることになります。月額20000円の家賃は栗本から出ます。

ブルーシートを敷き詰めた畳の上には中洲等の手製の装置を、押入れの2階は土海が会社から持ってくる分析装置を並べます。

押入れの一階は士郎の寝室です。中洲士郎、赤ひょうたんは喧嘩して飛び出しているのでここしか行く所がありません。

共同事業と言っても栗本、土海、福井にはそれぞれ職場があって報酬を得ていますが士郎と藤本は無給です。藤本は自宅がそばで独身、弁理士事務所のアルバイトでもせいぜい5万円しか稼いでいませんでした。

しっかり稼いで5人家族を養っていた士郎、無給でこの工場に独り寝泊まりすると共同事業が割に合わないし行く手に不安が募ってまいります。(こりゃヤバイという思いで)とにかく試作品作りに精を出しました。

原料がないから仕方なくサイリューム6インチをバラして原液を取り出します。植木鋏で切り出したチューブから発光液のA液(蛍光液)そして中のアンプルからはB液(酸化液)を取り出し液を検査してB液は有田に送りアンプルに加工してもらいます。

次に届いた酸化液入りのアンプルを使ってケミホタルを作り検査して包装するのです。

ここで金を握った栗本の謀略が見えて来ます。アンプルは有田で会社の研究者グループ3人に作らせスティックは士郎が命名した日本化学発光に作らせて製品は大島商会に独占販売をさせる。

自分たちは安全に元の会社に居ずわるという算段です。日本化学発光の経理は自分が奉職するF社の経理課長に給料出して任せています。まあ何という奇妙な構図でしょう。遊興三昧の栗本によって会社の出金伝票がドンドン切られます。栗本の懐にある会社の金は減って行くばかり。この会社は一体誰が責任取るのでしょう。

ケミホタルの話(その10)

    1978年6月陶工へのはかない夢を捨てて世界初小型化学発光体開発に起業をシフトします。その名もルミナスプロジェクトです。

3月に福岡市天神の酒井ビルに「貸し机業」の会社、天神商工センターを見付けて契約していました。机と電話それに受付代行付きで月額25000円です。そこの女社長、6月から机無し(即ち立ち話で)の条件で快く月額15000円にまけてくれました。この手の職業人は大抵素寒貧のテナントの内でどいつが起業の夢を果たすかの予想を楽しんでいるフシがあります。

小石原を諦めてからは午前中は商工センターで何となく仕事をし次に赤ひょうたん2階で100個程の握り飯を作ってタバコ屋に並べ若子の居酒屋の手伝いをして夜中2時帰宅の生活が続きます。

失業保険受給も終わり握り飯で稼ぐ月5万円ほどの収入もルミナスプロジェクトに喰われ資金が底をついてしまいました。

 丁度その頃運命のケミホタルのサンプルが上がって来たのです。生産の様子は分からないが殆ど栗本の手作りでしょう。

それにしても大したものでサイリュームを50分の1にまで小型化出来ることを証明した栗本の功績は実に大きいのです。

そこで栗本を世に出すのを自分の使命にしようと士郎が心に決めた矢先の11月、前触れなく日刊工業新聞に大々的に記事が掲載されました。

栗本の常套手段です。

「有田のF社の栗本氏世界で初めて小型化学発光体を開発」との見出しが踊っています。だが記事の内容は事実と全く異なっていました。

「発明元のアメリカンサイアナミッドの技術を凌駕する発光性能」もう無茶苦茶です。

ルミナスプロジェクトまで載せられています。

大変なことになりました。これはもうイカサマでなく詐欺です。問い合わせがどんどん壁際に置かれた電話機に掛かってきます。品物なんかありゃしません。   サイリューム製品をバラして数個のサンプルを作っただけです。

そもそも工業化するのに未だ肝心の原料が手に入っていないのです。しかし中洲士郎も栗本と同じく根がイカサマ師。資金も底をつきここはもう開き直るしかないのです。失うものがないと思うとこの危機も少し小気味良く感じます。

この時の経験が自分を危機に追い込んで解決を模索するというその後の12件の危機にパターン化されてしまいました。

さあ原液獲得を急がなければならない。数個だが実際に超小型発光体が生まれたわけで上手くすれば大きな市場が手に入ります。

前回申し上げたように中洲士郎達が思いつくこと位は世界中で沢山の連中が考えています。まずいことに新聞記事を見てもう誰かが既に生産に取り掛かっているかもしれません。急いで日本サイアナミッドに掛け合ったがアメリカ側は絶対原液は出せないと言っているとの返事です(国防省との共有特許で技術も原料も門外不出だと)。

