余話(その1)

2006年若子の「赤ひょうたん」が閉じられて3年経っております。

前の年に福岡県西方沖地震があって士郎は「赤ひょうたん」改修と若子が残した銀行借り入れ返済に追われておりました。

そんなある日のこと白馬のママと出会ったのです。その男がいい男かどうかは連れの女を見れば解るものです。

逆にいい女かどうかも連れの男で解ります。

近頃の水商売の女性にあっては「白馬のママ」は際立っていい女でした。物静かで結った髷から推し量ると見事な黒髪が腰まで届いていたでしょう。

色白で小振りで何時も品のいい着物を着こなしていました

そのママが別人のように憔悴しております。中洲士郎に「正一さんが死にんしゃった」と一言。目に涙を溜めております。

その後ママは中洲から姿を消したようです。

あの白馬のママを引きつけた深田正一はきっと心優しい、いい男だったに違いありません。

有田のF社で研究所長に栄達していた栗本も深田の他界に合わせて会社を辞めたとの噂がありました。13代深田正一も気鋭の研究員栗本も伝統の焼物稼業にあっては異才は不要とばかりに忘れ去られているようです。

深田正一は別会社でファインセラミックスを立ち上げるとか栗本はF社を辞めて日本化学発光に馳せるとか共に温室を飛び出す勇気があれば苦しいが面白い人生が開けたでしょうに。

悔いを残さないために勇気が必要だし妖精の声に従ってイバラの方の道を選べば奇跡が起こるのです。

(なーに中洲士郎には捨てるものが何もなかっただけじゃないか)とは妖精の声。確かに。

ケミホタルの話(その21)

そろそろ長いケミホタルの話もお終いです。

中洲士郎の離脱表明から3ヶ月経って突然の栗本の呼び出しが有りました。博多駅前のサンプラザホテルのロビーで役員会を開くというのです。

そこで栗本が直ぐに口を開きました。「本日、自分は日本化学発光役員を退任する。自分達の持株の名義は全て中洲士郎に無償で移す。その代わりこの書面にサインしろ」

書面は今後何事が起こっても一切栗本には関わりがないとの承諾書らしい。株式代金の振込は大島からの裏金だから中洲士郎に全責任をなすりつけたことになる。栗本は何か笑いを秘めている。(日本化学発光は中洲士郎の手で倒産する筈)との読みがあるのだろう。大島の邪魔が入らない新会社を有田に作るのか?土海と藤本を見る栗本の目に何かが感じられる。士郎が信頼した二人と栗本が思い込む二人は違っているかもしれない。

別にどうでもいい。何とかなるさと判断して「分かった」と答えました。         互いに署名捺印を終えて栗本は喜色満面です。

元気良く去る栗本の後ろ姿を見て何か気の毒な気がしました。残った三人は会議を続けます。

いつもの通り喋るのは中洲士郎一人です。

「創業者土海、藤本、福井、中洲士郎4名の持株は平等。一人20%以上は株を持たない。20%は金庫株。中洲士郎、土海、藤本三人が代表権を持ち社長職は当面中洲士郎が取る。土海がS製作所を退職して日本化学発光に就職したら社長を土海に譲る」

この提案に三人は同意して会議は終わりました。

この3ヶ月の間土海と藤本に栗本からどんな働きかけがあったか、大島が栗本に何か脅しをかけたかも遂に聞いていません。泡喰ったのは栗本でしょう。自分が辞めた後誰も自分に付いて来ない。暖簾も捨ててしまった。それだけじゃない世界初のケミホタル開発者の栄誉も暖簾と一緒に捨ててしまったのです。

その後関東や台湾や韓国でコピー品が出現しいずれも栗本の関与が疑われましたが結局老舗を超えることは出来なかったのです。

士郎は実のところ栗本が好敵手であり恩人だから戻るなら何時でも門戸が開いていると口づてに伝えているがあのキラキラ光る目の野心家は40年経った今でも一向に姿を現しません。まだ猫の避妊パンツなど考えているのでしょうか。

以上が中洲士郎を襲った13番危機の第2幕です。

中洲士郎は人生70年有余自ら人を陥れた記憶はありません。が若しかして「人が士郎を裏切るように仕向けたのでないか?」とエンマ様に聞かれたらこう答えよう。

「ごめんなさい。士郎はイカサマ師なのです」

栗本が士郎を騙して逃げた後士郎が体験した11の危機をこれから栗本に話して聞かせます。登場するのは皆栗本や中洲と同じ「びっこのアヒル」です。沈むまいともがく群像劇でした。

