ケミホタルの話(その7)

小石原(こいしわら)村梶山の山一窯とのそもそもの出会いをお話しましょう。

中洲士郎高校生の時、都落ちの附設の勉強が嫌で5万分の1の地図を手に独りトレッキングをしました。時にはヘッセの漂泊の人の気分になって「フランス詩集」を手にベルレーヌやランボーを暗記しながらです。

ある時福岡の名峰英彦山に登らず日田の方に歩いて薄暗い林道に入りました。樹々が生い茂り見通しの効かない細道を甘酸っぱい野イチゴを食べながら歩く事2時間、突然視界が開けた先が小石原村だったのです。

当時は小石原川に沿って粗末な木造の窯元が並び唐臼が沢山音を立てておりました。村外れの一軒の小さな作業小屋に立ち寄りました。梶山の山一窯でした。隙間だらけの野地板で冬の隙間風がこたえそうです。蹴ロクロ1台の作業場から瘦せぎすの50がらみの陶工が前掛を置いてにこやかに迎えてくれました。英彦山から歩いて来たと告げると作業場の奥から家族も出て来てお茶と山菜漬けを振舞ってくれます。後で聞くと3人娘の親父は男児が欲しかったらしく男の子に目が無かったそうです。帰りにはコーヒー碗を新聞紙に包みバス賃までくれて見送って貰いました。その後も遊びに行くようになり家族の皆さんと親しくなり50年経ってもあの日の事が話に出ます。いつのまにか「爺さんが貧乏高校生士郎に2000円上げた」と話が膨らんでおります。実際は50円位のバス賃でしたが使わずに夜道を大隈迄歩いて行きました。その夜道を大きな茶色の犬が何時迄も付いて来てくれた記憶が残っております。

そこの親父が好きになってちょくちょく顔を出しました。本当の父親みたいでした。泊まって行ったこともあるらしい。子供は3人姉妹で長女は高校生、利発そうな娘で窯元だから婿養子を取るのかと想像しました。言葉を交わした記憶はありません。

しかし縁は奇なものですね。山一窯にとって「赤ひょうたん」はお得意様で中洲若子は大切な客人だったのです。

2011年頃車椅子の母若子を連れて梶山を訪れました。そしたら思いがけず、和服がよく似合っているカツエさんが現れ窯元の女将姿も板に付いて囲炉裏で若子と士郎をもてなしてくれたのです。

おっ母ん殆ど口は開かなかったけれど帰りの車では、それは嬉しそうに思いに耽っておりました。

「それで焼物修行はどうなったか?」というと、

6月のある早朝家を出て直ぐに広い車道でネズミ捕りに掛かって免停を食らったのです。もう悔しくて悔しくて「この先ネズミ捕り」の板ギレを振って取り締まりを妨害しながら・・・ふと、窯暮れ人生の半年の夢に見切りを付ける気になったのです。今も自宅のガレージに蹴ロクロが豊太郎直伝の左蹴りでの一升徳利の再生をじっと待っております。

秀吉の朝鮮の役で沢山の陶工が日本に連れて来られました。先ず唐津や伊万里に入ったのでしょう。彼ら陶工達は北の方に故郷を偲びながら良質の陶石や陶土を探して九州各地をさまよいました。日田英彦山線で英彦山の先に岩屋という駅がありここから日田の方に歩くと小川に沿って小鹿田(おんだ)村に出ます。                  

ここ小鹿田焼は小石原焼の兄弟窯だと紹介されていますが民芸運動でバーナード・リーチに激賞されて小石原焼よりも一躍有名になりました。問題は蹴ろくろの回転方向です。豊太郎爺さんの説明では小石原焼では右蹴りで右回転。それに対して小鹿田焼は左蹴り左回転だそうで小石原では豊太郎爺さんが唯一左回転だそうです。だとすれば豊太郎唯一の弟子の中洲士郎が小石原焼唯一の左回転陶工となったかもしれないのです。

この次小鹿田と小石原に行かれたら轆轤の回転方向を見定めて下さいね。

中洲士郎、失業してから三つの仕事を同時並行で進めて独立開業を模索することにしました。一つは若子の「赤ひょうたん」の軒先を借りて「握り飯」を売って日銭を稼ぐこと。次は「ケミホタル」事業化のための「ルミナスプロジェクト」を開業すること。そして欲張りだが陶芸家の道を探ることでした。

そんな経緯で陶芸家の道は諦めました。次に握り飯屋の話をしましょう。

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