名古屋大学の化学発光研究の第一人者神田教授に頼んでも今の日本の化学技術では到底合成出来ないと断言します。これは小型化が出来ない事が証明されたも同然。そうであれば素寒貧の日本化学発光にも勝機があるのです。

栗本は焦って士郎に対して「中洲は英語出来るんやろ。サイリュームの発明者ローハット博士を買収し原液を入手しろ」と抜かします。この提案を鼻から無視して日本サイアナミッドから6インチ製品の購入を開始して栗本にサンプル生産の数を増やすように指示しました。栗本は何としてでもアンプルを量産しようと会社の同僚3人に独占を条件に開発を依頼したようです。

中洲の懐は更に苦しくなって来ます。

後で娘が言うのには小学校の積立預金迄引き下ろしたらしい。こんな状況なのに中洲は老婆(ラオポ)に家の残金幾ら残っているかを確認した記憶がないのです。

ケミホタルの話(その9)

一体サイリューム小型化の思い付きは何処から来たのか記録を残しておきましょう。

中洲士郎実は釣りは得意ではありませんでした。

幼少の頃は1人でよく室見川でハヤを釣って遊んだものですが社会に出ては中洲タエの兄、正清に連れられて富士五湖でワカサギ釣りを楽しむ程度でした。この義兄は凄く男らしい男で中洲の憧れ、老婆(ラオポ)以上に別れられん親類です。この師匠に自慢したくてマブチモーターを仕込んだ世界初の電動ワカサギ竿で. 凍てつく相模湖で勝負しました。新開発の道具に痛く感心すると思いきや氷の穴を前に只笑っていたのを思い出します。

諸君もきっと士郎と同じような経験がお有りでしょう。

「一体全体何故あの時あの場所に行ってあんな経験をしたのだろう?」            後になってそう振り返る事があります。

1976年の夏、突然今までやったことがない夜釣りを試そうと釣具店で電気浮きを買い求め独り車を走らせ和歌山に入る手前の磯場に立ちました。

暗がりの中、磯の先端で安物の5mの継竿を振ります。ところがその第1投目が沖合の岩に当たったのかカチッと音がして浮子の光が消えてしまったのです。     実にバカな遊びでその後は釣りが出来ずにすごすご引き上げました。

電気浮子は高価で壊れやすいとの認識がトンマな士郎の頭に焼き付いてしまいました。これが1年後にサイリュームを知った時即座に夜釣りの浮子のアイデアに結びついたのです。

「中洲士郎の思い込み論」では世界中に同じ時期に200人が同じアイデアに閃くのです。だが次に進んで図面に描きサンプルを作るとなると10人位に絞られるというものです。

中洲は現状では誰もこの超小型化学発光体開発の第二段階に踏み込めていないと予想しました。

ケミホタルの話(その8)

夢は夢としても先ず食っていかなければいけません。窯暮れでは到底家族は養えない。こうなることは分かっていましたが寄り道しました。労働者は辛いが、かと言って今更技能士や芸術家の道を模索するのは大学に戻るに等しく難しい。何しろ大学で何も学ばなかったのですから。

確実にやるべきことは先ず日銭を稼ぐこと。何しろ家族が居るのです。そして手持ちの金はどんどん消えて行っております。失業保険ももうすぐ打ち止め。今更就活など出来はしない。

自分の発明カード等鼻から信用していないし自分がトンマであることを確信しています。中洲士郎のDNAにはそのことが書き込まれており生まれた時から生き延びる選択をさせられました。それは自ら選ぶよりも本能的な選択でした。

そしてこれこそ運良く今生き永らえている生物に共通していることでしょう。何をするか何を避けるか判断するのに我々は時に大胆に時に臆病でなくちゃいけません。

「握り飯を売る」それは中洲士郎の確実で賢明な選択でした。

ケミホタルの事業化は博打だから握り飯という保険がいると考えました。小石原から戻ると中洲若子の「赤ひょうたん」の半坪のタバコ売場が士郎の持場です。旬の食材を用いた炊込みご飯3升に最高の味を出したので普段は30分で売り切れました。ヤクザが外車に女を乗せて買いに来ることもありました。この仕事は肉体労働より楽だし改めて勉強する必要もありません。