ただ一度の人生、何としてでも世に出ようと焦った栗本。夜、家で独りガラス管を焼いて細く引き伸ばしサイリュームのアンプルの液体を口で吸い込んで両端を溶封し今度はパラフィン紙を箸に巻いて溶着してチューブを作りそこにサイリュームの蛍光液と先程のアンプルを入れ蓋をします。出来ました。小学生の様に小躍りして暗い表に出てチューブを光らせ50メートル離れても輝くホタルに見惚れていたのです。同時にその光がフツフツと野心をたぎらせ判断を狂わせました。

だからケミホタルに発明者がいるとしたらその栄誉は栗本に与えましょう。いいですね閻魔大王様

そして「栗本!未だゲームは終わっちゃいないぞ」

この年の12月ソ連がアフガニスタン侵攻を開始しました。

ケミホタルの話(その20)

ケミホタルの話を長々続けております。化学発光という言葉が何度も登場しました。ローハット博士もです。そこで化学発光とは一体何ぞや?について読者に分かりやすく説明させて頂きます。

学校の先生だったら無理やり小難しく話して士郎のような生徒に劣等感を植え付けます。

だがこの物語の作者はそうはいかない。偶然このブログを開いた読者に逃げられたらお終いです。

早川書房に偉大なアイザック・アシモフのノンフィクションシリーズがあります。博覧強記のアシモフは物理や化学や天文学それに生物学や医学など色んな科学のテーマを必ず時系列で説明します。人類の発明発見をそれこそ玉ねぎの皮をむくように解き明かすので落第生の老兵にも理解できるのです。そこでアシモフ先生に倣って化学発光を説明してみます。

1964年米国で新しい化学発光現象の発見がありました。それはベル研究所でチャンベルさん(現存)がシュー酸クロライドという暴れん坊の化学物質をいじくっているうちに発光することを偶然発見したそうです。チャンベルさんは面倒だったのか特許を申請しなかったので金儲け出来ませんでした。しかし後になってチャンベルの発見が化学に新しい領域を開いた事がわかったのです。それは興奮状態にある化学物質が安定状態に戻る時エネルギーを放出するという従来の化学反応と違う励起化学という新しい化学領域でした。近年になって蛍やおわんクラゲの生物発光の研究で人類は貴重な財産を手に入れましたが出発はチャンベルさんの発見でした。

さて米国の1960年代は英国の産業革命に匹敵するアポロ宇宙開発の真っ只中、発明発見が相次ぐ米国は科学技術開発の絶頂期でした。

一方でベトナムに足を突っ込んだ米国国防省は新兵器開発に余念がありません。こんな発光体がどうして口蓋に乗るアポロ計画と関係がありましょうか。宇宙船で使うもんじゃない。当然ベトナム戦争での対ゲリラ戦小道具です。国防省はキャンベルの発見を受けて実用的なホタルの光の開発を予算化します。名目はアポロ計画だが実際はゲリラ戦の過酷な条件下で使用できる照明器の開発でした。ジャングルに潜む敵には見えないが味方にだけ見える光(IR発光)も必要です。

それですごい額の国家予算がおり米国大手化学メーカーがこぞって開発競争に参加しました。多分真面目に取り組んだのはACC(アメリカンサイアナミッド社、老兵の青春の憧れ)のローハット博士チームだけでしょう。

暴れん坊のシュー酸クロライドを手なずけるのに6年の歳月を要しまた。そして生まれたのが最高傑作の反応物質CPPOです。それだけではありません。必要な時に簡単に発光させられる照明器具「サイリューム6インチ」を作り上げました。こういう基本形を作り得たのはローハットが研究者にしてアーティストだったからに違いありません。そのローハット博士も晩年はケプラン事件*で不遇だったようです。(*化学発光の話で展開しましょう)

