ネット(地図の資料館)に古い中洲の写真がありました。
那珂川の河畔に建つ白い建物が文士や学者が集った喫茶店のブラジレイロ、その隣の黒い大きな建物が博多一番の高級旅館玉川です。戦災後区画整理で旅館玉川は跡形もなくなり女将の中川フクは川沿いで小さな割烹なか川を営んでおりました。市電のずっと先が東公園でその入口に「一方亭」があり終戦で米軍に接収されて指令本部になった後火災で消失してしまいました。3代目女将の高橋朝子一家は大名町の新雁林町に移り住んでおります。
この老舗の旅館玉川の女将は中川フクという中洲切っての女傑です。一方亭の三代目女将の高橋朝子の亭主高橋敏雄は中川フクの従兄弟(養子)で両家は親戚付き合いの中です。料亭と共存する花柳界は義理と人情の世界、若子は亥蔵に身請けされ士郎をもうけた後も朝子女将とフク姐さんこと通称「お福しゃん」には何かと世話になっておりました。
そのお福しゃんの仲立ちで博多の実業家飯山稔の世話になったのでしょう。飯山の奔走で米軍将校からペニシリンが手に入り千代町病院で喉の切開の後ペニシリン注射で奇跡的に士郎は一命を取り止めました。残った半分のペニシリンで治療費も免じて貰えたと若子が言ってました。当時はペニシリンは治療効果が絶大だったので大変な貴重品、当然高額だったのです。そして士郎の喉には記念に大きな傷が残りました。
「一方亭懐古録」を読んで初めて知りました。昭和26年夏中洲母子が中洲から移り住んだ新雁林町の間借りの青木宅から高橋朝子女将のお屋敷は目と鼻の先だったのです。この事は取りも直さず高橋家の皆さんから中洲母子ずっと目を掛けて頂いていた証なのでしょう。
ペニシリンの薬効は強烈でした。瞬く間にジフテリア菌は駆逐され熱も引き大きな喉の切開口もふさがり四才になった幼児の五感が躍動を始めたのです。それは確かに記憶に有ります。暗い部屋で一人寝かされておりました。家には誰もいません。目が覚めると頭がスッキリして身体はふわふわと浮くような感じでした。薄暗く湿った部屋から表(おもて)の長屋の軒を連ねた路地に下駄を履いて出たのを覚えております。兎に角生き返った心地よさを感じました。コンクリートがすり減って玉じゃりが浮き上がった共同洗い場を左に折れて更に薄暗い細い路地に入ると左側には馴染みの板塀、見るとそれが緑の苔に覆われ湿気を十分に吸って鮮やかな黒緑色に光っています。そこから小便の匂いが冷たく伝わって来ました。光が漏れているその板塀の節穴に目をやると陽光が本当に燦々と中の畑に降り注いでいたのです。
路地の先はヨーカンと称して板付基地を出入りする進駐軍の大型トラックがうなりをあげて突っ走る怖い大通りです。急いで右に折れてその先の更に小さなドブ川の手前土手道を用心して進むと直ぐに轟音が耳に入ります。鍛冶場です。裸の上半身が炎を受けて真っ赤に染った屈強な数人の男が大きな鉄の塊をヨイトマキで引き上げては真っ赤に焼けた鉄片に落としています。今考えれば鍛造作業です。おばさん達も働いています。皆んなそりゃ汚い格好でした。傍に座って眺めていましたが急に空腹を覚え再び家の前の道を通り過ぎて6丁目のドブ川を左に折れてコンクリートの橋を渡ったところにパン工場が有るのです。ここに行って窓越しに覗くと壁を伝ってバンが面白く走っています。パンの列が士郎の目の前にやって来ました。いい匂いです。コッペパンです。よく見ると割れ目にキザラの砂糖が美味しそうに光っていました。
若子は芸妓から足を洗いパトロンの飯山の出資で中洲人形小路に小さなバー「メーゾンお染め」を開店します。そりゃ置屋に売られてから客扱いの訓練を受け水商売の世界を穴が空くほど見つめて来た若子ですからバーは大層繁盛しました。「中洲の士郎」も皆んなに可愛がられて人気者です。しかし学業は酷いもので冷泉小学校の担任の中原先生は恨みでもあったのか一学期の通信簿は全て右端一列に⚫️印でした。
その楽しい一年生の夏災禍が起こりました。若子がパトロンの飯山とタクシーで一緒の時事故で顎に大怪我をしたのです。世間体もあって事故は表に出ず店は畳まれ若子は今度はしっかりと学問の街大名町に士郎を連れて引っ越ししました。顎に傷跡のある妙齢の色街娘と喉に傷跡のある中洲育ちのガキが静かな新雁林町にやって来て騒動を起こすのです。
高橋貞行氏が懐古録に懐かしい雁林町の地図を描いてくれております。
地図の中の新雁林町で青木宅を出て大名小学校に登校するところ。
左から中洲士郎、一級下の水の江君、青木君代、君代の親戚です。