だが雨が降れば惨めで一個も売れず近所のホステスに只で配ります。家に持ち帰れば子供達が「又一週間、味ご飯の焼き飯か!」と嘆きます。

当時まだほっかほっか亭は出現していませんでした。良い米の炊きたてご飯に起業の可能性の匂いがありました。しかしお天気商売で結局その日暮らしから抜け出せないでしょう。従って飲食業も中洲士郎の選択には残りませんでした。

やはりケミホタルしかないのです。

そのケミホタルの主導権は有田の栗本の手に移っていました。夢を見るようになりました。前の会社に戻って机にしがみついている自分の惨めな姿を。そこには何時も前の会社の社長はじめ同僚達の侮蔑の目があったのです。

余談ですが第1話「ケミホタルの話」でケミホタルの発明者は誰か?を明かします。そして起業してから降りかかった13回の危機克服秘策を次々に明かして参ります。

その中で第10番目に東日本大震災遭遇がありました。

3月11日福島の久之浜で巨大津波を目撃し避難民生活の後ヒッチハイクで福岡に戻ってテレビを観ました。

東電社長の出演に思わず「ダメだ直ぐに福島原発に向かえ!突入しろ!世界中がお前を見ているぞ」と虚しく呼びかけました。

彼の学業秀才のDNAには想定外での処方が書き込まれていないようです。そして取り返しのつかない愚か者の烙印が押されてしまいました。

危機に直面したら一瞬にしてその利用法を模索すべきと思うのです。商品開発そのものです。大震災からだって起業のネタを探そうと中洲士郎は久之浜中学の体育館で夜中パオ事業を思いつき画策しました。

中洲士郎は取るに足らない人生と降りかかる危機の滑稽譚をこのブログに記そうとしています。いつか誰か一人の目に止まって相づち打ってくれるのを期待します。それは曾孫かも知れません。

嫡出子と非嫡出子に何の違いはなくスティーブ・ジョブスと中洲士郎だって同じこと。人間死ぬまでどう演じるかだと思います。悲しいが一兆掛ける一兆ものDNAの組み合わせに人智は及びません。そこには生き延びる術が書き込まれているので、DNAのささやきに素直に従って今を生き延びること、そうでなければ東電社長のように即ゲーム終了もあるのでいい格好などしちゃいけないと思うのです。

 

ケミホタルの話(その7)

小石原(こいしわら)村梶山の山一窯とのそもそもの出会いをお話しましょう。

中洲士郎高校生の時、都落ちの附設の勉強が嫌で5万分の1の地図を手に独りトレッキングをしました。時にはヘッセの漂泊の人の気分になって「フランス詩集」を手にベルレーヌやランボーを暗記しながらです。

ある時福岡の名峰英彦山に登らず日田の方に歩いて薄暗い林道に入りました。樹々が生い茂り見通しの効かない細道を甘酸っぱい野イチゴを食べながら歩く事2時間、突然視界が開けた先が小石原村だったのです。

当時は小石原川に沿って粗末な木造の窯元が並び唐臼が沢山音を立てておりました。村外れの一軒の小さな作業小屋に立ち寄りました。梶山の山一窯でした。隙間だらけの野地板で冬の隙間風がこたえそうです。蹴ロクロ1台の作業場から瘦せぎすの50がらみの陶工が前掛を置いてにこやかに迎えてくれました。英彦山から歩いて来たと告げると作業場の奥から家族も出て来てお茶と山菜漬けを振舞ってくれます。後で聞くと3人娘の親父は男児が欲しかったらしく男の子に目が無かったそうです。帰りにはコーヒー碗を新聞紙に包みバス賃までくれて見送って貰いました。その後も遊びに行くようになり家族の皆さんと親しくなり50年経ってもあの日の事が話に出ます。いつのまにか「爺さんが貧乏高校生士郎に2000円上げた」と話が膨らんでおります。実際は50円位のバス賃でしたが使わずに夜道を大隈迄歩いて行きました。その夜道を大きな茶色の犬が何時迄も付いて来てくれた記憶が残っております。

そこの親父が好きになってちょくちょく顔を出しました。本当の父親みたいでした。泊まって行ったこともあるらしい。子供は3人姉妹で長女は高校生、利発そうな娘で窯元だから婿養子を取るのかと想像しました。言葉を交わした記憶はありません。