CPPOとはビストリクロロペンチルオキシカルボニルフェニルオキサレートの略称です。これは暴れもののシュウ酸クロライドに重い化合物を両側にガチャンと繋いで安定化させた物です。1970年についに合成が成功しました。CPPOをオキシフルより少し濃いめの過酸化水素で分解しこの時発生するエネルギーを溶けた蛍光物質が目に見える光に変えるのです。蛍光灯の機能を化学的に起こす様なものです。ここに人類は初めて人工的な蛍の光を手にしたのです。世界特許の一部は米国政府との共有となりましたが製造技術と必要な原料は全てACCが抑えたので世界中誰も真似できない代物となりました。米軍兵士には皆支給されて使用期限が過ぎたライトスティックで遊ぶ兵士のことが巷に漏れ聞かれたようです。

そして1976年モントリオールオリンピックの開会式で世界に衝撃のデビューを果たします。

折り曲げて光る緑の光に誰もウットリし化学に関係する人は今まで知らなかった新しい励起化学に引き込まれました。

サイリューム6インチが出現した。1970年

同時にこの光を盗んで一儲けしようと企む山師が世界中にその数10名程出現したのです。その中で小分けを企んだのは中洲士郎只ひとりでした。ローハットの偉大な発明を前にして新しい化学発光を発明するなどあり得ないことだったのです。たかがケミホタルに発明などの冠はおこがましくって40年間封印していたのはそう言うわけでした。

ケミホタルの話(その19)

その数日後9月のある日、山部興産という栗本が懇意にする博多駅南の会社から中洲士郎呼び出しを受けます。少しいかがわしい筋の会社でしょう。会議室に通されました。こちらは士郎一人相手は7、8名と大島です。

慇懃な挨拶から一転「お前何か謀反を企んでいるらしいな」「一体何のことだ」「シラばくれるな。新しい発光体を開発したそうじゃないか」

大島に目をやると済まなさそうな顔をしている。

「大島が見たと言ってるぞ」「あれか。あれは冗談冗談。大島をからかっただけだ。なあ大島」「お前は粟本が言うように山師だな。覚えておけよ」

長居は無用とばかり山部興産のビルを出ます。大島も一緒に出ました。

「他言するなと言っただろう。これで計画はおじゃんだ。栗本を救うのが難しくなった」と大島に告げると大島はうなだれています。

(ヤッパリ秘密を漏らしたな。小商人の大島の奴、自分の商権が危うくなりそうだからこう動いてしまった)本来の作戦では打倒栗本ではなかった筈だが事態は決別に向かおうとしています。

その足で遠賀のアパート工場に戻ると土海と藤本も居ました。

経緯を話したが二人からは何も反応が有りません。それからもずっとそうでした。経営上に問題が起こると二人はどんな局面でもまるで反応しないのです。暗黙の了解と解すしかありません。

その日は念のために新たに開発した機械類は藤本の家に移しておきました。     程なくして栗本が血相変えてやって来ます。

「どうしたのだ?」

「今、折尾警察署に行ってきた。会社役員が装置類を盗んだので被害届を出したいと相談した」「それでどうだった?」「もう少し冷静に対処せよと諭された」

2軒目のアパート(通称第2工場)のブルーシートを敷いていない部屋の畳に座って栗本と士郎二人で話し合います。

「じゃあ俺は会社を去ろう。税理士もあんたに言ったようにルミナスプロジェクトの経費30万円は設立準備金として経費処理する。そのうちの15万円は株式購入代金としてあんたに払わせて貰いたい」

栗本は士郎の提案を拒絶します。

(会社は初年度僅かの売り上げで大幅赤字が確実。それに大島商会とは面倒な問題を抱えている。中洲士郎がいなければどうにもならないと考えたのでしょう) 

改めて役員会を持つことで話し合いは終わりました。

話の途中で、身を引くと言ったものの、俺には土海の技術がないのだ。あんな電気回路なんか組めやしない。土海と藤本がいなけりゃどうなるだろう。そんな心配が頭をかすめました。

 

ケミホタルの話(その18)

装置の置き場にも窮し隣のアパートも借りました。ガラスアンプルの製造が始まってケミホタルは一貫生産体制となったのです。

アンプルの首が数ミクロンと極細になっているのは酸化液には過酸化水素が含まれるので発火し易く溶封が難しくそれでガスで一瞬に溶封する為に首を細くしているのです。じゃあどうやって酸化液をアンプルに詰めるのか?真空置換です。常識といえば常識ですが注入後の遠心分離やピンホールの選別も含め課題と方法模索の繰り返しでした。

どんな発明も現物を見れば必ずコピー出来ます。この可燃性液体を封入する超小型アンプルの世界最初の発案者は有田の3人の技術チームでしたが結局彼等には栄誉と報酬が付与されませんでした。いつか機会あれば彼ら3人を讃えたいものです。