しかし縁は奇なものですね。山一窯にとって「赤ひょうたん」はお得意様で中洲若子は大切な客人だったのです。

2011年頃車椅子の母若子を連れて梶山を訪れました。そしたら思いがけず、和服がよく似合っているカツエさんが現れ窯元の女将姿も板に付いて囲炉裏で若子と士郎をもてなしてくれたのです。

おっ母ん殆ど口は開かなかったけれど帰りの車では、それは嬉しそうに思いに耽っておりました。

「それで焼物修行はどうなったか?」というと、

6月のある早朝家を出て直ぐに広い車道でネズミ捕りに掛かって免停を食らったのです。もう悔しくて悔しくて「この先ネズミ捕り」の板ギレを振って取り締まりを妨害しながら・・・ふと、窯暮れ人生の半年の夢に見切りを付ける気になったのです。今も自宅のガレージに蹴ロクロが豊太郎直伝の左蹴りでの一升徳利の再生をじっと待っております。

秀吉の朝鮮の役で沢山の陶工が日本に連れて来られました。先ず唐津や伊万里に入ったのでしょう。彼ら陶工達は北の方に故郷を偲びながら良質の陶石や陶土を探して九州各地をさまよいました。日田英彦山線で英彦山の先に岩屋という駅がありここから日田の方に歩くと小川に沿って小鹿田(おんだ)村に出ます。                  

ここ小鹿田焼は小石原焼の兄弟窯だと紹介されていますが民芸運動でバーナード・リーチに激賞されて小石原焼よりも一躍有名になりました。問題は蹴ろくろの回転方向です。豊太郎爺さんの説明では小石原焼では右蹴りで右回転。それに対して小鹿田焼は左蹴り左回転だそうで小石原では豊太郎爺さんが唯一左回転だそうです。だとすれば豊太郎唯一の弟子の中洲士郎が小石原焼唯一の左回転陶工となったかもしれないのです。

この次小鹿田と小石原に行かれたら轆轤の回転方向を見定めて下さいね。

中洲士郎、失業してから三つの仕事を同時並行で進めて独立開業を模索することにしました。一つは若子の「赤ひょうたん」の軒先を借りて「握り飯」を売って日銭を稼ぐこと。次は「ケミホタル」事業化のための「ルミナスプロジェクト」を開業すること。そして欲張りだが陶芸家の道を探ることでした。

そんな経緯で陶芸家の道は諦めました。次に握り飯屋の話をしましょう。

ケミホタルの話(その6)

秋月から江川ダムを抜け小石原川に沿って車を走らせせると、日に日に風景が変わって行きます。梅が咲き桃に変わり桜から梨の白い花へと。

失業保険で生活する身で見る風景は確かに以前と違うのです。何もかもが生命の息吹に溢れて、いとおしくなります。失業者の心情を察するように川べりの石までが語りかけて来るようです。

又しても余談ですが「あの失業中が優しくていい男やった。会社が大きくなってからはカス男だねえ」とは老婆(ラオポ)の老公(ラオコン)評。

大体女性ってのは「尾羽打ち枯らした男」に案外惹かれるものらしく、しょぼくれているが優しい男が意外と綺麗どころにモテるらしい。多分老婆(ラオポ)の品定めもそんなもんだろう。

ある時小石原川に2トントラックがホイストを延ばして石を取っているのを目にしました。石を観る目はありませんが黒曜石というのか黒光りして楕円形で小さな斑点のある1トンほどの岩が釣り上げられています。思わず庭師姿の親父に「いい石だな。分けてくれるのか」と声を掛けたら「いいよ。二日市か。植木も付けて明日運んでやろう」となりました。

翌日驚いたのは中洲タエです。田主丸からやって来た親子の庭師は泣きべそをかかんばかりのタエを見て事態を察知します。庭石3個と植木5本ほど都合50万円のところ同情して30万円をタエから受け取りました。

それで士郎「会社を立ち上げたらその庭園は全てあんたんところの田野中造園に任せるからな」と言いますと「奥さんも大変ですねえ」と抜かしてトラックを走らせて行きました。それから7年後のことです。古賀町の新本社の庭園を200万円で発注して借りを返したのです。