極小アンプル製造に携わり先ほどのピンホールフクシン検査も含め会社には沢山のノウハウが蓄えられこれが競合の参入を防いだのです。先発者は先に失敗して問題を修正できますがコピー者は秘密の罠で市場からシャットアウトされるのです。「やっぱりケミホタルや」となりました。

次は大島型のケミホタルから新しい形状への挑戦です。ここは専ら士郎の役割でした。化学液と反応して使えない筈のナイロンチューブを特殊な前処理を施すと使える事を発見し、そのチューブの両端を丸く溶封してワンピース成型にするという誰も思いつかなかった成型方法を開発しました。

サイリュームの発明者のローハット博士もこの成型方法をいたく褒めてくれました。これが現在の世界中の細物発光体の定型となっております。

ぎょぎょライトが完成しました。

相場の格言に「人の行く裏に道あり花の山」とあります。技術開発もそうです。定説であっても疑うか検証するかが必要ですね。

ぎょぎょライト開発は小さなチャレンジでしたが、その頃中村修二さんが日亜化学で青色LED開発でまさに裏道を悪戦苦闘し登っています。その行く手にはノーベル賞が待っていたのです。

さあこの新型ぎょぎょライトを武器に勝利を収めるのです。

ここで当時の会社経営状況を分析してみます。日本化学発光は士郎同様出生に問題がありました。嫡出子じゃないのです。起業とはまず投資家即ちステークホルダーが存在するが日本化学発光ではそこが不明でした。一応資本金300万円ですが原資は大島から粟本に裏で渡された500万円から出ています。その株の大半は栗本とその親族が所有。となるとそれは株主個人の借入金です。

だから士郎は栗本に自分の株の代金15万円を返済しました。(実際はルミナスプロジェクト経費30万円との相殺です)

営業面では大島が仕組んだケミフロート抱き合わせ販売でケミホタルの売上が伸びずパートの給料支払いにも窮しております。保証協会を通してもメインのS銀行は僅か300万円の融資も引き受けてくれません。

滅多に出社しない栗本を捕まえて大島から受け取った金の返済を問うと「返す筋合いはない」独占販売の理不尽を問うと「大島には少しだけ売らせとけばいい」これでは近いうちに問題になるだろう。大島のことだ。栗本を脅すことが起こるかもしれない。ここはどうする。

新しい会社を立ち上げるのはどうだろう。

このような状況ではそう考えて当然だが士郎には不思議とそのような選択肢が起こりません。本能的に「錦の御旗」を担ぐ方を選択します。打算的な選択とも言えます。

ここでは日本化学発光を守るのが正義となると思いました。

そこで事はこう言う具合に進んだのです。

大島に対して現状では会社が存続出来ない。大島の販売能力、販売方針ではケミホタルの普及は難しい。改めるべきだ。それに対して大島は栗本との間で交わした証文をちらつかせます。そこには500万円でケミホタルの販売権を買ったとあるのです。

「実は大島、今度新しい発光体ぎょぎょライトが完成した。それは全ての浮子に取り付けられるし漏れの心配が無い構造だ」大島顔色を変えます。

次に卑屈な笑いで「ちょっとそれを見せてくれないか」

細長い澄んだ飴色の美しい外観から緑の光を発し大島それに見惚れました。

「近いうちにその生産ラインを栗本に開示して彼の反省を促す。それまで他に漏らせば争いが起こる。だから他言は無用だ」と

中洲士郎が大島に釘を刺すが・・・

ケミホタルの話(その17)

さて土海は棟方志功が「ねぷた絵」を彫っているような格好でずっと回路図らしきものを書き続けてはリレーをいじくっております。

士郎は又もや蚊帳の外、やることないので仕方なく断熱煉瓦を削って電熱炉をこさえ細いガラス管加熱し延伸する窯をこさえました。何しろ士郎は窯業専門家の筈ですから2人に負けじと技を披露します。ガラスを溶かすには熱量が低いこの方法は飛んだマヌケで全く役に立たず2人の「笑いもん」になりました。ひどくいじけました。

作業に入る前土海の要望を聞いてエアー作動の部材を購入しております。

エアーシリンダー、ソレノイド、タイマー、リレー等です。生まれて初めて接する「魔法の部品」に何だか気持ちが高揚しました。

卒業後本当はやりたかった技術屋の道です。さてそれらの部品が「変な奴」藤本の組み上げるアングルの架台に組み込まれて装置らしきものが姿を現します。  リレーボックスから夥しい電線が装置の各部に接続されました。

「大丈夫動くのだろうか?」固唾を呑んで土海の「よし!」と発する言葉を待ちます。

土海がスイッチを入れます。

ガチャガチャ騒音を発しながら直に装置の動きが停まりました。それから待つこと1時間。再開するが結果は同じです。「寡黙の男」は又もやブルーシートの上で回路図を見直しては考え込みます。それも去年のカレンダーの裏面に鉛筆で書かれたものです。

今ならシーケンサーというマイコンが普及しているから回路の組み込みも楽だが当時はタイマーとリレーでシリンダーを動かすので装置を上手く作動させるのが難しい。

結局そ日は諦めて翌日の日曜日再開することになりました。

土海独り悪戦苦闘、午後になって「よし」と一言寡黙の男。                              スイッチが入りました。

2mの細いガラス管の端をチャックがつまみ2cm引き出す。ガスバーナーの火口がガラス管の下に来て2秒ガラス管を加熱、火口が戻ると左側のチャックはガラス管を固定し右側のチャックが2cm右に進む。すると赤熱したガラス管が伸びて細い首になる。今度は左チャックが開き右チャックが3cm右に進んで火口は5秒留まりガラス管を焼き切る。すると右チャックが開いて首が繋がった2個のアンプルが下に落ちる。

この動作の繰り返えしでみるみるアンプルが出来上がって行くではありませんか。

人生で滅多に味わえない感動がそこにありました。

畳に敷かれた皺くちゃのブルーシートの部屋、それは士郎にとっての桃源郷に映ります。

「変な奴」が両手を左右に伸ばしながら部屋をうろついていたのはパートの手作業を装置にイメージしていたのでした。藤本は士郎が切り出すアングルを実に器用に組み上げて部材を組込み装置に仕上げております。

「参った参った」土海と藤本この二人、凄いやつだった。

これで会社は何とかなるだろう。一生二人を大切にしなければとその光景で思ったものです。それからは士郎も面白くなって装置の開発を手掛けます。

ケミホタルの話(その16)

ケミホタルの生産が終わり10名程の近所のパートさんが帰宅した後のアパート工場です。

 「変な奴」藤本が両手を左右に伸縮させて部屋をうろつきます。その仕草「俺は考えているだ」と見せんばかりでイヤミでした。彼は日大の化学を出て就職するが1年程で会社を辞めて弁理士を目指す受験浪人、30過ぎて独身、かなり深刻な人生にハマろうとしておりました。

行く先ヤバイ、弁理士資格取得も難しい、嫁さんも貰えんと考えて士郎に赤ひょうたんで仲間入りを頼んで来た男です。釣りが上手く指先が器用です。特許も書けるしアパート工場で発光体のテストや生産現場で表す特殊な才能に士郎は藤本に一目置くようになっております。

そして「寡黙の男」土海を見やると畳を覆うブルーシートに座り込んで長いことカレンダーの裏面に回路図を書き込んでいます。彼は本当に喋らん男で士郎より7歳年上S製作所で営業主任をやっております。工業高校の電気系を出て一流企業に奉職したわけだがここは典型的な学歴偏重の会社、高卒ということで出世もさせてもらえません。40過ぎて部下の付かない主任でした。元々寡黙な青年、社会で要領良くは振舞えません。機械大好き猟官活動などまっぴらの仕事人でした。

有田のF社は彼の担当でそれで栗本と知り合ったのです。九電も彼の担当でしたが信義に厚くそれに滅法メカに強いのでお客の信任が大きいだろうと士郎は判断しました。次第にこの男の生き方に強く引かれるようになったのです。彼の僅かな話を手繰ると機械いじり大好き少年で目覚まし時計や簡単な電気製品の修理を引き受けては村人に喜ばれていたことや風貌や物腰からソニーの創業者井深大に近い人生回路の持ち主だろうと思います。

いつかも九電に収めた高価な化学分析装置が故障したのを遠賀のアパート工場に持ち込み徹夜で修理しておりました。「福岡支店では誰も直せん」ポツリそう漏らすのを聴くとチャラチャラした有名大学出身の同僚社員達へのライバル意識も相当なものだと感じました。