この田野中家とはその後も奇縁が続きます。中洲は人見知りする癖に他所のうちに案外厚かましく入り込めるのです。小石原の窯元梶山やまいち窯もそうでした。そして御縁が長く続きます。田野中家には3歳くらいの可愛い女の子がいて爺さんが孫と植木を同じ目で愛おしんでいるようでした。ここの婆さんは何時も優しい笑顔でお茶を出してくれます。筑後川沿をドライブしては一服にあずかるお家になりました。

一番驚いたのは、あの時の可愛いケイコちゃんが偶然も偶然ルミカの今の企画部長のお嫁になったのです。それに腕の高いデザイナーで漫画も良くしており「漫画ケミホタル」も相当彼女の手が入っているのです。

庭のあの時の松は枯れました。ヒマラヤシーダはタエに切り倒されましたが山茶花の獅子がしらと金モクセイが美岩と一緒に残っております。

素寒貧が買った石と山茶花

ケミホタルの話(その5)

   1977年12月28日早朝フェリーは行橋港に着きました。ふる里Uターンです。

失業の不安を懸命に隠す中洲士郎と初めての家族揃っての旅にはしゃぐ子供達を乗せたニッサンサニーが一路二日市の新しい我家へ向かいます。

M団地は県内でも最安値クラスで住宅公社開発の団地です。建売り物件はいわゆる文化住宅という平屋の如何にも住めるだけの代物です。安さだけでなく長閑な田んぼに建つ木造の小学校が気に入ってこの場所を選びました。40年後の今もタエと士郎の棲家です。-

中洲士郎には今もそうですが凡そ経済観念が無く在職中は毎月殆どの給料を使い果たしていました。退職金が臨時に加わっただけの手元資金は100万円を僅かに超えるだけです。失業して住宅ローンも始まるし、さすがの士郎も不安がつのって参ります。

諸君!会社辞めても決して焦ってはいけないが少しは蓄えを残しておこう。とにかく出費を抑えて生き延びるのです。必ず転機が訪れます。

中洲士郎、職は失ったが自由を手にしました。まあ失業保険も貰えるし暫くは喰って行けるだろうと自分を慰めます。1978年の年が明けました。さて何を始めようか思案しましたが、ケミホタル計画に直ぐに乗り出す気にもなれません。少しだけ時間を楽しませてもらいましょうとライトバンを走らせて焼き物の村「小石原」に行きました。

高校時代何度か遊びに行った梶山豊太郎のうちを覗くことにしたのです。78歳になった豊太郎爺さん、聞けば本家を飛び出して行者杉の下で独り単窯を焼いているというのです。訪ねると喜んで迎えてくれました。

「爺さん!弟子を取る気はないか?弟子がダメなら手伝いをしよう」それから毎日通っては手伝いを始めたのです。

小屋を整理して爺さんの写真を飾り新聞に売り込み徳利を引けば日本一とふれ込みました。実際豊太郎爺さんの技術は凄いのです。それに話術も巧みでたちまち小石原一の人気爺さんになりました。そして見物客にはこの失業者の士郎を「先生だ」と紹介するのです。

士郎も調子に乗って底に穴が空いた花瓶をエポキシで塞ぎ「豊太郎名人の失敗作だ」とか何とか言ってはガラクタ壺を売りまくるので爺さんも調子に乗って島根から植木鉢を仕入れて売り始める始末。小石原の「イカサマコンビ」の誕生です。

爺さん金が入ると原鶴温泉に行っては芸者を上げて飲み明かします。本家で噂しました。「あの時の高校生、20年経って今度は爺さんをたぶらかしにやって来た。持ち山の杉を売って金を作ってニューヨークで個展を開くらしい」と。

豊太郎の名人芸をニューヨーカーに披露しようと思ったのです。実際豊太郎爺さんはこの士郎のプランに大変乗り気でしたが実現しませんでした。

高校生時代から続く爺さんの三人娘家族との親交は中洲士郎の人生の宝です。長女の「かつえ」の亭主ジロウさんは大皿焼かせれば小石原で右に出る者が居ないと言われています。それに大した男前で文化サロンの陶芸教室は今でも女性陣に評判です。

そのジロウさん「俺は種馬よ。息子を作って責任は果たした。人生楽しむだけだ」と屈託ありません。ある時中洲士郎を爺さんの窯で捕まえて「お前だったのか?うちの嫁さんの初恋の相手は」と。思いもしないその一言で士郎の失業者の暗い人生がいっぺんでバラ色に染まりました。