時折見せる鋭い眼差しが胸の内に秘める強いものを感じさせます。結局この先の危機で土海とは長らく袂を分かつ事になりますが彼の生き様戦い様を後ほど皆様にじっくり物語しましょう。

 

ケミホタルの話(その15)

1979年2月の東京釣具見本市でケミホタルが派手にデビューしました。             これは即ち日本化学発光中洲士郎と大島商会大島東一の対立の幕開けです。

大島からすれば栗本に500万円渡して釣具向け独占販売権を持つので士郎の販売での出しゃばりは好ましくありません。それに最初のケミホタルの形状は大島の希望を容れてロケット型で底に差し込み口が有ります。佐賀の福昭工業という成型屋で専ら士郎が立ち会って金型を作りプラスチック成型を行ったものです。

このような場合、金型代は依頼主の大島が支払う代わりにケミホタルは大島以外に販売できません。

だが姑息なことに大島は6種類のケミホタル専用浮子「ケミフロート」を発売して釣具店にはケミホタル単品販売を禁じたのです。

これはどんな浮子でも夜釣りが出来るとの謳い文句に反し市場からブーイングが起こりました。大島からすれば早く投資を回収する当然の手段だとして市場の声を無視します。おまけにケミホタルの穴にケミフロートを差し込む仕様ですからケミホタルの底を浮子が破って液が漏れるクレームが多発しました。

浮子を投ずると海面が漏れた液で光って「漏れホタル」と揶揄される始末です。最初の勢いはどこに消えたのかピタリと売れなくなりました。

そんなこんなで大島からの注文が全然伸びず経営は苦しくなるばかり、会社の資金は底をつきパートへの給与も払えません。栗本は会社に顔を見せなくなりました。大島の奴、敢えて中洲を窮地に落とし込む算段です。

これはヤバイと浅草の玩具の問屋を回って西多さんの所で夜店の水風船にケミホタルを入れて水チカホタルと命名して発売しました。注文は僅かでしたが大島を経由せずにここから夜店向けの販売が始まりその後のテキ屋相手の大太刀回りへと繋がっていきます。

しかし釣り人が別のところで人気を作り始めたのです。魚釣りじゃなくて丘釣りです。場末の所謂ピンクサロンでホステスの下着にケミホタルを入れて遊ぶのが流行りだしました。

実際中洲士郎と藤本二人で北九州は黒崎のピンサロでそれをやったらもう大受け。士郎調子に乗って暗がりでケミホタルを口に含んで「ニイーッ」とやるとホステス達に馬鹿受けしました。

さてさて中洲士郎第2の危機栗本編の最中、第3の大島危機までもが予感されるようになり対応上、中洲士郎はガラスアンプルの自作と新型発光体の開発を目標に据えたのです。

これを士郎は「ぎょぎょライト作戦」と名付けて行動を開始します。

ケミホタルの話(その14)

1979年も2月に入りいよいよ釣具界に打って出る時が来ました。

当時東京での釣具見本市は晴海の国際展示場で開催されております。大島商会がツテを頼んで釣具の大手問屋ツネマツのブースにケミホタル展示用の机を置いてくれることになりました。

中洲士郎一連のモヤモヤを払拭し起業を世界にアナウンスしようと野心を膨らませてここに乗り込んだのです。大島の存在など眼中にありません。

開演と同時に小さな机の上に正座してガマの油売り宜しく大声でケミホタル出現の口上を並べます。

貴重なサンプル簡単には折って光らす訳には参りません。通路が見物客で埋まった頃を見計らい、観衆にせかされながらケミホタルを折り曲げるや発する光に驚きの声。

その騒ぎに何事かと更に人が集まり遠くの通路までが埋まってしまいました。遂には事務局から止めるよう注意を受けるも構わず口上を続けます。

「兄ちゃん。そのケミホタル何処に売っとるんや」「有名釣具店なら何処でも置いとるよ」実際は未だどこにも配貨されていません。最大手のO釣り具問屋でさえマイナーな夜釣りのそんな商品なんか売れないだろうと思って手を出しませんでした。

「ケミホタル」のこの時の釣り具界出現はまさに彗星のようだったと語り継がれました。この見本市の後全国の問屋から大島に注文がドンドン入ったのは勿論です。

ケミホタルの話(その13)