「あのかつえさんが俺の初恋の相手だったなんて!そんなのあるはずない」だが男前のジロウさんに敢えてそれを否定しませんでした。なんとなく女性にモテる気分を味わいました。

この気持ちのいい陶芸家夫婦はそれからもずっと士郎の会社を応援してくれています。

梶山豊太郎。中洲士郎のただ1人の師匠

ケミホタルの話(その4)

中洲士郎が創業者から特別待遇を受けていたセラミックス商社を離職することになりました。その経緯はこうです。

中洲士郎は独立計画バインダーの中の超小型化学発光体というB6インデックスカードを栗本に切ってからは、独立という淡く甘い夢が急速に現実味を帯び始めました。

1977年夏大阪中之島図書館で閲覧したACCの基本特許の資料やサイリューム製品1箱640本をACCの日本子会社から取り寄せて栗本に送りました。開発が順調との粟本の知らせが入ります。心が騒ぎ出します。「ヤッパリもの作りの仕事に入りたい。栗本のように光ってみたい」と。

土台どこから今のような商いの道に迷い込んでしまったのだろうか。そもそも冶金工学を選んだのは若子の旦那の山田稔が勧めたからでした。彼はボイラー屋で父親の亥蔵は釘屋。どちらも金属系だったわけです。

然し全く面白くない学問でして毎日退学しようと考えているうちに若子と同年の植田教授に出会い教えを受けて実験装置作りと理論を検証する作業を通して生まれて初めて学業の面白さを経験させてもらいました。

就活では山田稔のコネで北九州のS金属の線もありましたが気乗りしないしおまけに手にした「トーマスJワトソン」の伝記にミシンのセールスマンが60歳で起業したIBMを世界3位の大企業にする下りを読み「先ずセールスを覚えてみよう。製鉄所勤めでは世に出れんだろう」となんとも気安く進路を変更したのです。

そして植田教授に探して貰ったのが大阪にある小さなセラミック商社でした。

「この会社を辞めようか。辞めさせてくれるかな」遂に覚悟を決めました。大阪駅前旭屋書店の喫茶店でしたためた「不退転の決意で会社を辞す」との大仰な書き出しの辞表を総務部に提出して数日、全く予想外に辞表がアッサリ受理されて愕然とする中洲士郎でした。

1977年暮れ10年世話になった会社を遂に強く引き止められることなく退職してしまったのです。12月27日、日産のオンボロ車に同乗したのは柳川タエと幼い3人の子供それに手乗り文鳥の文太と幼鳥8羽。メスは逃げてしまっていません。

西宮からフェリーは福岡の行橋に向かいます。真夜中、デッキで独り漆黒の海が東へ流れて行くのを黙って眺めていると背後から「アンタ大丈夫ね?」柳川タエの声がします。            

「そうか。ただ面白いから真っ黒に泡立つ白い航路を見ていただけなのに身投げでもしないかと心配される境遇になったのだ」

国に戻り母親の店に身を寄せての一時、士郎の里帰りで(一緒に赤ひょうたんがやれる)と歓喜した中洲若子でしたが士郎の別の独立開業の企みを知って失望します。そして調理場をサボっては夜な夜な仲間を集めての二階での密談。若子と大げんかになるのが1978年大晦日近くでした。士郎から脱いだ割烹着を投げつけられた若子「何を!裏切り者め」とばかり激して店の円筒石油ストーブを蹴倒しました。

士郎は仲間たちが待つ人形小路の「かげやま」へ一目散。この「かげやま」という店は 中洲士郎それに妻の柳川タエが一番懇意にしておりここの女将は正しく「粋のかたまり」でした。中洲若子の店とは対極の雰囲気で森繁久彌が終生愛し続けた、止まり木5脚の居酒屋です。

壁一面には久彌直筆で「酒よし肴さらによし。女もよければ来てみんしゃい」と大書きされております。

中洲若子それが癪の種で「かげやま」には終生強いライバル意識を持っていたようです。死んでしまった今では、おっ母に悔しい思いをさせたことが悔やまれます。

その「かげやま」で「日本化学発光株式会社」の旗揚げ式を行いました。だがその事業は粟本主導で進みます。有田焼のK社を巻きこみ更にM百貨店外商部も加わり粟本は暗黙のうちに仲間の首班に収まります。粟本はキラキラした目の野心家で世の成功者の一人に列せられる素質は充分にありました。

但し彼の欠点は吹聴したがる事、それも事をなす前に誰彼となく自慢することでした。そして自縛にハマります。

ケミホタルの発案者が自分でなければ辻褄が合わなくなりました。「じゃあ中洲士郎は何者だ?」「あいつは山師だから首にする」との話が士郎の耳に入るようになるのです。

中洲士郎起業13番危機の最初の1番がそこに待ち受けていたのです。

思えば「あの若子の卵管での精子事件」以来世に出ても飽きもせず危機が続きます。死ぬまでトンマの中洲士郎なのでしょう。しかし皆さん。一つ一つの危機が実は面白く思い出されついつい喋りたくなってしまいます。これから時間をみては危機13番の顛末をここに綴って参ります。

ケミホタルの話(その3)

この4人の仲間たちとの出会いはこうでした。

中洲が社会に出て8年経った1977年、身を置いたのは窯業界、そこは泥にまみれ灼熱に炙られる最後進性の業界です。そこにファインセラミックスという耳慣れないハイテク製品が登場し京セラが大躍進して参りました。ならばと当時技術系新聞の紙面を賑わしていた気鋭の(売名の?)技術者、F社の栗本に依頼して(誘い出して)中洲が奉職していた会社で彼の開発物語をさせたことから事態が動き始めたのです。

ホラとは分かっても京セラを射程に捉えるのは有田のF社であり技術主任の栗本だと言う話は中洲の心を揺さぶりました。

栗本は無邪気に自分を天才と信じる活性の男で中洲には自分と同質の匂いが感じられます。会社で彼の圧倒的な自慢話が終わり大阪梅田の地下街で一緒に安い夕食をしながらお互い独立の夢を語りました。

互いが独立起業の夢を追っていることを確認すると「それではイザイザ」両者は独立カードを切りあいます。粟本のカードは猫用避妊パンツ、中洲が最初に切ったのはケミホタルでした。

猫の避妊パンツなど如何に下らんアイデアかを説明する必要は有りませんでした。栗本は無類の釣りマニアでそれから約1時間伊万里湾青島でのチヌ釣りの極意を聞かされたのです。

当然のように「ケミホタルの開発に是非加担させろ」となりました。

ケミホタルの開発ではガラス細管の加工が必要です。技術者と設備がなければ話になりません。有田のF社なら少しは可能性もあるだろうと栗本に開発を依頼したのです。

栗本は取引先S製作所の土海と九大研究員の福本を開発仲間に引き込み 中洲士郎は福岡で懇意にしていた弁理士事務所のアルバイト藤本を誘いました。栗本は自社の社長や経理課長もケミホタル開発で儲けさせると焚きつけます。大阪から遠い有田で騒ぎだけ大きくなって来ました。事態は少しまずい方向に進んでおります。

F社の故深田正一社長は東大出の深田家入り婿。実に純で栗本と因襲の焼物の街、有田にファインセラミックスの灯をともすのに躍起の夢追い人でした。経済畑で技術に暗いので栗本の口車に乗せられ会社の本業を離れて一緒にケミホタルで大儲けをしようとの栗本の誘いに乗ったようです。

深田には博多の中洲に想いの女性がいます。「バー白馬」の美人ママがその人で彼女を喜ばせるのに金も欲しい。その白馬のママは中洲若子の友達だし士郎とも挨拶を交わす仲ですからいろいろ情報が入ってくるのです。本当に世間は狭い。

当時作家の今東光が「小股の切れ上がった美人」という表現をしました。これがどんな美人を指すのか分からず「白馬のママ」がそういう美人かと勝手に解釈した記憶があります。

だからこれも余談ですが世界初のケミホタルのイヤリングは中洲士郎の物語では白馬のママの柔らかい耳を飾る事になるのです。そのことは深田正一 氏もご存じありませんでした。

さあケミホタルが動き始めました。だが下手をするとこのチャンスは中洲士郎の手からこぼれ落ちます。考えもしなかった退職が現実味を帯びてきたのです。

秀才には程遠い5人の技術屋が登場したところで中洲士郎の出生や起業して13回もの危機に遭遇した「ケミホタルの話」を始めましょう。時々ブログを覗いてください。