    前回で士郎に「企みの芽」が出て、行く手に嵐の雲漂うことを話しました。

諸君、ブログというものは本当に不思議ですね。「もう過ぎた事よ」と封印していたものを物語に書き出すやその時見えなかった姿、顔、心が亡霊となって蘇り「正しく記録に残せ」と筆者に迫って来るのです。それは画家がキャンバスに向かうと事象が「自分を描き残せ」と画家に迫るのと同じかも知れません。

さて1979年2月形式上はルミナスプロジェクトが発展的に解消され福岡県遠賀町に「日本化学発光株式会社」が設立されました。

本来なら胸躍るはずなのに「赤ひょうたん」を飛び出しアパートの押入れで寝泊まりするうちに中洲士郎は何か疎外感を感じ始めたのです。

というのは遠賀町のアパート賃借の件が中洲士郎抜きで決定されたのを始め大島商会との取引や重要な案件が士郎蚊帳の外で進みます。そして「中洲には製品一個あたり1円の特許料を支払う」等と栗本が口にするようになったのです。

栗本には士郎の存在が目障りになって来たようです。士郎を排除して事前にトラブルの芽を摘もうとしたのでしょうか。

1月4日の事です。栗本の要請で土海、藤本と連れ立って有田のF社の深田社長宅を新年の挨拶に訪問することになりました。

なぜご挨拶に行くのか訳も分からず大邸宅の門をくぐると沢山の社員が黒光りする床や柱を更に磨き上げているのが目に入ります。深田社長は自慢のカラオケルーム等を案内して上機嫌でした。

今あの時の情景の一部始終と因襲の世界の空気が士郎に迫ってまいります。この因襲の世界で粟本と社長の深田正一が当時急成長中の京セラに倣って有田にファインセラミックス事業を立ち上げようとしていたわけです。

だがその栗本と深田正一の顔に翳りが映っています。深田正一には「東大に行ける頭のいい跡継ぎを作るのが貴方の使命ですよ。有田焼の伝統を壊すような言動は慎んで下さいね」と。栗本には「焼物を何も知らない社長をそそのかしてファインセラミックス等にうつつを抜かすな」とのチクリや忠告が社内に溢れているようです。

あの大邸宅の中で問題児二人と同じく士郎も何か居心地の悪さを感じたのはそんな背景があったのかも知れません。

栗本は九大に一時期開設された教員養成所を卒業して伊万里の高校教師となりましたが事業家への夢を膨らませてF社に転職したのです。恐らく彼のことです。社長の家の床を磨く世界など真っ平で、入り婿深田正一の懐に飛び込みファインセラミックスで共に世に出ようとしたのでしょう。メディアには九大卒と詐称してまで自己顕示欲の強いその男には中洲士郎同様生い立ちに秘密が有るのかも知れません。 

だが到底京セラなんかとは太刀打ちできません。そこで中洲士郎を排除してまでケミホタルを独占しようとしたのでしょうか。  

数日して深田正一氏に中洲川端で夕食に誘われご一緒しました。深田氏の日本を代表する名陶老舗の社長に相応しい風貌の前に中洲は小さくかしこまりました。その席でM百貨店のY外商部長を紹介されたのです。老舗に巣食う百貨店外商部の構図。そしてそこで商権を一手に握る部長。そのYは高卒ながら時の人M百貨店O社長に取り入り部長にまで昇進したやり手でまさに曲者中の曲者。深田社長との出会いはそれが最後でしたが世間知らずの中洲士郎その後数年間このY部長の謀略に振り回されることになりました。

結局有田にファインセラミックスの灯を輝かせずに深田正一氏の他界が2006年にひっそりと報じられたのです。この間の26年間F社の中で化学発光とファインセラミックスがどの様な物語を編んだのか知る機会がありませんでした。ただ深田社長の他界と同時に栗本がF社の研究所長を辞して独立したとの噂を耳にしました。風貌も言動も大らかな深田社長と瞳を煌めかせて挑戦する栗本にあの後一度も会う機会がありませんでした。何しろ次々と難題が降りかかり、来る日も来る日も問題処理に忙殺されたので栗本を思い出す余裕も無かったのです。

あの日中洲士郎が深田社長豪邸の舞台で戸惑っていた頃、中洲タエは団地の家の前で娘と羽子板やっていて両アキレス腱を切断し玄関口でうずくまっていたのです。1979年は激動の幕開けでした。